第06話 公衆の面前で ※アレクシス視点
数週間前のことだった。
アレクシス・ヴァルモントは、その頃すでに、婚約者への不満を限界まで溜め込んでいた。
エリザベス・ローズフェル。柔らかなピンクブロンドの髪に、穏やかな笑みを絶やさない令嬢。社交の場では誰にでも親しげに言葉を交わし、誰からも好かれているように見える女。傍目には申し分のない婚約者なのだろう。だが、アレクシスの目には違って映っていた。
あの軽薄な笑顔。誰にでも振りまく、分別のない愛想。
(あれは、八方美人というのだ。誰彼構わず媚びを売り、自分の評判だけを高めようとしている)
ヴァルモント家という歴史ある家名を背負う公爵夫人になる女が、あんなお気楽な態度で務まるはずがなかった。家を発展させる気概も、公爵という家格にふさわしい矜持も、彼女の振る舞いからは感じ取れない。社交界に出れば、ただ笑顔を絶やさず立ち回るだけ。中身など、どこにもない。
最近は、自分に対してさえも素っ気なくなっているのが気に食わなかった。視線を逸らし、頻繁に話題を変えて、意に沿わなければ会話も短く切り上げる。
(あれは、気まぐれな性格なのだ)
自分が距離を取り続けてきた事実は、彼の意識には浮かばなかった。
そんなある日のこと、アレクシスはとある社交の場で、一人の素敵な令嬢と運命の出会いを果たした。
ロザリンド・ベルモント。
艶やかな黒髪を高く結い上げ、妖艶な瞳を伏せがちに歩く女性だった。男爵令嬢にしては、胸元と耳元の宝石が派手すぎるほどだったが、それさえも彼女の華やかな印象を引き立てていた。アレクシスは、その姿に視線を奪われた。そこには抗いがたい魅力があった。
「アレクシス様、ですね。初めまして」
彼女は、アレクシスの姿を見つけると、嬉しそうな笑顔を浮かべて近づいてきた。
その遠慮のなさが新鮮だった。他の貴婦人たちのように、機嫌を伺いながら距離を測るような所作はなかった。黒く艶めく瞳が、まっすぐアレクシスだけを捉えていた。
話してみて、すぐに分かった。
彼女は、アレクシスが溜め込んでいた不満に寄り添い、ひとつひとつ受け止めていった。自らの手で更にヴァルモント家を発展させたいという矜持。婚約者への不満。父との見解の相違。アレクシスが語れば語るほど、彼女は熱心に耳を傾け、時折深く頷いた。
他の貴婦人たちは、彼の話を半分も聞かないうちに、適当な相槌で流していった。けれどロザリンドは違っていた。一言一言を、確かに受け取り、自分の中で噛みしめてから、肯定してくれる。その姿勢こそが、彼女の真摯さの証だった。
「アレクシス様のお考えは、素晴らしいですわ」
ロザリンドは、瞳を輝かせて告げた。
「貴族として、自分の家のことを、それほど真摯にお考えになる方が、おいでだったとは。それこそが真の貴族の姿ですわ」
そう言われたアレクシスの胸の奥に、熱い塊が落ちた。
(この女性こそが、私を理解してくれる)
疑いようもなかった。誰にも分かってもらえなかったものを、ロザリンドだけが正確に受け止めてくれている。彼女の言葉のひとつひとつが、鬱屈を解きほぐしていく。
(エリザベスではなく、ロザリンドこそが公爵夫人にふさわしい)
真の理解者という言葉が、アレクシスの胸の中で確かな形を取った。
***
ロザリンドと幾度も会い、急速に絆を深めてから数日後のこと。アレクシスは父の執務室に立っていた。
ヴァルモント公爵は、机に向かって書類仕事をしている。重厚な机の上には、整理された書類が几帳面に積まれていた。
「父上。お話があります」
突然訪ねてきた息子。前置きもない言葉に、公爵は眉をひそめながら顔を上げた。
「ローズフェル家との婚約を、解消したく存じます。私には、もっと相応しい相手がおります。ベルモント男爵家の令嬢である、ロザリンドが――」
「ならぬ」
最後まで言い終える前に、公爵が短く遮った。勝手は許さぬ、という一言だった。
声を荒げるでもなく、ただ短く、しかし揺るぎなく。
「ローズフェル家との婚約は、ヴァルモント家の政略の要だ。お前個人の感情で動かすものではない。そもそも男爵令嬢を正妻に据えるなど、許さん」
アレクシスは、唇を噛んだ。ロザリンドのことを何も聞かず、男爵令嬢だから駄目だ、などと一方的に。
古い慣習に縛られて、新しい時代を見ようとしない。それで公爵家を背負っているつもりか。そんな考えでは、ヴァルモント公爵家はいずれ立ち行かなくなるというのに。胸の奥で、何かが冷たく固まっていく感覚があった。
(父が認めないというのなら、私が自ら動いて認めさせるしかない)
***
諦めるつもりは一切なかった。その日の夜、アレクシスはロザリンドのもとへ向かった。
