第07話 理解者 ※アレクシス視点
夜会で婚約破棄を告げた翌日、アレクシスは父の執務室に呼びつけられた。
なにか文句を言われることは予想していた。父は古い慣習に縛られた人だ。公衆の面前での宣告という今までにない手段を用いて、すぐには受け入れられないだろう。けれど、既成事実は成った。もう後戻りもできないのだ。根気よく話せば、いずれは折れるはずだった。
扉を開けた瞬間、アレクシスは身が固まった。
父の顔が、今まで見たことがないほど紅潮していた。
次の瞬間、執務机を叩く音が、部屋に響いた。その音に、アレクシスは思わず身をすくめた。
「お前は、なんてことをしでかしたんだ」
普段は感情を表に出さない父が、珍しく見せる激しさだった。鋭い視線が、まっすぐに突き刺さる。
「何十人もの貴族の前で、ヴァルモント家の信用とローズフェル家への礼節を、両方とも踏み躙ったのだ」
そう言って、机の上に開封された書状を取り出した。アレクシスに見せつけるように。これは、お前がしでかしたことだと示すように。その書状には、ローズフェル侯爵家の紋章があった。正式な抗議文だった。早朝に届いていたらしい。父はそれを横目に、もう一度、強く机を叩いた。
「公衆の面前で婚約を一方的に破棄などと、前代未聞。しかも、男爵令嬢を堂々と隣に立たせた。家格秩序への反抗だ。ローズフェル家への侮辱だ。お前は、ヴァルモント家の信用を、自らの手で地に落としたのだ」
「父上、これは――」
反論しようとした言葉は、父の視線で封じられた。
アレクシスは、押し黙った。胸の内で、不満をくすぶらせながら。なぜ話を聞いてくれない。なぜ、私だけを叱るのか。そんな不満が膨れ上がっていく。
彼は、父の怒りの理由を正しく受け取らなかった。家の信用、礼節。それらが本当の問題なのだろうか。
(父は、私の行動を認めたくないだけだ)
言葉には出さず、そう結論した。
(私は新しい時代の貴族の姿を示しただけだ。それを、古い慣習でしか測れない父には、分からないのだ)
父の長い叱責の言葉は、一つも耳に入ってこなかった。ただただ不満で、理解してくれないことに憤りを感じ続ける。
やがて、父の声が止まった。
顔を上げると、ヴァルモント公爵は息を切らせていた。紅潮していた頬から、いつの間にか赤みが引いている。代わりに浮かんでいたのは、ある種の疲労だった。これ以上、息子に何を言っても無駄なのだという、深い疲労。
公爵は片手で目元を覆い、しばらく口を閉ざしていた。肩が上下している。声を荒げた直後の呼吸の乱れと、それを引き戻そうとしているのが、その動きに滲んでいた。
アレクシスはその様子を、上っ面だけの神妙さで眺めていた。けれど胸の中には、父の疲労に対する憐れみも、罪悪感も、ひとかけらも生まれてこなかった。
公爵は、力なく手を振った。退室を促す仕草だった。
タイミングを見計らっていたアレクシスは形だけの一礼をして、執務室を出た。
父は、わかってくれない。
(けれど、私には理解者がいる。ロザリンドだけが、私をわかってくれる)
胸の中で、その確信が、また一段と深くなった。
彼女に会いたかった。早く、彼女の声を聞きたかった。あの艶やかな瞳に見つめられながら「アレクシス様のお考えは素晴らしい」と肯定されたかった。父にさえ理解されない自分を、彼女だけが受け止めてくれる。
廊下の窓から、庭園の方が見えた。大理石の噴水が午後の光を反射していた。
アレクシスは、足早にそちらへと向かった。
***
ヴァルモント家の屋敷にある庭園は、南側に大きく広がっていた。大理石で組まれた巨大な噴水が中央にあり、その周囲に高価な彫像がいくつも配されている。花壇は職人の手で寸分の狂いもなく整えられ、緑の木々と石畳の小道が、規則正しい幾何の形に並んでいた。貴族の富と権力を、来訪者に静かに見せつけるための造りだった。
噴水のそばに、人影があった。
深紅のドレス。艶やかな黒髪を高く結い上げ、首には、先日アレクシスが贈ったばかりのネックレスが光っている。
ロザリンドが、一人で立っていた。
他に人の姿はなかった。彼女は、まるでアレクシスが訪れるのを知っていたかのように、そこで待っていた。待ち合わせしていたわけではないのに、会えた。
(不思議と、ここにいる気がしていた)
胸の中で、ひとつだけ呟いた。
(やはり、彼女と私は心が通じ合っている)
ロザリンドは、彼の姿を認めると、ゆっくりと振り向いた。
「アレクシス様」
甘く、喜びに満ちた声だった。微笑を含んだその声音が、彼の名を柔らかく包んだ。
