第39話 君と、共に歩みたい ※ルシアン視点
謁見の間に、長い沈黙が落ちていた。
エリザベスとの結婚を認めてほしい。その願いを口にしてから、どれほどの時間が流れただろう。父王アルベリクは、ただじっと、ルシアンの顔を見つめている。その眼差しが何を思うのか、すぐには読み取れなかった。
それでも、ルシアンは目を逸らさなかった。俯きもしなかった。望みを口にすることさえできなかった、かつての自分なら、とても叶わぬことだった。
やがて、父王が口を開いた。
「お前は、変わったな」
その声は、思いのほか穏やかだった。
「力などないと目を伏せていたお前が、国家の事業を成し遂げた。そして今、自らの望みを、こうしてはっきりと口にしている」
威厳の奥に、隠しきれぬ温かさが滲んでいた。
「功績への褒美というなら、何なりと与えよう。地位も、領地も、思いのままだ。だが、お前が真に望むのは、それではないのだな。立場のためでも、釣り合いのためでもなく」
ルシアンは、深く頷いた。
「はい。私が、そう願うのです」
父王の口元が、ふっとゆるんだ。息子の成長を、そしてその幸福を、確かに認める表情だった。
「許そう。お前の選んだ相手なら、案ずることは何もあるまい」
胸の奥に安堵と同時に、温かいものが広がっていく。成し遂げたことへの誇りとはまた違った。自分の心ごと、父に認められた。その安堵と喜びが、じわりと全身に染みていった。
ルシアンは正式な許可を得て、深く頭を下げた。
***
謁見の間を辞すると、張り詰めていたものが解けて、長い日々の記憶が、ふいに胸をよぎった。
王家領のリゾート開発に着手してから、およそ一年半。数えきれぬ会議があり、眠れぬ夜があった。ひとつ決めるたびに、新たな問いが立ち上がる。うまくいかぬことのほうが、むしろ多かったかもしれない。それでも、何もなかった土地に、新たなものを成していった。そんな挑戦の日々が楽しかった。
その日々を思い返せば、どの場面にも、隣にはいつもエリザベスがいた。
より良い形を求めて、二人は幾度となく言葉を交わした。彼女が知見を示し、ルシアンが問いを返す。意見がぶつかることもあったが、それすら事を前へ進めるためのかけがえのない時間だった。
夢中だった。目の前の課題を片づけることに追われ、自分の心がどうであるかなど、立ち止まって考える暇もなかった。
だから、気づいていなかったのだろう。
いつ、彼女に対する想いが芽吹いたのか。ルシアンは、その瞬間を明確に覚えている。あの、リゾートが完成した日のことだ。
***
苦労して進めてきた事業の計画が、ついに形を成し、人々を迎え入れたあの日。
集った者たちの歓声、満ち足りた賑わい、晴れ渡った空。すべてが報われたのだと、その場の誰もが顔を輝かせていた。
その時、ルシアンは隣に目をやった。いつもの通り、そこが定位置となっていた彼女に向けて。
エリザベスが笑っていた。
成功を心から喜び、誇らしげに、それでいて、肩の力の抜けたような面持ちで。その横顔を見た瞬間、ルシアンの心は、どうしようもなく反応していた。
彼女が優れた手腕の持ち主であることは、誰よりもよく知っている。事業の相棒として、これほど頼れる相手はいなかった。社交界の高い評価も、その功績の確かさも、すべて承知していた。
けれどあの一瞬、心を奪ったのは、そういった頼りがいというものではなかった。
ただ、隣で笑う、その顔だった。喜びを分かち合おうとする、その温かさだった。彼女という人が、そこにいてくれること、そのものだった。
優れた者なら、ほかにもいるだろう。だが、あの笑顔は、彼女のものでしかない。その人柄が、その心根が、たまらなく愛おしいのだと、あの日、ルシアンは思い知った。
長いあいだ自分は彼女を、最も頼れる相手として敬い、信頼してきた。その想いに嘘はない。ただ、あの笑顔は、敬意だけでは説明のつかない感情の部分にも、とうに根を下ろしていたのだ。
***
仕事の相棒として、彼女を信頼している。それは、これからも変わらない。
けれど、もう、それだけでは足りなかった。
ひとつの事業を成し遂げる、その間だけではない。これから先の人生を丸ごと、彼女と並んで歩いていきたい。そう願う自分に、ルシアンははっきりと気づいていた。
