第38話 欲しいものは、一つだけ ※ルシアン視点
王家領の更地に最初の槌音が響いたのは、まだ風の冷たい頃だった。
それから、季節がいくつ巡っただろう。
ルシアンは、その一角に広がる現場を幾度となく自分の足で歩きながら確認した。専門家に図面を設計させ、それを承認し、職人を配置する。図面の上でしか存在しなかったものが、土を均され、礎を据えられ、骨組みを得て、少しずつ姿を変えていく。その過程を、彼は細かに見届けていった。
職人に問い、現場の責任者と頭を突き合わせ、時には埃にまみれながら、ひとつひとつの判断を重ねていった。受け身でいた頃の自分なら、考えられないことだった。
夏の陽の下では、人々が汗を流していた。秋風の頃には、海を望む高台に、建物の輪郭がくっきりと浮かび上がっていた。冬を越え、再び芽吹きの季節が来ると、白い壁が、磨かれた窓が、陽を受けて輝き始めた。
その傍らには、いつもエリザベスがいた。
彼女は、辺境で培った知見を惜しみなく注いでくれた。湯の引き方、人の動線、訪れた者の心を解きほぐすための、細やかな心配り。ルシアンが見落とさないように、彼女は的確に助言してくれた。二人で言葉を交わし、時に意見を擦り合わせ、よりよい形を探っていく。その繰り返しの中で、構想は、少しずつ現実の重みを帯びていった。
人も育っていった。最初は不慣れだった者たちが、季節を重ねるうちに、自らの仕事に誇りを持つ顔つきへと変わっていく。
不安が、すっかり消えたわけではなかった。けれど、一歩ずつ進むたびに確かな手応えが、胸へ積もっていった。
巡る季節とともに、ルシアンが主導する事業は形になっていった。
そしてついに、その日が訪れた。
***
完成した王家領のリゾートを前に、ルシアンはしばらく言葉を失っていた。
海を望む高台に、品よく整えられた宿が並び立っている。白を基調とした建物は、辺境のローズフェルのそれを思わせながらも、王家領の格式にふさわしい、ゆったりとした佇まいを湛えていた。庭園には花が咲き、遊歩道は穏やかに海辺へと続いている。湯の館からは、白い湯気が立ちのぼり、風に溶けていく。
ここに来た者は、誰もが癒されるに違いない。
長く滞在したいと思える土地。ただ過ごすだけで、強張った肩から力が抜けていくような、そんな空気が、この地には満ちていた。辺境で芽生えたあの理念が今、王国の規模で、実を結んだのだ。
開業から、半年が過ぎていた。
その間に、この地を訪れる者は増え続ける一方だった。
着飾った貴族たちが馬車を連ねてやってくる。富裕な商家の者たちが家族を伴って長逗留する。湯を楽しみ、海辺を歩き、夜には灯りに彩られた宿で語らう。広間にはいつも、満ち足りた賑わいがあった。
人が集まれば、そこに新たな流れが生まれる。
ルシアンが市の通りに目をやると、所狭しと商人たちが店を構えていた。土地の産物、遠方から運ばれた品、訪れた者の目を楽しませる工芸。売り買いの声が飛び交い、銀貨が行き交う。昨年までは、何もなかった通りだった。
王家領には珍しい、活気あふれる土地に生まれ変わったのだ。
訪れる者が金を落とし、商人が潤い、その潤いがまた新たな商いを呼ぶ。聞けば、税収も収益も、当初の見込みを大きく上回っているという。この地は今や、王家領にとって、無視できぬ実りをもたらす場所へと育っていた。
そういった結果が数字で報されるよりも、ルシアンには、目の前の光景のほうが、よほど雄弁だった。
行き交う人々の足取り、商人たちの活気、絶えることのない笑い声。それらすべてが、この事業の成功を何より確かに物語っていた。
その光景を前に、ルシアンは込み上げるものを感じていた。
王家の発展に、確かに貢献できた。目の前の賑わいが、その何よりの証だった。
傍らではエリザベスもまた、賑わう通りへと目を向けていた。共にここまで歩んできた者として、その横顔には穏やかな満足の色が浮かんでいるように見えた。
***
多くの人が笑っていた。
湯上がりの上気した顔で、ゆったりと寛ぐ者。商いがうまくいったのか、満面の笑みで仲間と杯を交わす商人。
その一人ひとりの笑顔を、ルシアンは見渡していった。
ここで人が憩い、商いが栄え、土地が潤っている。働く平民たちにも、恩恵が行き渡っている。そして、それらすべてが王国の豊かさへと繋がっていく。
自分の働きが、確かに王国の役に立てている。その実感が、確かな重みを持って胸に落ちてきた。
込み上げてくるものを、ルシアンは噛みしめた。けれど、それは自分一人の手柄だと誇る気持ちとは、まるで違っていた。
むしろ、胸を満たしていたのは感謝だった。
エリザベス。彼女の知見と経験がなければ、この事業は構想の段階で頓挫していただろう。現場を取り仕切ってくれた責任者たち。寝食を惜しんで働いてくれた、数えきれぬ平民たち。志を共にしてくれた、すべての者の顔が次々と脳裏に浮かんでくる。
自分一人では、ここまで来られなかった。
それは、紛れもない事実だった。
かつては、助けを求めるという発想すら持てなかった。何もかも自分一人で背負おうとして、そうして失敗し、自信を失い、動けなくなっていた。けれど、今は違う。信頼できる者の手を借りたからこそ、この大事業は形になった。あの判断は、間違っていなかったのだ。
とりわけ、エリザベスへの想いは、ほかの誰へのそれよりも一段深いところに根を張っていた。
彼女がいなければ、と思うたびに胸の奥が温かく、そして少しだけ、苦しくなる。最も頼れる相手。最も信頼を寄せる相手。彼女は、いつしか、自分にとって、それほどまでに大きな存在になっていた。
