第09話 計算された野心 ※ロザリンド視点
鏡台の前に、ロザリンド・ベルモントは座っていた。
鏡に映る自分の姿を、自信ありげに眺める。艶やかな黒髪を高く結い上げ、妖艶な瞳を伏せがちにする。整った顎の線に、白い首筋、その下に控えめに揺れる耳飾り。角度を変えてみても、どの瞬間も、鏡の中の自分は申し分なく仕上がっていた。
(これが、わたくしの最大の武器。活用するべき力)
ロザリンドは確信していた。
その美貌は、生まれた瞬間から自分に与えられたものだった。男爵という家格は、彼女の望むものではなかった。
その容姿も、人の心を読み操る才覚も、神から授けられた正当な力だった。それを、最大限に使わない手はないだろう。これを駆使して、望んだものを手に入れる。本来の正しい地位に、自分を押し上げる。
香水の小瓶を指で撫でる。鏡の角度を、ほんのわずかに変える。
男爵家の令嬢。
今の立場を振り返るたび、胸の底で疼く肩書。強い不満が募る。なぜ、わたくしが男爵家程度に生まれてしまったのか。この美貌で、この器量で、この能力の高さで。本来ならば、もっと相応しい場所に立っているべきだった。
(わたくしには、もっと相応しい場所がある)
公爵夫人。地位、富、名声。社交界の中心で、誰もが頭を垂れる席。そんな立場こそが、自分の本来いるべき居場所だと考えていた。
公爵夫人の座を得る——そのために、アレクシス・ヴァルモントへ計算ずくで近づいた。
(あの男の横に立てば、わたくしは公爵夫人という立場を得られる)
使える、と判断した。それ以上の感慨は、最初からなかった。恋愛感情など皆無。彼との関係を築くのは、ただ目的を果たすための手段。
鏡に映る自分の顔に向けて、ロザリンドは微笑みかけた。
手順は、いつも同じだった。誰かに教わったわけでもなく、ただ考えを深めていくうちに手法を思いつき、夜会で試して精度を磨いていった。
(まずは、男の不満や不安を引き出す)
一段目。傾聴と共感。男たちは、自分の話を真剣に聞いてもらえるだけで、簡単に満たされる。妻にも、家族にも、誰にも理解されないと感じている不満を、丁寧に汲み上げて、ひとつずつ肯定してやればいい。
(次に、称賛する)
二段目。「素晴らしいお考え」「真の貴族の姿」。少し大袈裟なくらいが、ちょうど良い。男のプライドは、的確にくすぐられた瞬間、当人にも自覚のないまま高揚していく。演技だと気づかれることはまずない。なぜなら彼ら自身が、その称賛を信じたがっているからだ。
(最後に、特別感を与える)
三段目。「あなただけが、わたくしを理解してくれる」「他の男性と、あなたは違う」。この言葉で、依存は完成する。依存させてしまえば、後は、自分の思い通りに動かせる。男は自ら、女の言葉を真実だと信じ込みに行く。
(所詮、世の中の男なんてそんなもの)
ロザリンドの胸の中で、これまで関わってきた男たちに対する軽蔑の混じった笑みがこぼれた。
とても単純なものだった。そんなに簡単なことで、誰もが満たされてしまう。誇り高く振る舞っているように見える紳士ほど、内側には飢えた虚栄心を抱えていた。そこに餌を投げ込みさえすれば、勝手に従順になっていく。その上、ロザリンドの持つ美貌によって、成功率も高まっていく。望む結果を得られる。
アレクシスに接近したときも、まさにこの手順の通りに動いてくれた。
最初の数回の会話で、傾聴と共感で接近しながら心を開かせた。
次に「アレクシス様のお考えは素晴らしい」「真の貴族の姿ですわ」と称賛して、彼の貴族としての矜持を一段高く持ち上げた。
瞳を逸らさず「あなただけが、わたくしを理解してくださる」と特別感を与えた。
手順通りだった。接近するごとに、あの男の表情は締まりなく緩んでいった。
こうして、望んだ通りに動いてくれる特別な道具が、ひとつ仕上がった。
最後の仕上げ。ロザリンドは、自分の目的を果たすために動く。
夜会の場で、多くの貴族たちの目の前で、彼自身の言葉で婚約破棄を宣言させる。それこそが、ロザリンドの本命の手だった。
(私的な場での通告だと、後で取り消されたり揉み消されたりしてしまうかも。そうさせないためにも、多くの目撃者を作り上げる)
社交界の主要メンバーが集まる有力貴族家の私的な夜会、目撃者多数の状況の中で公爵子息が婚約者を罵り、別の女性を隣に立たせて宣告する。一度起きてしまえば、もはや覆せない事実になる。
ヴァルモント公爵がいくら反対しても、夜会での多数の目撃証言の前では、為す術がなくなるはず。
アレクシスは、自分で堂々と行動を起こして、自分の意志を示したと信じ込んでいる。父にも理解されない自分の決意を、皆の前で形にしたのだと。
(この素晴らしいシナリオを描いたのは、わたくし)
胸の中で、勝利感が広がった。
いつもの庭園で、ロザリンドは囁いた。
「アレクシス様、いっそ皆様の前で堂々となさいませ」
そんな一言。それ以上は語らなかった。語る必要はなかった。彼の虚栄心は、その言葉を栄養にして勝手に成長していった。「家格の壁を越えて」「真の貴族の姿」と、勝手に意味付けまでしてくれた。彼女は黙って、その様子を見ていればよかった。