願ってしまえば、その願いは思っていた以上に強く、胸を占めた。これまで自分のために、何かをこれほど切実に望んだことが、あっただろうか。王国の役に立ちたいと考えてきた。けれど、自分自身の幸福をこんなにも欲したことは、一度もなかった気がする。
そして、その願いに気づいた途端、覚えのない感情が忍び込んできた。
焦りだった。
エリザベスは優秀で、美しく、社交界からの信頼も篤い。かつての婚約破棄という痛手も、彼女はとうに過去のものとしている。
もし、新たな縁談が持ち込まれれば。きっと、すぐにでも相手は決まってしまうだろう。それだけの実績と魅力を、彼女は備えているのだから。
彼女を誰にも渡したくない、という独りよがりではなかった。彼女には彼女の意思があり、その心は、彼女自身のものだ。それを奪う権利など、誰にもありはしない。
ただ隣にいたいと願ったその矢先に、その機会そのものを永遠に失ってしまうかもしれない。そう思うと、いてもたってもいられなかった。
父王に願い出たのも、つまるところ、この焦りに背を押されてのことだった。そして今、許しは得た。ならば、ぐずぐずしている場合ではない。
失いたくない。隣にいたい。その願いが、ルシアンを早足で彼女のもとへと向かわせた。
***
他のどの用事よりも優先してルシアンが向かったのは、エリザベスのもとだった。
報告すべきことも、片づけるべき務めも、いくつか残っていた。それでも、まずは彼女に会いたかった。いつのまにか、ルシアンの中で彼女はそれほど大きな存在になっていたのだ。
廊下を行く足が、ひとりでに速まる。
エリザベスは、滞在先の一室で、彼を待っていた。ルシアンの姿を認めると、わずかに身を乗り出すようにして、案じる色を浮かべる。
「殿下。陛下へのご報告は、いかがでしたか」
何か障りはなかったか。彼女はルシアンの務めの行方を、まるで我がことのように心配してくれていたのだ。
「ああ。すべて、滞りなく終わったよ」
そう告げると、エリザベスは、ほっと肩の力を抜いた。
そして、ふわりと笑った。
「ようございました。本当に……ようございました」
心からの安堵がにじんだ、柔らかな笑みだった。
その顔を見て、ルシアンの鼓動が跳ねた。
ああ、自分が惹かれたのはまさに、この笑顔だったのだと思う。あの完成の日に、自分の心を奪ったその笑顔。それが今、目の前にある。
愛おしさが込み上げ、それと同時に、これから伝えようとする言葉に緊張が背筋を駆け上がっていった。
***
心臓が、痛いほどに鳴っていた。
雄弁な言葉など、持ち合わせてはいない。気の利いた台詞も、芝居がかった振る舞いも、自分には似合わないだろう。きっと、しどろもどろになる。それでも、伝えなければ、何も始まらない。
飾らず、ありのままに。それだけだと、ルシアンは思った。逃げない。遠慮もしない。
「エリザベス。聞いてほしいことがある」
彼女が、不思議そうに彼を見上げた。
ルシアンは、ひとつ息を吸った。
「私は、君のことが好きだ」
声は、わずかに震えていたかもしれない。それでも、止まらなかった。まっすぐ、その言葉を口にする。
「一人の女性として……いや、君という人そのものに、惹かれていた。いつからか、ずっと」
言葉を探しながら、けれど偽りなく、ルシアンは続けた。
「これからも、君と一緒にいたい。今回の仕事が終わってしまったから、それきりではなく。この先の人生を、ずっと、君と共に歩んでいきたいんだ」
胸の奥にあった想いが、ひとつずつ言葉になっていく。
地位のためでも、王家のためでもない。王国の発展への貢献のためでも、君の力を借りたいからでもない。理由は、ただひとつだけだった。
君と、一緒にいたいから。それが、偽らざる本音。
「だから――結婚してほしい」
言い終えて、ルシアンは、まっすぐに彼女を見つめ続けた。
言うべきことは伝えた。後は、彼女の答えを聞くだけ。
長いあいだ抱いてきた、王国に貢献したいという願い。それを成し遂げ、誰もが認める功績を手にした、その果てに、自分が本当に欲しかったものが何だったのか、もう理解した。
彼女と一緒に生きていくこと。自分の望みは、それだった。
かつて、自分の望みを口にすることすら恐れていた男が、今、エリザベスへ想いを告げた。
二人を静寂が包んだ。
ルシアンの内では祈るような期待と、張り詰めた緊張とが、せめぎ合っていた。
想いは伝えた。
けれど彼女が何を思い、どう答えるのか。それはまだ、わからなかった。




