第40話 私も、同じ気持ちでした
「結婚してほしい」
その言葉の意味が、エリザベスにはすぐには理解できなかった。
王家領の務めを終えたエリザベスは、ローズフェルへ戻る支度を進めていた午後のことだった。報告の首尾を尋ねた彼女に、ルシアンは成功を伝え、そして、いつもの落ち着いた声で、けれど少しだけ硬さを残して、想いを口にしたのだ。好きになったこと。これからも共に歩みたいこと。
エリザベスは、言葉を失った。
彼女はただ、目の前の人を見つめていた。ルシアンは視線を逸らさなかった。飾り立てた言葉も、芝居がかった仕草もない。ただ真っ直ぐ、彼女の返答を待っている。その瞳の真剣さが、これが聞き間違いではないのだと告げていた。
エリザベスの胸の内で、何かが深く脈打っていた。
予想などしていなかった。差し出された言葉を、どう受け取ればよいのか、わからなかった。
時が、止まったように感じた。
窓から差し込む光も、遠くの槌の音も、すべてが遠のいていく。その静けさの中で、エリザベスの心は過ぎ去った日々を辿り始めていた。
いつから、だったのだろう。
ルシアン王子を、こんなにも近くに感じるようになったのは。
***
転機は、あの騒がしい日々だったように思う。
かつての婚約者アレクシスが急に押しかけてきて、過去の縁を盾に、自分を再び縛ろうとした、あの一件。あのとき、ルシアンは誠実に守ってくれた。
巻き込んでしまったことを謝罪すると、君が気にすることではないよ、と気を使って言ってくれた。
その言葉を、エリザベスは今も覚えている。負い目を感じる必要は何ひとつないのだと、彼は繰り返し、こちらの肩の荷を、そっと下ろしてくれた。
そのとき芽生えたのは尊敬であり、信頼だった。この方は信じてよい人なのだと。
それがいつ、別の色を帯び始めたのか。
はっきりと気付いたのは、あの別れの朝だった。
視察を終えたルシアン王子を、屋敷の前庭で見送った。馬車が丘の向こうへ消えていくまで、彼女はその場に佇んでいた。王族への最大級の礼として、最後まで丁寧に。けれど、馬車が見えなくなってからも、しばらく足は動かなかった。
胸の奥に、小さな寂しさが灯っていた。
ただの客人を送り出したのなら、こんな心持ちにはならない。そう気付いたとき、彼女は初めて、自分の中の何かを見た。
私は、あの方を特別に思っている。
その自覚は驚くほど静かに、けれど確かに胸へ落ちてきた。また会えたら嬉しい。また話ができたら、と。いつのまにか、彼の姿を目で追うようになっていた自分に、ようやく気付いたのだった。
***
想いは、それから知らず知らずのうちに育っていった。
王家領のリゾート開発。王命のもとで始まったその大事業の中で、二人は来る日も来る日も、顔を合わせた。図面を広げ、意見を交わし、行き詰まっては知恵を出し合い、より良い土地を目指して、共に駆けた。約一年半。長いようで短い日々だった。
その距離感の近さの中で、彼女はルシアンという人をより深く知っていった。
彼は努力家だった。わからないことがあれば、立場を恥じることなく誰にでも教えを請い、学んだ。約束を決して違えなかった。労を厭わずに、人の話に耳を傾け、誰かが躓けば、迷わず手を貸した。
その誠実さ、その真面目さ、その優しさに触れるたび、彼女の中で想いは少しずつ大きくなっていった。
けれど、エリザベスは現実もわかっていた。
彼は王族であり、自分は侯爵令嬢にすぎないと思っていた。前例がないわけではない。それでも、期待してよい立場では決してなかった。
それに自分は一度、婚約を破棄された身。王族の妃にふさわしいなどと、どうして思えるだろう。傷を負った令嬢に、あの方の隣が許されるとは思えない。
そして何より、怖かった。
かつて、エリザベスはアレクシスを信じた。両家のために、彼の将来を見据えながら支えようとした。良き妻になれるように、努めてきた。それでも婚約を破棄されて、捨てられた。あの痛みを、彼女は忘れられなかった。
もう一度、誰かに想いを預けて、また失ってしまったら。今度こそ、立ち上がれないかもしれない。
この想いは、胸の奥にしまっておこう。表に出さず、誰にも知られぬまま、ひそかに畳んでおこう。恋など考えない。ただ、目の前の務めにだけ、力を尽くせばいい。
そうやって、彼女は気持ちを仕事へと逃がしてきた。開発に全力を注いだのは、王家領のためだけではなかった。誰にも言えぬ想いから、目を逸らすためでもあったのだ。
この恋は、叶わない。
幾度も自分にそう言い聞かせ、封じてきた。だからこそ、目の前に差し出されたその言葉が、すぐには信じられなかった。
***
まばたきの間に、封じてきた想いのすべてが胸へと溢れ出してくる。
諦めていたものが、今、目の前にある。手を伸ばすことさえ許されぬと思っていたものが、向こうから差し出されている。
これは、夢ではないのだろうか。
いや、と、エリザベスは思い直す。
夢でも、社交辞令でもない。ましてや、同情などではない。目の前のルシアンの瞳には、紛れもない真剣さがある。彼が、こんな言葉を戯れで口にする人でないことを、彼女は知っている。
誰よりも、知っていた。
