有蘇国の美姫
紂王伝 第24話 「すまない、妲よ……! 我らはあの侵略者に、膝を屈することとなってしまった」目の前で、有蘇国の長である父上が深く頭を下げていた。その背中は、これまでに見たことがないほど小さく、震えている。「そこで人質として……妲よ、帝辛に嫁いでくれ」心臓が、どくりと大きく跳ねた。帝辛と呼ばれる、商(殷)の若き覇王。圧倒的な武力で諸侯を蹂躙する、恐るべき侵略者。その男の元へ、一人で赴けというのか。「和平の橋渡し役にと、お前には侍女を10名付けよう。……それだけではない。密かに100名ほどの屈強な若者たちを朝歌に潜伏させる。もし何かあれば、彼らがお前の力になってくれるはずだ」父上の言葉は、娘を敵地に送り出さねばならない苦渋と、せめてもの親心が入り混じっていた。「有蘇国の美姫」いつしか周囲からそう もてはやされ、何不自由なく美しく育ってきた。けれど、その贅沢な暮らしの対価を支払う時が、ついに来てしまったのだ。本当は、怖い。今すぐこの場に泣き崩れて、「行きたくない」と駄々をこねたい。しかし、私は有蘇国の姫なのだ。今日まで国の人々の汗と涙によって豊かに暮らせたのは、まさにこの時のために、責任を果たすため。――今が、その時だ。私は溢れそうになる涙をぐっと奥へ押し込み、衣服の裾を整えて、静かに微笑んだ。「父上、どうか頭を上げてください」凛とした声が出るよう、自分を奮い立たせる。「今まで育ててくださり、本当にありがとうございました。妲は、幸せにございます。有蘇の民のため、この命、喜んで商の王へと捧げましょう」その微笑みの裏にある恐怖を隠し通すこと。それが、私が最初に背負うべき「姫としての戦い」だった。こうして、のちに歴史を揺るがす美姫・妲己の、朝歌への旅路が始まる。




