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辺境で理想のリゾート地を創り上げます ~婚約破棄された令嬢の、穏やかな再出発~  作者: キョウキョウ
第一部 婚約破棄と辺境への旅立ち

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第08話 諦めという名の放棄 ※ヴァルモント公爵視点

 扉を叩く音が、執務室に響いた。


「アレクシス様がお越しです」


 侍従の声を、ヴァルモント公爵は手元の書類から目を上げずに聞いた。羽根ペンを置き、深い溜息をひとつ。おそらく、婚約破棄の件でまた何か話があるのだろう。


 通せ、とだけ短く告げる。


 部屋に入ってきたアレクシスの足取りは、とても軽かった。叱責した直後の神妙さは消え去り、今はどこにもない。むしろ意気揚々とした気配さえあった。何かに背を押されているような、確信に満ちた歩み。公爵の心の奥で、ふたつめの溜息が静かに沈んだ。


 息子は机の前に立つと、迷いのない声で語り始めた。ロザリンド・ベルモントこそが公爵夫人に相応しい。既に皆様の前でお示しになった以上、後戻りはできないと。父上もご決断を。同じ主張の繰り返しだった。言葉の選び方も、抑揚も、先日と変わらなかった。


 あの時に話したことを何も聞いていない。勝手に展開して、そうなると決めつけている。そして、それが間違いなく正しいと語っている。なんて、愚かな。


 公爵は、息子へ鋭い視線を向けた。


(何を言っても、こいつは話を聞きやしない)


 もはや、叱責しても無駄だった。反省がない。それは公爵の判断ではなく、ただの事実だった。


 机の上に、書面が積み重なっていた。


 その中に積み重なった手紙の中には、ローズフェル侯爵の紋章を押された正式な抗議文がある。封は既に切られている。重みのある文章だった。それだけではなかった。


 その他、社交界の各所から噂になってしまった目撃情報に関する問い合わせの手紙が、いくつも並んでいた。あの夜会の場にいた者からのもの。後日、事の次第を耳にした者からのもの。表現も筆跡も様々だったが、書かれている事実は同じだった。


 公爵子息が、公衆の面前で婚約を破棄した。男爵令嬢を連れて。あの振る舞いはあまりに礼を失するのではないか、家格の秩序を軽んじてはいないか。そうした問い質しが、いくつも記されていた。


 ヴァルモント家の信用が、何十人もの貴族たちの目の前での行為によって踏み躙られたという、消すことのできない出来事。


 夜会での婚約破棄。その顛末は既に知れ渡り、家がどう動くのかと、周囲の関心を集めていた。


 今の状況を覆すことは、もはや不可能なのだ。


 覆すことが不可能ならば、息子に何を言っても、何を諭しても、結果は変わらない。失われたものは戻らないし、堂々巡りの叱責が公爵家の信用を回復させるわけでもない。


 アレクシスは、ヴァルモント公爵など何も気にせず語り続けていた。


「父上。私の決断は、家のためでもあるのです。ご理解いただければ……」


 公爵は、片手を上げて、息子の言葉を遮った。


 顔は伏せたままだった。視線も上げなかった。ただ、低く、短く告げた。


「もういい! もういい。ならば、好きにしろ」


「!?」


 驚くアレクシスに、続けて伝える。


「責任は、全てお前が負え」


 書類の上から視線を動かさないまま、ヴァルモント公爵はその言葉を口にした。もう、疲れ果てていた。考えたくもない。この件に関して、息子に好きにさせてやる。そう言い放ってしまった。


 目の前で、アレクシスの呼吸が、わずかに止まったのが分かった。


 最初の驚き。続いて、何かを確かめるような短い沈黙。その沈黙の後、息子の表情に広がっていったものは、その気配だけで、公爵には十分に分かった。


 歓喜と勝利感。


 息子は、それを「父が認めた」と受け取った。


 そんな息子の様子を見て、公爵は胸の中で苦々しい一言を漏らす。口には出さずに。


(責任というものを、あまりに甘く見ている)


 だが、それを口に出して説教する気力は、もう湧かない。具体的にどのような形で破綻するのか、そこまでは公爵にも読めなかった。ただ、悪い方へ転がっていくことだけは分かる。その予感すら、息子には見えていないのだ。だが、ヴァルモント公爵は自ら動いて事態を収めようという気力も、もはや湧いてはこなかった。


 もう、すべてを息子に委ねてしまえ。


 最近の体の不調。そして、積み重なった疲労。それらが、物事を見極める力を鈍らせていた。自分では手に負えない問題。ならば、それを起こした息子にすべてを委ねる。今の公爵には、そうする選択しかできなかった。


