第10話 朝の湖と、遠い友へ
エリザベスが辺境での暮らしを始めて、十日あまりが過ぎた。
夜がまだ完全に明けきらぬうちに目を覚ますのが、いつのまにか習慣になっていた。そのまま屋敷を出て、ゆるやかな坂を下る。そこには湖があった。
山際から朝日が顔を出すと、湖面はまず淡い橙に染まり、それから少しずつ金の色を含んでいく。水の上には薄い霧が立ちこめ、それが光を受けて、淡く発光しているように見えた。対岸の森はまだ夜の藍を残していて、その輪郭を、昇りはじめた光がゆっくりと縁取っていく。
エリザベスは、湖のほとりで立ち止まった。
冷えた空気が、肩から胸へと静かに下りてくる。どこかで鳥が鳴いた。一羽が鳴くと、それに応えるように、また別の場所から声が返ってくる。水を打つ音もする。魚が跳ねたのか、それとも風が湖面を撫でたのか。
何度見ても、この景色には感動を覚える。
毎朝ここへ来ているというのに、昇ってくる光は、いつも少しずつ違う色をしていた。昨日の朝より霧が深い日もあれば、雲の間から幾筋もの光が降りてくる日もある。慣れるどころか、見るたびに、胸の奥がほどけていくような心地がした。
知らず、肩の力が抜けていた。
「お嬢様。今朝は、霧が深いですね」
穏やかな声が、少し離れた場所から聞こえた。
マーティンだった。彼はいつも、こうしてエリザベスの邪魔をしない位置に立っている。急かすでもなく、何かを促すでもなく、ただそこにいて、エリザベスが景色を見終えるのを待っていてくれる。
「霧の深い朝は、昼に晴れます。あの森の木は、楢の仲間でしてね。秋になると、湖のこちら側まで葉を散らすんですよ。湖が、赤と金で埋まります」
マーティンは、ぽつりぽつりと語った。秋の湖。赤と金。まだ見ぬその景色を、エリザベスは胸の中で想像し、期待を膨らませた。この光景には、まだ自分の知らない姿があるのだ。
王都にいた頃、こんな穏やかな朝を過ごした覚えはなかった。
あの頃は、家のこと、行く末のこと、思い悩むことばかりだった。その不安も、今は朝の光の中に溶けて、胸に積み重なっていくことはない。
満ち足りた静けさの中で、エリザベスの中に、ひとつの想いが静かに芽を出していた。
もっと、この土地のことを知りたい。深く味わいたい。自分の知らないことを学びたい。
それは、決意というほどのものではなかった。ただ、せっかくここで暮らすのだから、自分が身を置くこの土地のことを、もう少し詳しく知っておきたい。そんな、ごく自然な気持ちの動きだった。
毎朝、湖を眺める。マーティンから木や鳥の名を教えてもらう。けれど、それだけでは触れられない場所が、この領地にはまだたくさんある。村があり、畑があり、そこで暮らす多くの人々がいる。ローズフェル家の民がいる。
***
その日の朝、エリザベスは、バルタザールとマーティンにお願いした。村を、見て回りたいのです、と。
「かしこまりました」
バルタザールは、いつもの落ち着いた様子で頷いた。長く仕えてきたこの執事長は、エリザベスのささやかな望みを叶えるための段取りを、すぐに整えてくれた。
マーティンのほうは、ほんの少し、表情を和らげた。
「喜んで、ご案内いたします」
この土地のことを教えてほしい。以前そう伝えたときも、彼は同じように、嬉しそうに目元をほどいたのだった。自分の生まれ育った土地に心を寄せてもらえることが、嬉しいのだろう。
***
翌朝、エリザベスは、バルタザールとマーティンを伴って、領民たちの暮らす村へ向かった。
屋敷からなだらかな道を下っていくと、やがて家々の屋根が見えてくる。石と木で組まれた、素朴だが手入れの行き届いた家並みだった。煙突から細い煙が上がっている。朝餉の支度だろうか。
村の中ほどに、共同の井戸があった。
そのまわりには、何人もの村人が集まっていた。桶に水を汲む女、それを待ちながら立ち話をする者、足元にまとわりつく子どもたち。井戸の滑車が、きい、きい、と音を立てて回る。誰かが笑い、誰かがそれに応える。
エリザベスの姿に気づくと、村人たちは一様に手を止めた。
慌てて頭を下げる者、子どもの手を引いて後ろに退く者。誰もが、領主の縁者である貴族の令嬢を前にした緊張を、その身に走らせていた。遠慮がちな視線が、こちらをうかがっている。
マーティンが、村の暮らしを案内しながら、穏やかに語った。どの家が何を生業にしているか、水はどこから引いているか、冬をどう越すか。それは杓子定規な説明ではなく、エリザベスの頭の中に、村の輪郭を描かせてくれるような語り口だった。
井戸のそばで、年老いた女が緊張した様子で深く頭を下げた。
エリザベスは、その人のそばへ歩み寄った。
「おはようございます。朝早くから、大変ですね」
自分から声をかけ、相手と目線を合わせる。女は驚いたように顔を上げ、それから、おずおずと言葉を返した。水汲みは毎朝のことで、なに、慣れたものでございます、と。
エリザベスは、その人の名を尋ねた。それから、隣で水を汲んでいた若い母親にも、子どもの年を尋ねた。返ってくる言葉のひとつひとつに、ゆっくりと耳を傾けた。
はじめは身を硬くしていた村人たちの表情が、少しずつ、ほどけていった。