この一年半、誰よりも近くで彼の誠実さを見てきたのは、彼女自身だった。約束を違えず、人を立場で見ず、労を惜しまぬ人。あのアレクシス事件で、見返りも求めず、ただ自分を守ってくれた人。打算で人と向き合うようなことはしない。
その人が、口にしたのだ。一緒にいたいから、と。利でも、立場でもなく、ただ、共に歩みたいのだと。そんな願いを告白してくれた。
ルシアン王子の、この想いは本物だ。
そう直感した瞬間、信じられないという驚きが、ゆっくりと別の何かへと姿を変えていった。胸の内が、じんわりと熱を持つ。長いあいだ凍りついていたものが、その温もりで溶け出していくようだった。
目の前の人は、本気の気持ちをぶつけてきてくれている。
それを悟ったとき、ずっと胸の底に押し込めてきた想いが、もう抑えきれずに表へ溢れ出した。
ルシアン王子を好きだったのだ、と、エリザベスは思った。
ずっと、一緒にいたかった。
務めの相棒としてではなく。隣で笑い合い、同じ景色を見て、これから先の日々を、共に重ねていきたかった。叶わぬと諦め、心の奥に押し込めて、見ないふりをしてきた。けれど、本当は——本当は、嬉しかったのだ。彼の隣にいられた、その一日一日が。
潤んだ視界の中で、ルシアンの姿が、わずかに滲んだ。
また失うのが怖かった。一度信じて、捨てられたから。誰かに想いを預けることがこれほど恐ろしいことだと、彼女は知ってしまっていた。
けれど。
目の前のこの人は、あの頃の自分が信じた人とは、違う。立場でも、見栄えでも、利でもなく、ただ彼女という人間を、まっすぐに見てくれている。その想いが偽りでないと、もう、疑いようがなかった。
ならば——もう一度、信じてもいいのではないか。
怖さが消えたわけではない。それでも、この人となら、その怖さごと、抱えて歩いていける気がした。傷ついた過去を越えて、もう一度、誰かを想う勇気を。彼が差し出してくれている。
エリザベスは、ルシアンの目を見つめ返した。逃げも隠れもせずに。震える指先を膝の上で、そっと握りしめながら。
「殿下」
声が、わずかに揺れた。
「わたくしは……ずっと、この想いを、胸の奥にしまっておりました。叶うはずがないと、自分に言い聞かせて」
言葉が一つひとつ、こぼれていく。
「身分のことも、過去のことも。それに、また失うのが怖くて。だから、気付かぬふりをしてまいりました」
ルシアンは何も言わず、ただ黙って、彼女の言葉をしっかりと受け止めていた。
エリザベスは、息を吐いた。込み上げる温かさのままに、本当の想いを言葉にした。
「けれど。本当は、嬉しかったのです。あなたのお側にいられたことが」
潤んだ瞳に一滴、温かいものが浮かんだ。
「私も、同じ気持ちでした」
飾らない、けれど、心からの言葉だった。
「私も、あなたと共に歩みたいです。どうか——わたくしを、あなたの隣に」
***
ルシアンの顔に、ゆっくりと安堵が広がっていった。
張りつめていた何かが解けたように、その表情が和らぐ。やがて、彼は微笑んだ。あの、彼女がいつも心惹かれていた、穏やかで温かな笑みだった。込み上げる喜びを噛みしめるような、けれど、隠しきれずに滲み出す、深い幸福の色をたたえて。
「……ありがとう」
彼が、そう告げた。たった一言に、万感の想いが込もっていた。
二人の想いが、確かに通じ合った。
それから、ルシアンは少し声をやわらげて続けた。
「エリザベス。実は、君との結婚については、すでに父である陛下のお許しをいただいているんだ。だから、安心してほしい。誰にはばかることもなく、二人の仲を明らかにできる」
それを知らされて、エリザベスは驚く。
想いを告げるより前に、彼はもう、そこまでの覚悟を決めてくれていた。この人に自分のすべてを預けてもいい。より強く、そう思えた。
ずっと案じてきた身分の壁は、もう、二人の前に立ちはだかってはいない。あとは互いの心が一つになるだけ。そして今、それは結ばれた。
婚約が成った。
エリザベスは、ひとつ大きく息をついた。頬を伝った涙を、指先で拭う。けれど、それは悲しみの涙ではなかった。
諦めていた恋が、叶ったのだ。
婚約を破棄され、すべてを失いかけた令嬢が、新しい土地で立ち上がり、人と繋がり、そして今、本物の愛を手にしている。こんな日が来るとは、思ってもみなかった。
あの日、丘の向こうへ消えていく馬車を見送りながら胸に灯った、名もなき寂しさ。その正体を彼女はようやく、こうして正面から抱きしめることができた。
傷つくことを恐れていた心は、もう一度、信じることを選んだ。傷ついた過去は消えはしない。けれど、それを越えて、人は再び誰かを想うことができる。そのことを彼女は今、確かに知った。
窓の外では変わらず穏やかな午後の光が、街並みを照らしていた。やがて二人は、この地に築いたものを、もっと遠くへ、王国の隅々へと広げていくのだろう。その道のりを、これからは隣り合って歩いていく。
結婚と、その先に続く日々。まだ見ぬ未来の景色がほのかに、けれど温かく、胸に浮かんだ。
エリザベスは、ルシアンの方へ、そっと手を差し伸べた。彼の手が、それを優しく包み込む。
差し込む光が、二人を静かに照らしていた。
穏やかで、満ち足りた、新しい日々の始まりだった。




