第11話 少しずつ整えていく
初めて村を見て回ったあの日から、エリザベスは幾度となく領地内の村へ足を運ぶようになった。
ひとつの村を訪れれば、その向こうにまた別の集落があり、畑の先には牧草地が広がっている。橋のかかった川、水車のまわる小屋、林の奥にひっそりと建つ炭焼きの窯。自分の足で見て回るほどに、この領地の輪郭が少しずつ確かなものになっていった。
知れば知るほど、見えてくるものもあった。
ある日の午後、エリザベスは屋敷でバルタザールと向かい合っていた。視察を重ねるうちに積もっていった問いを、この老練な執事長に尋ねてみたかったのだ。なぜこの領地は、これほど豊かな土地と人に恵まれていながら、暮らしにどこか余裕がないのか、と。
バルタザールは、しばらく考えるように間を置いてから、静かに口を開いた。
「お嬢様。この地は、けっして痩せた土地ではございません。畑はよく実り、人々もよく働きます。ですが、栄えることが難しいのです」
まず、王都から遠い。あまりに遠い。商人たちは、わざわざこの辺境まで足を延ばそうとはしない。商売をしようにも、それに見合うだけの利が、この土地にはないと思われている。だから、こちらの品々が出ていかないし、よその品も入ってこない。
作物は穫れる。けれど、それを売る場所が限られている。村で穫れたものは、村の中でほとんどが消えていく。余ったところで、運んで売る先がなければ、それは富にはならない。領民が懸命に働いても、その働きが、暮らしを上向かせる力にまで育っていかないのだ。
「税収は、悪くはございません。ほかの領地と比べても、平均といったところでしょう。ですが、現状を保つのがやっとでございます。領民は新しいことに手を出す余力はなく、何かが大きく変わるきっかけも、ない」
バルタザールの言葉は淡々としていた。だが、その淡々とした口ぶりこそが、問題の根深さを物語っているようだった。
発展を目指さなければ、経済は縮こまっていく一方になる。けれど、発展を目指そうにも、そのための元手も、人も、商いの相手もいない。栄えるためのきっかけが、栄える余力がないために生まれない。そういう堂々巡りの状況に、この領地はずっと置かれてきた。
「若い者は将来を見据え、仕事を求めて王都へ出ていきます。そして村に残るのは、年を重ねた者ばかり。働き手が減れば、畑も立ち行かなくなる。今は現状を維持できていますが、いずれ辺境の村は細っていく」
エリザベスは、膝の上で手を重ねたまま、その話を真剣に聞いていた。
そんな現状を知ったとき、気持ちが沈んでいくのを感じた。村の井戸端で頭を下げた老婆の顔が、誇らしげに作物を語った畑の主の表情が、よみがえる。あの人たちの暮らしの裏側に、これほどの困難が隠れていたなんて。
悲しい、と思った。けれど、その悲しみをただ感じるだけではダメだとも思った。悲しむだけでは、何も変わらない。では、どうすればいいのか。
気づけばエリザベスは、この土地を変えるため自分になにかできないかと深く考え込んでいた。
領地に商人が来ないのなら、来たくなる理由をつくれないか。商売する場所がないのなら、つくれないか。けれど、そう考えると王都から離れた土地という難題にぶつかる。辺境なのだから、仕方ない。そうして諦めてしまうのは簡単だけど。
バルタザールの語った行き詰まりに、自分の考えもまた、たやすく飲み込まれてしまいそうになる。
「なにか、手段はないのかしら」
エリザベスは、なお希望を求めてバルタザールに尋ねた。何か、わずかでも、領民の暮らしを楽にする手立てはないのか、と。
バルタザールは、いくつかの細やかな策を挙げてくれた。畑の作付けを工夫すること、村と村のあいだの道を作って交流を増やすこと。だが、彼はそれらをすべて口にしたあとで、静かにこう付け加えた。
「ただ、これらの方法では根本的な解決にはなりません」
歴代この領地を預かってきた管理者たちも、誰ひとりとして、その根本を解く道を見いだせなかったのだという。
それほどに難しい問題なのだ、とエリザベスは思った。
すぐに答えの出る話ではない。一夜にして解決できる問題でもない。それでも、彼女の胸の奥には、変えたいという強い想いが消えずに残っていた。
いっぺんに変えるのは無理だとしても、少しずつ変えていけばいい。エリザベスは心の片隅に抱える、その小さな灯のような考えを大事にした。
***
辺境での暮らしが、エリザベスの中ですっかり根づいてきた頃のことだった。
まずは自分にできることから始めてみることにした。大きなことはできない。けれども、手の届くところから、ほんの少しずつ、良くしていくことならできそう。
最初に取り組んだのは、毎朝歩く、屋敷から湖のほとりへ続く小道だった。
その道は、夏のあいだに伸びた下草で、いつしか足元が見えにくくなっていた。エリザベスは、屋敷の者に頼んで草を刈らせ、自らも現場に立って指揮した。
