苦悩
紂王伝 第125話 九国の軍勢が、撤退を開始した。戦場を冷静に観察すれば、敵の左軍と中軍は完全に壊滅状態に陥り、生き残った九国の兵たちが散り散りになって我先にと敗走している。しかし、その一方で、傷の浅かった敵の右軍五千を中心とした集団に、本陣の一千の兵が合流し、彼らだけは驚くほど乱れず整然と退却に移っていた。逃げ惑う烏合の衆と、秩序を保ったまま退く本隊。私は即座に、追撃の矛先を前者へと定めた。「期よ。お前が正規軍二万を率い、ばらけて逃げ行く敵の残党どもへ追撃を仕掛けよ。ただし、期間は三日間とする。深追いは無用、決して無理はするな」「ハッ」私の指示を受け、期は手際よく軍をまとめると、地鳴りを立てて敗残兵の掃討へと向かっていった。私は残った正規軍の将兵たちへ、戦場に転がる骸の処理や武器の回収といった後始末を指示して、私は己の親衛隊五千を引き連れて、一足先に都・朝歌への帰路についた。期たちも追撃戦を終えれば、あと六、七日もすれば朝歌へと帰還するだろう。王たる私は、彼らが戻るまでの間に、今回の戦勝を受けた九国に対する戦後対応を確定させねばならなかった。(此度の歴史的な大敗を経て、新九侯が再び商へ恭順の意を示し、大人しく服してくれるのであれば、それが一番なのだが……)馬の背に揺られながら、私は冷徹に大局を思考する。先代九侯の朝歌での暗殺未遂と死亡。あるいは今回の、新九侯による二万の大軍を率いた商への明確な反逆。これだけの不敬と大罪が立て続けに起きたのだ。流石に、我が商の朝廷に並ぶ家臣たちを「寛大な処置」だけで説得するのは、今回ばかりは不可能に近い。商の威信を示すためにも、九国へ遠征軍を派遣せねばなるまい。新九侯を公式に降伏という形へ追い込み、商に対して多大なる貢ぎ物や臣下の礼といった「それなりの見返り」を出させねば、比干叔父上ら朝廷の家臣たちも納得はすまい。しかし――それこそが、為政者としての苦悩だった。九国は太行山の西側という遥か遠方に位置し、周辺国を脅かす狂暴な蛮族どもの牙を防ぐ、王朝にとっての極めて重要な『盾』なのだ。家臣たちの不満を宥めるために九国をあまりに叩き潰し、その軍事力を過度に弱体化させてしまえば、商の防波堤が決壊し、結果として王朝そのものが北西からの脅威に晒されることになる。(強大すぎる罰を与えれば盾が壊れる。さりとて、罰が軽ければ国内の示しがつかぬ……。まったく、統治というものは、どうしてこうも上手くいかないものだな)私は己の胸の内に湧き上がった苦い溜息を、乾いた秋の風へと逃がした。まあ、今ここで一人で気を病んだところで、名案が降ってくるわけでもない。都へ戻り、叔父上たちを交えてじっくりと策を図るほかないか。背中に受けていた傷の軽い痛みを覚えることも忘れ、私は手綱を握り直すと、愛しい家族と山積みの内政書類が待つ朝歌の城門へと向かって、馬の速度を上げるのだった。




