顎侯
紂王伝 第117話 我が鄂国の前に、以前から大量の商いを行っている大商人――呂望が姿を現し、とんでもない知らせを届けてきた。「先代の跡を継いだ新君主のもと、九国は自ら二万もの大軍を組織し、今頃は商へ向けて侵攻を開始しております」それを聞き、私は内心で激しい困惑を覚えた。なぜこれほどの速さで、そんな特大の情報を届けることができるのだ。我が鄂の地から九国まではおよそ六百キロも離れている。どんなに早馬を走らせたところで、現時点でその事変を知ることなど物理的に不可能なはず。我が国には、やっと最近になって「九侯の姫が死に、朝歌へ呼ばれた九侯も殺害されたらしい」という曖昧な報告が届いたばかりなのだ。「――で、呂望殿。我らに何を望む。南方の我ら鄂に、北西の戦が何の関わりがあるというのだ」怪訝な目を向ける私に、呂望は不敵な笑みを深く浮かべた。「ふふ、これはこれは、鄂侯殿。……西伯の周が幽閉され、その後継者の伯邑考が殺害されました。次いで、北西の伯である九侯の娘と、九侯自身が殺害されました。――さて、商の魔の手は、次にどこへ向かいますかな?」「……何だと」「近年の暴政により、商王朝自身はどんどん巨大に、強大になっています。自身に最悪の災いが訪れるその瞬間まで、ただ座して静観されるおつもりか?」たかが商人風情が、大きく出たものだ。……だが、奴の言うことには、一理ある。周もまた長年、西南の姜方と争い、商の西の盾となっていた。九侯の九国も、周りは敵対する蛮族ばかりで、長年北西の盾として血を流してきた。端から見れば、それら全てが商のための防波堤だ。そして我ら鄂もまた、南方の虎方などと争い、商の南の盾となって久しい。西の周、北西の九国が潰された。ならば次は我ら鄂か、あるいは召か、はたまた崇か。まあ、あの野蛮な暴君の治世がこのまま続くのであれば、次は我が国に矛先が向くなど時間の問題かもしれない。「して、呂望殿。仮に我ら鄂が商に対して動くとして……お前は我らに、相応の支援をしてくれるのかな? その中身次第では、こちらも考えてみなくもないが」私はあえて無理難題を押し付け、奴の出方を試した。商人に用意できる支援など、たかが知れている。これで、奴が持ってきた情報収集の労への見返り(対価)を踏み倒す口実にもなると踏んだのだ。――だが、意外なことに。呂望の口から提示されたのは、商人という枠を遥かに超えた、あまりにも多大で魅力的な軍事支援の内容であった。「あくまでも、対等の『取引』としてでございますが……いかがですかな?」「……良かろう」奴の後ろに潜む底知れぬ巨大利権の気配に薄気味悪さを覚えつつも、これだけの条件を出されて乗らぬ手はない。情報提供の見返りもこれで帳消しだ。「我が鄂国も腹を決めた。――商に対して、戦争を仕掛けよう」私は眼前の不気味な商人と固い握手を交わしながら、中原の南から王朝の脇腹を突き刺す、極秘裏の軍事決断を下すのだった。




