不退
紂王伝 第111話 ――娘の傅華が、朝歌の邸宅で自ら命を絶った。護衛として同行していた商の正規軍からその最悪の急報がもたらされたのは、私が大軍の使節団を率いて、王都へと向かう行軍の最中のことであった。「九侯様! 華様が亡くなられたとなれば、これは明らかに商の罠にございます!」「これ以上進むのは危険極まりない! 今すぐ軍を引き返し、本国へ戻るべきです!」周囲の家臣たちは色めき立ち、口々に退却を叫んで騒ぎ立てる。だが、私はすでに、腹の底で冷徹な覚悟を決めていた。「黙れ。ここで引き返して何になる。商の『暴君』に、戦う前から背を向けて逃げ出したという不名誉を天下に晒すだけだ」私は騒ぐ家臣たちを鋭い一喝で黙らせると、私たちの護衛兼監視役として随伴していた商の兵士の責任者へと歩み寄った。「使者の半数は、荷物とともに九国へと送り返す。――だが、私はこのまま朝歌へ進む。帝辛との直接会談を望む旨をすぐさま本国へ急報し、段取りを調えよ」「……は、はい。この度は、我が王朝の管理が行き届かず……誠に、申し訳ございません」商の責任者は、顔を青ざめさせながら気まずそうに頭を下げて謝罪を述べてきた。だが、ただの末端の兵卒にここで頭を下げられたところで、我が愛娘の命が戻るわけでも、この政治的窮地が覆るわけでもない。私は彼を一瞥すると、すぐに残った信頼できる家臣を呼び寄せ、国元の弟へと宛てた最後の伝言を託した。「国元の弟に伝えよ。――『私はもはや、生きて九国の土を踏むことは叶わぬだろう。これより先は、お前が次の九侯として国を統べよ』とな」すべてを失う準備は、すでに調った。西の最前線を担う周伯・姫昌の幽閉。そして、その後継者であった伯邑考の凄惨極まる暗殺。そして今度は、北西の最前線で商の盾として二百年踏ん張ってきた我が九国に対し、娘の命を奪うというこれ以上ない不敬と挑発を仕掛けてきたのだ。(――ああ、上等だとも、帝辛……ッ!)娘を死に追いやり、我が国を戦火へと引きずり込もうというのなら、その誘いに乗ってやろうではないか。たとえこの身がどうなろうとも、ただでは死なぬ。一矢報いて、あの傲慢な王の首をこの手で捩じ切ってやる。あまり諸侯を、二百年の名門を舐めるなよ、若造が。私は怒りで視界を血の色に染め上げながら、破滅へと続く朝歌への道を、ただ真っ直ぐに突き進んでゆくのだった。