村のはずれには、畑が広がっていた。
丹念に手の入れられた農地だった。畝はまっすぐに整い、土はよく耕されている。季節の作物が、朝の光を受けて、瑞々しい緑を伸ばしていた。一朝一夕では生まれない、長い年月の手仕事の積み重ねが、その風景には刻まれていた。
畑の主に、エリザベスは作物のことを尋ねた。これは何という野菜か、いつ蒔いて、いつ採れるのか。男は、はじめは恐縮していたが、自分の畑のこととなると、誇らしげに、けれど丁寧に教えてくれた。
土と、青い葉の匂いがした。畑に近づいたことなどなかったから、その匂いの何もかもが、新鮮だった。
不思議なことに、こうして目の前のものに、井戸の音に、人々の声に、畑の土の手触りに心を向けていると、胸の内が、ゆっくりと休まっていった。
今に目を向けていると、心が静かでいられた。ここにはまだ知らないことがたくさんあって、それを知ろうとしている間は、過去のほうを振り返らずにすむ。そのことが、今は、何よりもありがたかった。
土地のことを知りたい。その想いは、純粋な好奇心であると同時に、過ぎたことから目を逸らすためでもあったのかもしれない。
今はただ、目の前のものに手を伸ばしていたかった。
村の視察を終えて屋敷へ戻る頃には、胸の奥に、静かな充足が満ちていた。王都のことは、こうして遠くに置いておける。
けれど——友人たちのことだけは、どうしても忘れられなかった。
***
あの大切な三人のことは、どれほど遠く離れても、胸から消えてはくれなかった。
セレスティア。リネット。アドリアン。
王都で、エリザベスの傍にいてくれた人たち。あんなに突然、別れの挨拶もできないまま王都を離れてしまった。あの三人は今、どうしているだろう。会えない寂しさが、ふとした拍子に、胸の隅にともる。
辺境に着いた日、エリザベスは、その三人へあてて手紙を送っていた。無事に着いたこと。しばらくはこの地で暮らすこと。短い、けれど心を込めた便りだった。
その返事は、思いのほか早く届いた。
はじめに開いたのは、セレスティアからの手紙だった。几帳面に整えられた文字が、便箋の上にきちんと並んでいる。
『急に王都を離れたと聞いて、驚きました。挨拶できなかったことが残念です。辺境の暮らしは大丈夫ですか? 不便なことはありませんか? 何か困ったことがあれば、すぐに連絡してください。私にできることがあれば、手助けします。だから遠慮なく言って。時間ができれば、必ず会いに行きます。必ずよ』
手助けします。必ず会いに行きます。
迷いのない、まっすぐな言葉だった。いかにも彼女らしい。困っているのなら手を貸す、会いたいから会いに来てくれる。そう決めたことを、彼女はためらわずに口にする人だった。そんな彼女の文字を目でたどるうち、エリザベスの胸に、温かいものが灯った。
次に開いたのは、リネットからの手紙だった。
丸みを帯びた文字が、便箋いっぱいに、ぎっしりと書き連ねられていた。ところどころ、インクがにじんでいる。急いで書いてくれたのだろう。
『お姉様、急に王都を離れてしまって、とても寂しいです。お会いできなかったこと、本当に残念です。辺境は遠いですけど、お元気ですか? ご不便はありませんか? もし何か必要なものがあれば、何でも言ってください。お姉様のためなら、何でもします。絶対に会いに行きますから、待っていてください』
お姉様、と、彼女はいつもエリザベスをそう呼んだ。あふれそうな気持ちを、そのまま文字にしたような便りだった。にじんだインクの跡を、エリザベスはそっと指で撫でた。黙って王都を離れたことを知ったとき、あの子はどんな顔をしていたのだろう。それを想像すると、胸が締めつけられた。申し訳ないことをしてしまった。
最後の一通は、男性の友人であるアドリアンからだった。
落ち着いた、簡潔な文面だった。けれどその短い言葉の奥には、たしかに心配の色がにじんでいた。
『急な出発だったようだね。王都を離れることになった事情は察している。辺境での生活に、問題はないか? もし何か困ったことがあれば、遠慮なく連絡してほしい』
事情は察している。彼はそう書いた。多くを問わず、けれど、何があったのかを知ったうえで、案じてくれている。彼らしい、品のある距離の取り方だった。余計なことは言わない。ただ、いつでも頼っていいのだと、それだけを伝えてくれる。
三人とも、それぞれの言葉と配慮で、エリザベスを心配してくれていた。
言葉を選んで励ます者。あふれる思いをそのままぶつける者。静かに寄り添う者。文体も、筆跡も、まるで違う。けれど、その三通のどれからも、変わらない優しさが伝わってきた。
エリザベスは、三通の便箋を丁寧に畳んだ。
それからというもの、王都にいる友人たちとの手紙のやり取りは続いた。
エリザベスは折にふれて近況を綴り、三人はそれに返事をくれた。王都での出来事を教えてくれることもあった。離れていても、便りが行き交うたびに、あの頃と少しも変わらない繋がりが、たしかにそこにあると感じられた。
次に届く便りには、どんな言葉が綴られているだろう。そんなことを思う時間が、今のエリザベスには楽しかった。




