奔流
紂王伝 第124話 九侯は二万の軍勢を、中軍一万、そしてその左右に五千ずつと三軍に分割した。そしてまず、左軍の五千を前進させてきた。人間の構造上、戦場で手にする矛は右側へは動かしやすいが、左側への対処は咄嗟に遅れやすい。九侯の先制の意図は、おそらくその弱点を突くための戦術的配置なのだろう。定石の兵法であれば、こちらも即座に左側の軍団を前進させて敵の出鼻を挫くべき局面である。しかし――総指揮を任された期の下した采配は、私の予想を大きく外れるものだった。期は、陣廷の最中央に据えられた戦車隊一万(五百乗)と、悪来率いる親衛隊をその場に待機させたまま、それ以外の主力正規軍三万を、左右それぞれ一万五千ずつ同時に等しく前進させ始めたのだ。(ふむ……。戦術にそこまで詳しくない私には、今の段階では奴の狙いの全容までは理解が及ばんな)一体、何が狙いだ?中央に戦車隊と親衛隊を残したまま、商の左右の軍勢が地鳴りを立てて前進を開始したことにより、突き進んできた九侯の左軍五千、そして敵の正規軍右軍一万五千とが急速に接近していく。間合いが詰まるや否や、両軍の間で空を覆い尽くすほどの激しい弓矢の応酬が始まった。しかし、数でも、日頃の練度でも我が商軍が圧倒している。矢の雨を浴びた九侯の左軍は見る間にすり潰され、その前進は完全に停止した。前線の突破を嫌ったか、あるいはここを勝機と踏んだか。九侯の中軍一万が、我が正規軍の正面に向けて一斉に動き出した。これで、局地的な兵力数はほぼ互角。だが、すでに九侯の左軍は押し込まれており、中軍は後方からの配置となるため、敵の方が少し良い位置を占めているようにも見える。互角の泥仕合に持ち込まれるか――そう思った、まさにその瞬間だった。本陣から、鋭く、高い角笛の音が響き渡る。全軍突撃の合図だ。「よし。悪来、頼むぞ」待機していた我が中央の正規軍戦車隊一万――五百乗の重装戦車、そして親衛隊二百乗の戦車と歩兵二千四百が一斉に大地を鳴動させ、敵の土手っ腹へと向けて凄まじい速度で突撃を開始した。うん……? だが、悪来自身が率いる五百の騎馬隊は、まだその場から動いていないな。まあよい。すべての親衛隊の采配は悪来の指揮に委ねてあるのだ。期待に応えろよ。商の圧倒的な鉄の奔流は、正面から九国の中軍をいとも容易く貫き、敵兵を容赦なく蹂躙しながら鮮血の戦場を真っ直ぐに突き抜けた。よし、このまま反転して敵の中軍をさらにすり潰そう――そう身構えた、まさにその時だった。敵の総本陣を守っていたはずの残兵千の中から、突如として二百頭の騎馬隊が飛び出し、方向転換の最中にある我が戦車隊の脇腹へと猛烈な突撃を仕掛けてきたのだ。「くっ、小回りの利かない戦車の転回の瞬間を狙ったか……!」周囲の兵たちに一瞬の動揺が走る。だが、戦車とは四方を強固な盾で囲まれた、いわば戦場を駆ける『小型の砦』だ。たかだか二百程度の数でどうにかできると思うなよ。しかし、応戦する私の目に、敵の真の狙いが飛び込んできた。違う。奴らの騎馬は戦車隊の隊列を崩しにきたのではない。ただひたすらに、私が鎮座するこの親衛隊の中央――いや、この私自身の首だけを一点に見据えて肉薄してきたのだ。「――舐めるなよ」私は戦車の上から手にした大矛を振り回し、迫り来る敵の騎馬へと容赦なく対処した。凄まじい風切り音と共に、突っ込んできた九国の騎馬兵たちが、馬ごと次々と肉塊に変えられていく。私の凄絶な迎撃によって勢いを削がれ、通り抜けた敵の残兵は、わずか百騎ほど。そこへ、本陣でずっと牙を研ぎ澄ませて待機していた、悪来の駆る五百の騎馬隊が背後から痛撃を喰らわせた。はは……。王を囮に使いおったな、悪来め。だが、これで完全に決まったな。戦場を見渡せば、九国の右軍は完全に戦意を喪失して後退を始めており、左軍と中軍もすでに半壊状態だ。私を討ち取るという唯一の博打を外した時点で、九侯の賭けは終わりだ。更に、悪来の騎馬隊が九侯の騎馬隊を潰した時点でトドメだったな。中原の平原は、商の圧倒的な武の力の前に、ただただ一方的な蹂躙の舞台へと変わっていくのだった。