雨のあとに滑りやすくなる窪んだ箇所には、平らな石を運ばせて敷かせた。一枚、また一枚と据えられていくうちに、ぬかるんでいた足元が、しっかり踏める道へと変わっていく。
川沿いの、いちばん見晴らしのよい場所。そこの景観を壊さないように、細心の注意を払って、据える位置を入念に決めた。バルタザールに手伝ってもらいながら、計画を仕上げていく。
平たい石を積み重ねて、腰かけられる場所をこしらえさせた。そこは、湖と、その向こうの山並みを、まっすぐに見渡せる一角。
数日かけて、その場所は出来上がった。手伝ってくれた者たちには、十分な給金を支払った。
完成した日、エリザベスは、積み上げた石の腰かけに座ってみた。
硬く冷たい石の感触が、衣を通して伝わってくる。目の前には、いつもの湖があった。けれど、こうして腰を下ろして眺める景色は、立って見るそれとは、また違って趣がある。
視線がゆるやかに下がり、水面がいっそう近く感じられる。風が、頬を撫でて通り過ぎていく。
ここに来てよかった。そんな思いが胸に浮かんだ。
毎朝、この景色を眺めて感動してきた。けれど、今この胸を満たしている心地は、それとはまた少し違っていた。自分が指揮し、思い描いたとおりに整えた場所が、こうして目の前にある。誰に見せるためでも、誇るためでもない。ただ、自分の手から生まれた、小さくて確かな満足だった。
大それたことは、何ひとつしていない。人に頼んで、草を刈らせ、石を敷かせただけ。それでも、こうしてひとつ、この土地に心地よい場所が増えた。
その事実が、エリザベスの胸に、じんわりとした温もりを残した。
***
新しくなった場所を眺めるたびに、胸の中で、何かがゆっくりと膨らんでいくのを感じた。
もっと、この土地を心地よくできないか。まだ漠然とした、形にならない想いだった。でも、なんだか大切なことのように思う。
その想いが表に出たのは、父への手紙を書いていたときのことだった。
ローズフェル侯爵である父へ、辺境での暮らしの近況を、定期的に知らせるためのものだ。エリザベスは窓辺の机に向かい、便箋を広げて、ペンを取った。
無事に過ごしていること。心を休めていること。土地の人々が温かいこと。湖の朝が美しいこと。はじめは、ただそうした日々のことを綴っていた。
書き進めるうちに、ペンは、思いもよらないほうへと動いていった。
この土地の美しさを、もっと活かす方法はないだろうか。領民の暮らしを、豊かにする手立てはないものか。この領地が抱える、根深い問題を解く道はないだろうか。
いつのまにか、近況の報せのはずの便箋に、そんな領地に関する考えを、いくつも書き連ねていた。
ペンを止めて、エリザベスは、自分の書いた文字を見つめた。
私は、こんなことを考えていたのね。改めて自分の考えを見返して、自覚する。
驚きにも似た思いが、胸をよぎった。村を見て回り、バルタザールから話を聞き、小道を整えてみたりする。そうしているあいだに、自分でも気づかぬうちに、この領地のこれから先を、真剣に考えるようになっていた。
書き上げた手紙を読み返して、エリザベスは、ふと手を止めた。
これは、少し出過ぎた真似ではないだろうか。
この領地の当主は、父である。その経営に、ただ身を寄せているにすぎない娘が、あれこれと口を出す。それは、分をわきまえぬ振る舞いなのではないか。便箋の上に並んだ自分の言葉が、急に、出過ぎたもののように思えてきた。
迷ったエリザベスは、その手紙をバルタザールに見てもらうことにした。彼の判断なら間違いないだろうと信頼して。
この内容で、父に送ってよいものだろうか。失礼ではないか。出過ぎた真似だと、思われはしないだろうか。そう尋ねるエリザベスに、バルタザールは、手紙に目を通してから、いつもの落ち着いた声で答えた。
「よく考えて、書かれていますね。これなら、気を悪くされることはないでしょう。送ってみてはいかがですか、お嬢様」
穏やかで、けれど迷いのない言葉だった。
その一言に、エリザベスは、背を押されたような心地がした。
たしかに、と思った。父はローズフェル侯爵家の当主だ。この領地の現状を、いちばん深く知るべき立場にある。娘の便りから、その困難を知り、もしかすると、何か手を打ってくれるかもしれない。自分ひとりでどうにかできることではないのだから、まずは当主である父に、現状を届けることに意味があるのだろう。
エリザベスは、手紙を畳み、封をした。
この土地の人々のために、できることがあるのなら。そう思いながら、便りを送り出した。
***
その手紙を送って、数日が過ぎた頃。
エリザベスの「この土地を良くしたい」という想いを、どこかで感じ取っていたのだろうか。ローズフェル家の領地の管理を任されているマーティンが、ひとつの提案を持って、エリザベスのもとを訪れた。
領地の開発について、考えていることがある、と彼は言った。
