第41話 私が手に入れたもの
その日、ローズフェル領の館の一室には、気心の知れた三人が集まっていた。
窓辺から差し込む昼の光が、磨き上げられた卓の上で柔らかく跳ねている。卓上には、領で採れた果実を使った焼き菓子と、香りのよい茶が並べられていた。湖から渡ってくる風が、開け放った窓のレースをゆるやかに揺らしている。
凛とした佇まいで椅子に腰かけているのは、セレスティア・ヴァンデール。プラチナブロンドを結い上げ、アイスブルーの瞳で、相変わらずの雰囲気。
その隣で、栗色のふわふわとした髪を揺らし、菓子を前に小さく歓声を上げているのが、リネット。
深緑の瞳を伏せ気味に、茶器の意匠をじっと眺めているのが、アドリアンだった。
婚約を破棄され、この辺境へ来たあの日から、手紙で、来訪で、この三人はずっとエリザベスを支えてくれた。
この人たちがいてくれたから、ここまで来られた。
茶を一口含んでから、エリザベスは静かに切り出した。
「今日、お集まりいただいたのは……皆さんに、お伝えしたいことがあったからなのです」
普段よりも丁寧なエリザベスの口調。それで重大な報告であることを察した三人の視線が、自然と彼女に集まる。
「ルシアン殿下と婚約しました」
口に出すと、その言葉は思いのほか柔らかく胸に響いた。この三人へは、しっかりと伝えたかった。何より先に、報告したかった。その願いが、こうして叶ったことが、ただ嬉しい。
ほんの一瞬、室内の時が止まったようだった。
リネットの手から、フォークが滑り落ちかけた。アドリアンが、わずかに目を瞠ったまま動きを止める。そしてセレスティアは、その薄い唇の端を、ゆっくりと持ち上げた。
***
「おめでとう」
最初に口を開いたのは、セレスティアだった。
その声には、驚きよりも、長く待っていたものがようやく形になったという、深い満足が滲んでいた。彼女はカップをそっと置き、まっすぐにエリザベスを見つめる。
「いいこと、エリザベス」
セレスティアは、ほんの少し身を乗り出した。
「あなたは、つらい時期をいくつも乗り越えてきた。そして今、心から信じられる人と、共に歩んでいくと決めた。でも、それで満足してはだめよ。これからもどんどん幸せになりなさい。それがあなたの役目よ」
いつもの率直な物言い。けれど、その奥に灯っているものを、エリザベスは知っていた。普段は感情を表に出さないこの人が、誰よりも自分のことを案じ続けてくれていたことを。だからこそ、その言葉はエリザベスの心の奥深くに届いた。
その言葉を忘れないように、大事に刻み込む。
その隣で、堪えきれなくなったように、ふっくらとした頬を震わせていたリネットが、勢いよく立ち上がった。ヘーゼルの瞳に、みるみる涙が盛り上がっていく。
「お……おめでとうございますお姉様!」
声は半ば泣き声になっていた。
「ずっと、ずっと、お姉様には幸せになっていただきたいって、わたし、思っておりましたから……っ。本当に、本当に、よかったです……!」
言い終わるより早く、リネットは目元を両手で覆ってしまった。小柄な肩が、嬉しさのあまり小刻みに揺れている。その純粋な喜びように、エリザベスの目の奥も、つきんと熱くなった。
最後にアドリアンが、顔を上げた。
常に状況を見極めて冷静に測るこの男が、珍しく、すぐには言葉を継げずにいた。分析より先に、心が動いてしまったのだろう。
「……正直、驚いたな」
彼は、一語ずつ確かめるように言葉にしていった。
「君のことだから、事業のことばかりに熱中して、この先結婚はしないのだろうと勝手に思っていた。だが……いや、よかった。心から、そう思う。君が誰かと並んで歩くのなら、これ以上に喜ばしいことはない」
普段は感情より理を語る男の、飾らない祝福だった。だからこそ、その短い言葉には、確かな重みがあった。
三者三様の祝福に包まれて、エリザベスは、ただ静かに頭を下げた。胸の奥が、じんわりと熱を帯びていく。
率直に背中を押すセレスティア。涙をこぼしながら全力で喜ぶリネット。理を超えて言葉に詰まるアドリアン。三人とも、少しも変わっていない。けれど、その少しも変わらないところが、たまらなく愛おしかった。
婚約を破棄され、何もかも失ったように思えたあの日。もし、この人たちがいなかったら、自分はここまで来られただろうか。手紙の一通一通が、来訪の一度一度が、どれほど心の支えになったか。
功績を語るなら、それは自分のものではない。この人たちと、分かち合うべきものだと思えた。
***
穏やかな空気のなかへ、控えめなノックが響いたのは、そのときだった。
扉が開き、ルシアンが姿を見せる。深く息を整えてから、彼は三人へ向けて、丁寧に一礼した。王子という立場を少しも振りかざすことなく。
「初めてお目にかかります。ルシアンと申します。エリザベス殿の友人である皆様に、ご挨拶をと思いまして」
三人の視線が、改めてルシアンへと注がれた。エリザベスの隣に立つ、一人の人物として。
セレスティアの鋭い眼差しが、彼の人となりを見定めていく。リネットは涙の残る目で、瞬きも忘れて見上げている。アドリアンは、いつもの観察する目で、けれど和らいだ色を浮かべて。
短い沈黙のあと、最初に口を開いたのは、やはりセレスティアだった。
「殿下。一つだけ、申し上げてもよろしいかしら」
「どうぞ、なんなりと」
セレスティアは、まっすぐに彼の目を見据えた。王族に対する礼儀はわきまえつつも、堂々とした態度で伝えたいことを真っ直ぐに伝える。