「ありがとうございます、父上!」


 アレクシスの声は、確信に満ちていた。


「ご期待に応えてみせます」


 公爵は、書類に視線を落としたまま、もう一度だけ手を振った。下がれ、という仕草。


 アレクシスは深く一礼すると、振り返らずに退室していった。背筋を伸ばし、軽い足取りで。父の言葉を勝利の印として、胸に抱えたまま。


 扉が閉まる音が、執務室に低く沈んだ。


 誰もいなくなった部屋で一人。ヴァルモント公爵は長く息を吐く。背もたれに身を預けて、虚ろな目で天井を見上げた。漆喰の装飾が、いつもよりも遠くに見えた。


 アレクシスは、勝ったと思っているようだった。


 学問も、武術も、人並み以上にこなしてきた長男だった。その表面だけを見れば、公爵家の嫡男として申し分のない仕上がりだった。けれど、その奥に、致命的な欠点があった。


 思い込みが激しい。一度決めたら、周囲が見えなくなる。他人の意見を、聞こうとしない。


(あれは、知識や才能で埋められる類の欠点ではない)


 人格の問題だった。生まれ持ったものか、育ちの中で固まったものか。今となっては理由を辿る意味もない。ただ事実として、息子の中に、その傾向が確かに根付いていた。


(あれでは、いつか家を傾けるだろう)


 公爵は、目を閉じた。


 他の選択肢はないのか、と幾度も考えてきた。次男は学問を好む静かな青年だが、家政や領地経営といった実務に向く性質ではない。三男は武勇に秀でているものの、政治の駆け引きや社交界の機微には、まるで向いていない。三人ともに、それぞれの長所はある。だが、公爵家を背負うに足る器量を備えた者は、ついぞ生まれてこなかった。


(消去法で、長男のアレクシスに継がせるしかない)


 ヴァルモント家の歴代の当主が、この机で同じ嘆息を漏らしたことがあっただろうかと、ふと思った。


 そして、あの娘のことを、思い出さずにはいられなかった。


 エリザベス・ローズフェル。聡明で、社交界での評判も良く、多くの友人を持っていた令嬢。未来のことを冷静に見据え、両家の繋がりを丁寧に整えていく、得難い令嬢だった。公爵としても、彼女の人となりは早くから把握していた。


(あの娘なら、息子を抑えてくれたかもしれぬ。そう思ったのに……残念だ)


 息子の致命的な欠点を、彼女ならば穏やかな所作と聡明さで、少しずつ補ってくれただろう。表に立つことを誇らない、内に芯を持った令嬢。あれほど公爵夫人に相応しい人物は、そういないと思った。


 それを息子は、多くの貴族たちの前で自ら踏み躙ったのだ。


 失われたものは、エリザベスという一人の令嬢だけではなかった。


 彼女には、近しい友人として、ヴァンデール公爵家の令嬢セレスティアがいた。社交界で確かな影響力を持ち、王室にも近しい人物。エリザベスとの友情は、ヴァルモント家にとって、ヴァンデール公爵家との人脈そのものだった。


(ヴァンデール公爵家との繋がりまで、息子は失ったのだ)


 政略的な損失の大きさは、計り知れなかった。家格秩序への挑戦、ローズフェル家との関係の決定的な毀損、そしてヴァンデール家との人脈の喪失。夜会に多くの貴族が居合わせたという、誰にも否定できない事実によって、その全てが公の記録として残されてしまった。


(我が家は、近い将来、社交界から孤立していくことになるだろう)


 冷静に予測すれば、その帰結は避けがたかった。露骨な絶交ではない。表向きの礼節は保たれるだろう。だが、招かれる夜会の数が少しずつ減り、相談を持ちかけられる場面が一つずつ消え、子息子女の縁談の話が回ってこなくなる。


 そういう、見えない喪失によって、家の影響力は薄れていく。それを覆せるだけの何かが、今のヴァルモント家には残っていなかった。


 胸の奥に、軽い痛みが走った。


 公爵は、無意識に左の胸へ手をやった。


 深く息を吸おうとして、けれど、思ったほど吸い込めない。喉のあたりで、空気が一度引っかかるような感覚があった。続いて、体の芯から重く広がる疲労感。机に肘をつくと、手のひらの温度さえも、いつもより低く感じられた。


(医師には無理をするなと、言われているのだが)


 胸の痛みは、ここ最近、徐々に頻度を増していた。息切れも、疲労感も。年齢相応のものとして片付けるには、少し早すぎる兆候だった。


(もはや、家督継承を急がねばならぬか)


 判断としては、そうだった。だが、その後継者があのアレクシスなのだ。急いだ先に待っているものを思うと、堂々巡りの絶望が、もう一段、深く沈んでいった。


 公爵は、頭を抱えた。そして胸の中で、ひとつ問うてみた。


(このままでは、いずれ悪いことが起こる。いや、もうすでに起きてしまったのか)


 根拠のある予感だった。社交界の冷視、家の信用毀損、息子の暴走、自身の体調。どれもが、ひとつの方向に進もうとしている。進むべきではない先へ。


(――だが、考えたところで、どうせ私には何もできない)


 無気力感に苛まれながら、公爵は見守ることしかできないと諦めてしまっていた。頭を抱えて、しばらく動かないまま。


 机の上の書面は灯の下で、変わらずに積み重なっていた。

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