「お嬢様が、この土地のために心を砕いておられること、わたしもうれしく思っております。それで、僭越ながら、いくつか考えをまとめてまいりました」
マーティンが挙げたのは、まず、森の一部を切り拓くことだった。
屋敷の北に広がる森。その一帯を伐採すれば、新たに農地を広げることができる。仕事を生み出し、畑を増やす。さらに、と彼は続けた。山のほうへも目を向け、鉱脈がないか調査してみるのはどうか、と。もし鉱山が見つかれば、それは大きな実りになる。森を拓き、山を掘り、少しずつ開拓を進めていく。新たな村を作って、仕事を生み出すことで若者の流出を防ぐ。
「いずれも、辺境ではよく取られてきたやり方でございます。この土地を豊かにするには、やはり、こうして手を入れていくのが確かな道かと存じます」
マーティンの口ぶりに、私心はなかった。
長年この土地の管理を任され、村の暮らしを誰よりも真剣に見てきた男だった。若者が出ていき、村が細っていくのを何度も目にしてきたのだろう。そんな彼が、この土地をより豊かにしたい一心で、誠実に考え抜いた末の提案だった。彼の言うことは間違ってはいない。森を拓き、山を掘る。それは、領地を栄えさせるための一般的な手立てだった。
エリザベスは、その言葉を受け止めた。
だが、その提案にすぐ頷くことはできなかった。
彼の言うことは、もっともだ。理にかなっている。それでいて、胸の内に、なぜだか、すぐには頷ききれない何かがあった。
***
マーティンが退がったあとも、エリザベスは領地について考え続けていた。
まわりの領地も、きっと、そうやって発展してきたのだろう。森を拓き、山を掘り、土地を広げて、村を増やし、富を生み出してきた。マーティンの言うとおり、この領地が栄えるには、それが確かな道なのかもしれない。理性では、それが一理あると、ちゃんとわかっていた。
けれど。
もしそうするなら——あの森は、切り拓かれることになる。山に手を加えることになる。
エリザベスは、窓の外へ目をやった。
山並みが、やわらかな稜線を描いている。その麓に、湖が静かに横たわっていた。北に広がる森は、いまは深い緑をたたえて、風にゆれている。
その景色を眺めながら、エリザベスは、想像してみた。
あの森が伐り倒され、切り株の並ぶ更地になったところを。山肌が掘り返され、土がむき出しになったところを。毎朝、橙から金へと色を変えていく、あの湖の水面。マーティンが、楢の仲間だと教えてくれた、あの木々。秋には赤と金で湖を埋めるのだと、彼が語ってくれた、あの森。
それらが、失われたあとの景色を。
想像すると、胸の奥にすうっと、小さな痛みが走った。
気持ちが、しおれていくようだった。今まで、頭の中で組み立てていた理屈が、色を失っていく。豊かになるのだから、それでいいではないか。そう自分に言い聞かせようとしても、心が、まるでついてこなかった。
本当に、それをする価値があるのだろうか。
あの景色を失ってまで、手に入れなければならないものなのだろうか。
答えを探そうとして、けれど、答えはもう、自分の中に出ているような気がした。理屈よりも先に、感情が教えてくれていた。
私は、この景色を失いたくないのだ。
しばらく考えて、エリザベスは、マーティンの提案を、いったん保留にすることにした。
表向きの理由は、こうだ。これほど大きな話を、自分の一存で決めるわけにはいかない。当主である父にも、確認を取らなければならない。それは、もっともな道理だった。
けれど、本当のところは——エリザベス自身が、乗り気になれなかったから。
その本心を、エリザベスは自分でもはっきりわかっていた。マーティンの善意を、無下にはしたくない。彼が、この土地を思って差し出してくれた誠実な案を、ただ「気が進まない」の一言で退けることは、どうしてもできなかった。だから、「当主への確認」という、角の立たない形で結論を出すのを先延ばしにした。
その夜、エリザベスは自室で、ひとり考えにふけっていた。
燭台の灯りが、壁にやわらかな影を落としている。窓の外は、もう深い夜の藍に沈んでいた。
この土地にある美しい景色を守るか。大事な領民を、豊かにするか。
いつのまにか、自分はそれを、どちらかを選ぶ問いとして考えていた。けれども、本当に、そうなのだろうか。
いや違う、と思った。
これは、どちらかを諦める問いではない。
美しい景色を守りながら、領民を豊かにする。その両方を、同じだけ手にする道は、本当にどこにもないのだろうか。
森を拓かなくても、山を掘らなくても、この土地を栄えさせる手立てが——まだ誰も見つけていないだけで、どこかにあるのではないか。
答えは、まだ見えない。
それがどんな道なのか、エリザベスには、まるで見当もつかなかった。けれど、問いの形だけは、たしかに定まった。
諦めるためではなく、両立させるために、考える。
その新たな問いを胸に抱いて、エリザベスは窓の外に広がる闇を見つめ続けた。