夜会で婚約破棄を告げた後、アレクシスが父に叱責されたと聞いた時も、繰り返し言い聞かせた。
「既に皆様の前でお示しになったのですから、後はお父様が認めてくださるだけ」
言葉でアレクシスを操る。その結果は称賛されるべきものだと煽り、正当化させる。後戻りできない状況は、最初から最後まで、ロザリンドが意図して作り上げていった。
(この男は、操られていることに気づいていない。おめでたくて、可愛らしい人)
ヴァルモント家の婚約は、アレクシス自身の手で完全に破棄された。社交界には、消えない事実として刻み込まれた。これで、公爵夫人の地位を手に入れる可能性は、確実に近づいた。
ここに至るまで、警戒するべき人物がいた。
(セレスティア・ヴァンデール公爵令嬢)
その名を思い浮かべるだけで、ロザリンドの胸の底に、わずかな緊張が走った。
ヴァンデール公爵家の名は、社交界で重い。あの令嬢に睨まれてしまえば、ロザリンドが築き上げようとしている地位など、たちまち脆くなる。直接の対立は、絶対に避けるべき相手だった。
そんな人物と、エリザベスは関わりを持っていた。どうやら、それなりに親しい関係らしい。
だからこそ、エリザベス本人への直接攻撃は、避けた。
彼女を陥れるような噂を流したり、社交の場で言葉を交わして恥をかかせたりすれば、セレスティアが動き出すかもしれないから。
(アレクシスを使って、間接的に処理した。あれは、わたくしの賢明な判断)
ロザリンドが直接、手を下したわけではない。だから自分の手は、汚れていない。
婚約を破棄したのは、あくまでアレクシス自身。夜会の場で晒されたのも、彼の所業。ロザリンドはただ、その隣に立っていただけ。もしもの場合は、すぐ離脱できるように。
そして、エリザベスに関して。今回のことで、ロザリンドは彼女に対する評価を、さらに下方へ修正した。
(意外と呆気ない結末だった。反論したりせず、そのまま受け入れるだなんて)
エリザベスのことを思い返すと、ロザリンドの口元に軽蔑の笑みがこぼれた。
あの夜の落ち着いた風に見せた退場。「左様でございますか。承りました」と短く返した、取り澄ました所作。あれは、分別のなさを必死に取り繕った、ただのふりに過ぎなかった。
あの場面では、もっと率直に感情を見せるべきだ。激しく抗議するか、涙を流すか、せめて怒りを露わにするか。
あの女には、それすら、できなかったのだ。
(都合が悪くなって、辺境へ逃げ出したのね)
その後、王都から去ったという話も、すぐに耳に入ってきていた。
逃げた、とロザリンドは解釈した。社交界で体面が傷ついてしまった令嬢が、人の目の届かない場所へ身を隠した。それだけのことだった。
(もうこの社交界には、戻ってこられないでしょう)
わたくしのいない場所で、大人しく過ごしていればいい。あの女のことは、もう気にする必要はない。彼女に関わるセレスティア・ヴァンデールのことも。
鏡に映る自分の顔を、ロザリンドは再びじっくりと見つめた。
次の手は、もう決まっていた。
(次は、わたくしがアレクシスを完全に独占する)
他の女が近づく余地を、徹底的に潰す。
(アレクシスを操り、公爵を説得して正式な婚約発表へ)
ヴァルモント公爵が体調を崩していることは、すでに把握していた。それを理由に家督継承を早めるように誘導すれば、わたくしが公爵夫人になる日も近づくはず。
(あの男は、これからもわたくしの言いなりに動く)
そうすることによって、得られる未来を想像する。そして、ほくそ笑む。
(ヴァルモント公爵家の夫人。それが、わたくしの目標。そして、その目標は既に手の届くところにある)
鏡の中で、彼女は微笑んだ。
その微笑みは、優雅で、華やかで、そして、計算高い色を確かに帯びていた。
(全ては計画通り)
——だが。
ロザリンドには、見えていなかった。
あの夜会の場で、エリザベスが見せた落ち着いた退場の所作を、社交界の人々が「分別のなさを取り繕ったふり」とは受け取っていなかったことを。
それは家の品位を保とうとした確かな拒絶として、数十人の貴族たちの目に正確に映っていた。エリザベスの意図が伝わっていた。あの場で起こった反応は、軽蔑ではなく、加害側の所業への前代未聞の唖然ゆえだった。
ロザリンドは、考えていなかった。
「貴族たちの目の前で」という構図は、確かにアレクシスの婚約破棄を既成事実とした。けれど、それは同時に、男爵令嬢である彼女自身が公爵子息の隣に立った構図を、夜会に参加した数十人の貴族の目に焼き付けたということでもあった。
家格逸脱への記憶は、アレクシスのものだけではない。同じ場に立っていた彼女に対する評価もまた、消えない形で晒されていた。
ロザリンドは、知らなかった。
ローズフェル家が、既に正式な抗議で動き始めていることを。当主間での交渉は、彼女の与り知らぬ場所で、静かに、けれど確実に進んでいた。
彼女は、表面だけを見て成功だと判断してしまった。
それが、後の大きな失敗に繋がることを、この時の彼女はまだ知らない。