「この子は、一度すべてを失いかけて、それでも自分の足で、ここまで来た子です。私たちにとって、何より大切な友人なの。だから——」
一拍、置いて。
「エリザベスを、幸せにしてやってください」
その言葉に、迷いはなかった。彼女たちが、エリザベスを心から大切に思うがゆえの、託しだった。
ルシアンは、セレスティアの気持ちを正面から受け止めた。
そして、ほんの少しも間を置かずに答えた。
「もちろんです。私も、彼女と共に幸せになります」
飾り立てた誓いの言葉も、気負った宣言もなかった。迷いのない、短い即答。それが、何よりも彼の誠実さを物語っていた。
セレスティアが満足げに目を細める。リネットが、また新たに涙をこぼして、アドリアンは、深く一つ頷いた。
その光景を、エリザベスは温かな心持ちで見つめていた。
ずっと自分を支えてくれた人たちから、これから共に歩む人へ。何か大切なものが確かに手渡されていく。そんな気がした。
自分の大切な人たちが、自分の選んだ人を、受け入れてくれた。それだけのことが、こんなにも嬉しい。
***
季節は巡った。
花の盛りの頃、二人はささやかな、けれど心のこもった式を挙げ、夫婦となった。仰々しい祝宴ではなかった。ローズフェルの湖を望む丘で、親しい人々に見守られての、穏やかな門出だった。
そうして、いくつかの年月が流れていった。
エリザベスとルシアンは、手を携えて、王国の各地を巡った。
王都にほど近い湖畔には、四季の彩りを映す保養の地が拓かれた。陽光あふれる沿岸には、潮風と新鮮な海の幸を楽しむ宿が立ち並ぶ。山あいの温泉地では、湯けむりの向こうに紅葉が燃え、断崖の景勝地には、遠く海原を見晴らす露台が設けられた。
その土地ならではの景色を活かし、訪れる者を労わる。ローズフェルで芽吹いたその志は、行く先々で新たな形をとって根を下ろしていった。
ローズフェルの、あの美しい景色から始まったものが。
二人で図面を広げ、現地を歩き、土地の人々と語らう。意見がぶつかることもあった。けれど、それすらも心地よかった。同じものを見て、同じ未来を描き、肩を並べて一つひとつ形にしていく。
仕事の相棒であり、人生の伴侶。そんな日々の一つひとつが、エリザベスには何より満ち足りたものに思えた。
***
やがて、リゾートの文化は王国そのものを変えていった。
各地に人が集い、街道は旅人で賑わい、宿場や市場には活気があふれた。土地が潤えば、そこに暮らす人々の暮らしも豊かになる。かつて寂れていた土地が息を吹き返し、若者たちが胸を張って故郷の名を口にするようになった。
もてなしを学ぶ者が増え、新たな宿が建ち、街には笑い声が戻った。生まれた土地を離れずとも、誇りを持って生きていける。そんな場所が、王国のあちこちに、少しずつ増えていった。
その繁栄は、いずれ二人の名とともに語られることになる。王国にリゾートの文化を根づかせ、育て上げた礎として後の世の人々は、二人をそう呼ぶようになるのだろう。
評判は、国境さえ越えていった。海の向こうの国々からも、視察の使者や、協力を請う書状が届くようになる。ローズフェルの湖畔に灯った小さな火は、こうして、見知らぬ遠い土地へまで、ゆっくりと広がっていった。
けれど、これほどの広がりを前にしても、エリザベスの胸にあるのは、誇りよりも、感謝だった。
自分一人で成したことなど、何一つない。共に汗を流した領民たち。志を分かち合った仲間たち。背中を押してくれた友人たち。そして、隣で共に歩み続けてくれた、大切な人。
あの小さな景色を守りたい。ただそれだけの願いが、ここまで遠くへ届いたのは、数えきれない人たちのおかげだった。
***
その日の夕暮れ、エリザベスは原点であるローズフェルの丘に立っていた。
茜色に染まる湖と、点々と灯り始めた館の窓。何もなかったこの土地に、確かに息づくようになった、人々の営みの光。
婚約を破棄され、居場所も価値も失ったように思えた、あの日。すべて失ったと、うつむいていた少女が今、ここにいる。
失ったものなら確かにあった。けれど。
私が失ったものではなく——手に入れたものを、見つめていよう。
この景色。共に働く仲間たち。自らの手で築いた事業。心から信じ合える友人。そして、何より。
あの景色を守りたいと願った、自分。傷ついて立ち止まりながらも、もう一度立ち上がると決めた、自分。その手が選び取ってきたものが、今、目の前にある。
失ったものを数えていたら、きっとここには辿り着けなかった。手を伸ばし、握りしめ、育ててきたものだけが、こうして残った。
隣に立つ気配に、エリザベスは顔を上げた。
ルシアンが、同じ夕景を眺めていた。かつて、貢献する力などないと俯いていた人。何を為しても役には立たぬと、息を潜めていた人。けれど今は、王国に確かなものを遺し続け、その目には穏やかな充足が宿っている。
彼もまた、足りなかったものではなく、成し遂げたものを見つめているのだ。願いを叶え続けるその横顔が、そう教えてくれた。
「美しいな」
ルシアンが、ぽつりと呟く。
「ええ。本当に」
エリザベスは微笑んだ。
手に入れたものを、両手いっぱいに抱えて。隣には愛する人がいる。これから先も共に。
夕風が二人の間を、優しく通り抜けていった。
婚約破棄された令嬢の、穏やかな再出発は——こうして、希望に満ちた幸福へと、辿り着いたのだった。