アレクシスは、噴水の縁まで歩み寄った。彼女のすぐ傍に立つと、ロザリンドは何も問わずに、彼の顔を見上げた。美しい瞳が、まっすぐに彼を捉えていた。
話を聞かせて、と彼女の目が告げているように感じたアレクシスは、父の執務室での出来事を語り始めた。
古い慣習に縛られた父の叱責。新しい時代を見ようとしない頑迷さ。家の信用などというお題目の裏に隠された、ただのプライドの問題。語っているうちに、胸の中の苛立ちが、ひとつずつ言葉の形を取って外へ出ていく。
ロザリンドは、ひとつひとつ熱心に聞いていた。深く頷き、適切な間で相槌を打ち、瞳を逸らさなかった。
語り終えると、彼女は静かに口を開いた。
「アレクシス様は、何も悪くありません」
短く、断定的に。
その「何も」という言葉の強さが、アレクシスの胸の奥にすとんと落ちた。やはりそうだと、彼女の言葉が強い自信になる。
「夜会で堂々となさったお姿は、本当に立派でしたわ」
ロザリンドの妖艶な瞳に、誇らしさのような色が浮かんでいた。少なくとも、アレクシスの目にはそう映った。
「エリザベス様のあの取り澄ました態度こそ、家を背負う器ではない証ですわ。本当に家を思う方なら、あの場で取り乱してでも、婚約破棄を撤回してと縋るはずですもの。それを、あんなに静かに受け入れてしまうなんて。あれこそが、エリザベス様の過ちです」
肩のあたりに溜まっていた強張りが、ゆっくりと抜けていった。胸の中が温まる感覚があった。傷ついていたプライドが、ロザリンドの言葉のひとつずつで、癒されていく。
理解してくれる者が身近にいてくれることは、こんなにも幸せなのだ。
(父にも、エリザベスにも、誰にも分からなかった。だが、彼女には真実が見えている)
ロザリンドが、そっと彼の手に触れた。
白い指先が、彼の手の甲の上に、軽く重ねられただけだった。けれど、その温もりが、肌から胸の奥まで、確かに届いてきた。
彼女はしばらく、何も言わずに、ただ彼の傍に寄り添ってくれていた。
風が、噴水の水音をかすかに揺らした。大理石の表面に、午後の光がきらめいて、彫像の白い肌を撫でていく。整えられた花壇では、深紅の花弁が、彼女のドレスと同じ色で揺れていた。
やがて、ロザリンドは、穏やかに切り出した。
「アレクシス様。もう一度、公爵様に話してみては。既に皆様の前でお示しになったのですから、後は、お父様が認めてくださるだけ」
声には、急かす響きはなかった。ただ、当たり前のことを告げるような、静かな確信があった。
既成事実は、もう作られていた。何十人もの貴族の前で発した言葉は、消すことのできない事実として、社交界に残っている。あとは父がそれを認めるだけ——彼女の言う通りだった。
ロザリンドの指先が、ゆっくりと、彼の手の甲を撫でた。短く、何かを伝えるような動きだった。
「私が、あなたを支えます」
その一言で、アレクシスの胸の奥に温かな火が灯った。
彼女の両手が、アレクシスの手を、そっと包み込んだ。白い手の中に、彼の手が静かに収まっていく。
「あなたお一人で、お父様と向き合われる必要はありませんわ。私は、ずっとお傍におります」
ロザリンドの手が、優しく彼の手を握った。長くはなかった。けれど、その短い握りの中に、確かな意志のようなものが込められているのを、アレクシスは肌で感じ取った。
(彼女がいれば、私は何でもできる)
(父も、最終的には認めるしかない)
(今度こそ、父をわからせる)
胸の中に、確信が次々と立ち上がっていく。先ほどまで叱責の場で耐えていた屈辱が、今は跡形もなく消え去った。代わりに、誇らしさと決意が、確かな形を取って胸を満たしていた。
次に父の前に立つときは、もう怯まない。既に皆様の前で示された決意の重みを、父にもきちんと認めさせる。今度こそ、自分の正しさを父に分からせるのだ。隣にロザリンドがいる。それだけで、心の中の景色がまるで違って見えた。
ロザリンドこそが、真の理解者だった。自分は正しい道を歩んでいる。自身の取るべき行動は、もう決まっていた。もう迷わない。迷う必要はない。
「ありがとう、ロザリンド」
アレクシスは、短く告げた。そして一度、彼女を見つめた。軽く頷き、庭園の小道を歩き出した。
その足取りは、揺るぎなかった。背後から、ロザリンドが見送ってくれているのが気配でわかった。彼は振り返らなかった。振り返る必要は、もうなかった。前だけを見て、突き進む。
背中越し、アレクシスからは見えない角度で。ロザリンドは、なお微笑んでいた。
その微笑みは、愛する男を見送る類のものではなかった。妖艶な瞳の奥に浮かんでいたのは、計算高い色を帯びた、意味深な笑みだった。そのことに、アレクシスは気づくことはなかった。