ロザリンドは、苛立つ彼の話を聞き終えると、真正面から視線を合わせた。濡れたような瞳が、彼ひとりに向けられていた。
「アレクシス様、いっそ皆様の前で堂々となさいませ。婚約者として誇りを持って同伴したい相手は、わたくしの方ではありませんか?」
その言葉を聞いて、アレクシスの胸は熱くなった。
(そうだ。家格の壁を越えて、真の貴族の姿を、皆の前で示せばいい)
既成事実化。それこそが、最強の手段だった。皆の前で示せば、後戻りはできない。父も、既成事実の前には折れるしかない。
ロザリンドの言葉から着想を得たアレクシスは、胸の中で、その計画を密かに仕上げていった。
***
そして、実行に移す時が来た。
有力貴族家の私的な夜会。広間には大勢の貴族が集い、シャンデリアの光が降り注いでいる。楽団の旋律が流れる中、アレクシスは、ロザリンドを腕に伴って扉をくぐった。
今回の計画に加わったロザリンドの装いは、誇らしいほどに華やかだった。深紅のドレス、胸元の派手な宝石、結い上げた黒髪。彼女が腕に添えた手は、迷いも遠慮もなく、ただ自然にそこにあった。
(今夜、決める)
胸の中でつぶやき、覚悟を確かめる。鼓動が速まっていた。自らの判断で行動に移すことで、より良い未来を自分の手に掴むのだ。
広間に進み出ると、人々の視線が一斉にこちらへ向いた。
(皆、私の堂々とした振る舞いに注目している)
戸惑うようなざわめきは、彼の耳には届かなかった。届いていたのは、自分自身の高揚した鼓動の音だけだった。視線の重さは、当然のように受け止められるものだった。真の貴族の姿を、これから示そうとしているのだから。
目当てのエリザベスを見つけ、広間の中央へ進み出る。夜会の参加者たちが見ている、ちょうどいい位置だった。
ロザリンドを、横に連れて誇示する。彼女は示し合わせたように胸を張り、堂々と振る舞ってみせた。わざわざ指示せずとも、求めていた動きをしてくれる。それを見て、アレクシスは確信した。
(心が、通じ合っている。やはり、彼女こそが公爵夫人にふさわしい)
アレクシスは気分を高揚させながら、エリザベスの前に立つ。そして彼は、声を張った。
「エリザベス・ローズフェル嬢」
婚約相手の名を呼ぶ。その先の言葉は、この日のために練りに練った、真の貴族にふさわしい宣言だった。一語一語、誇りを込めて発する。
「お気楽なお前では、我が家を発展させることなどできまい。私は、もっと相応しい相手を見つけた。お前との婚約は、本日をもって破棄させてもらう」
言い終えた瞬間、彼は深い満足を覚えた。
これで、全てが決まった。ここから先、未来は良くなっていく。何十人もの貴族の前で発した言葉は、すでに公の事実となった。多くの者が証言するだろう。父も、この既成事実の前には折れるしかない。当然のことだった。
広間は、静まり返っていた。誰も口を開かない。誰も身じろぎひとつしない。扇を持つ手が宙で止まったままの婦人もいた。
(皆、私の決意の重みに、圧倒されている)
そう、解釈した。
ホスト家の主人さえも、口を開きかけて、開けないでいる。あれは、自分の決意の前に言葉を失っているのだろう。家格の壁を越えて真の貴族の姿を示す者の言葉が、軽々しく受け止められていいわけがないのだから。
婚約破棄を告げられたエリザベスは、扇を胸の前で軽く合わせ、深く息を整えていた。
そんな彼女の声には、張りがなかった。けれど、広間の隅まで通る声音で、彼女は告げた。
「左様でございますか。承りました」
アレクシスが予想していた反応とは、どこか違っていた。もっと取り乱すものだとばかり思っていたが、そうではないらしい。
だが、その違和感は、すぐに別の解釈へと塗り替えられた。
(——これは、分別のなさを取り繕った虚勢に違いない)
内心では、きっと取り乱しているはずだった。涙をこらえているのだろう。表面だけは品位を保つことで、自分の体面を必死に守ろうとしているに過ぎない。
振り返ってみれば、エリザベスはそういう女だった。八方美人で、見栄っ張りで、誰にでも媚びを売る。みっともない姿を見せて評価を落とさぬよう、この場を切り抜けようと必死なのだろう。
アレクシスの頭の中で、その解釈はあっという間に固まった。違和感は、もう跡形もなく消えていた。
横に立つロザリンドが、誇らしげに胸を張ったまま、満足げにアレクシスを見上げた。視線を交わし、勝利に酔いしれる。
いつの間にか、エリザベスはいなくなっていた。
楽団は、もう旋律を奏でていなかった。広間にはざわめきひとつ起こらず、誰ひとり、祝いの言葉を口にする者はいなかった。誰も、彼に近づいてはこなかった。けれど、その静けさが何を意味するのか、アレクシスは考えもしなかった。
完全な勝利感が、アレクシスを包んでいた。