多くの人の笑顔と、支えてくれた人々への尽きせぬ感謝。
その実感を胸に、ルシアンはひとつの区切りを迎えようとしていた。
***
事業の立ち上げと土地開発の責任者として、ルシアンの役目はここまでだった。
完成し、軌道に乗ったこの地の管理運営は、王家の専門部署へと引き継がれることになっていた。ルシアンは、引き継ぎの一切を、滞りなく済ませた。担当の者たちへ必要な事柄を伝え、後を託す。後ろ髪を引かれる思いがないわけではなかったが、それが責任ある事業の、責任ある締めくくり方だった。
こうして、王家から与えられた任務をルシアンは完遂した。
大事業を、最後までやり遂げたのだ。
その事実が、じわじわと胸の奥へ染み渡っていく。
王国の役に立ちたい。
それは、ルシアンが長いあいだ、密かに抱き続けてきた願いだった。何を為しても役には立たぬと、俯いていた頃でさえ、その願いだけは消えずに胸の隅にあった。叶うはずもないと、半ば諦めながら。
その願いを、自分は初めて形にできたのだ。
これまで味わったことのない達成感が、じわりと、けれど確かに全身を満たしていった。
自分にも、できたのだ。
誇示するための言葉ではなかった。長いあいだ自分を縛り続けてきた、あの自己否定からの解放だった。貢献する力など、自分にはない。そう信じ込んで、息を潜めていた、かつての自分。その自分はもう、どこにもいなかった。
胸の奥に残っていた曇りが、晴れていく。
成し遂げた誇りと、支えてくれた者たちへの感謝。その二つは矛盾することなく、ルシアンの中に共に在った。
願いを、初めて形にできた。
その達成を胸に、ルシアンは父王のもとへ報告に向かった。
***
謁見の間には、父王アルベリクが上座に座していた。
ルシアンは一礼し、口を開いた。事業の経過と、その成果を一つひとつ、報告していく。
王家領のリゾートが完成し、開業から半年で大きな盛況を見せていること。多くの貴族や富裕層が訪れ、利用者は増え続けていること。商人が集い、新たな取引が生まれ、税収も収益も見込みを大きく上回り、王家領の重要な収入源へと育ちつつあること。そして、この地が今後も王国にもたらすであろう、確かな将来性を。
冗長に飾り立てる必要はなかった。やり遂げた者の充足とともに、ルシアンはただ事実を、要点を押さえて告げていった。
報告を終えると、しばしの沈黙が満ちた。
やがて、父王が深く頷いた。
「見事だ」
その一言には王としての威厳とともに、隠しきれない温かさが滲んでいた。
「与えた任を、お前は、最後までやり遂げた。それも、これほどの実りとともにな。机上の絵空事を、現実の事業として国に根づかせてみせた。誇ってよい働きだ」
ルシアンは、深く頭を下げた。
「お前の働きには、それにふさわしい褒美を与えねばなるまい」
父王はルシアンをまっすぐに見据えて、続けた。
「望むものを申してみよ。地位か、名誉か、それとも領地か。お前が望むものを、この機に、与えようと思う」
その言葉にルシアンは一瞬、答えに詰まった。
自分のために何かを望むということ自体に、慣れていなかったのだ。望むもの、と問われて、すぐには、言葉が出てこなかった。
ルシアンはわずかに視線を落とし、自らの胸に問いかけた。
自分が本当に欲しいものは何だろう。
その時。
彼の脳裏に、一人の人物が浮かんだ。
***
地位でも、名誉でも、財産でも、権力でも――望むものを。
そう問われて真っ先に浮かんだのは、そのどれでもない。
エリザベスの姿だった。
共に図面を覗き込み、意見を交わした数えきれぬ日々。現場を並んで歩いた、あの時間。事業が形になっていくたびに、傍らで穏やかに頷いてくれた、彼女の横顔。賑わう通りへと目を向けていた、つい先日の満ち足りた表情。
それらが、次々と記憶に蘇ってくる。
その瞬間、ルシアンは悟った。
自分が本当に欲しいものは、王が与えようとする、どんな褒美でもない。彼女だ。エリザベス、ただ一人だった。
ああ、そうだったのか。
胸に、ひとすじの光が差し込むような、そんな感覚だった。
長いあいだ彼女に向ける想いを、ルシアンは恩人への信頼だと思っていた。最も頼れる相手への、敬意だと思っていた。安心できる存在への、親しみだと。それらは、決して間違いではなかった。けれど、それだけではなかったのだ。
いつからか、その想いは、もっと別の何かへと、いつのまにか姿を変えていた。気づかぬほど、緩やかに。そして今、褒美を問われたこの一瞬に、ずっとそこにあったものが、ようやくはっきりと見えてきた。
私は、彼女を――。
胸が張り裂けるような、激しいものではなかった。ずっと前からそこにあったものを、ようやく正しく名づけられた、そんな穏やかで確かな心地だった。
これが、恋なのだ。
そう確かめてみると、不思議なほど、すとんと腑に落ちた。
自覚はルシアンに、小さな勇気を与えた。
ルシアンは顔を上げた。そして、まっすぐに父王の目を見つめた。
その瞳に、もう迷いはなかった。
「エリザベスとの結婚を認めていただきたい」
声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
地位でも、名誉でもない。長年抱いた願いを成し遂げ、誰もが認める功績を手にした、その果てにルシアンが初めて自分のために望んだもの。それは、なによりも大切だと思える一人の女性だった。
願いを聞いた父王は、しばらく黙ったまま、じっとルシアンの表情を見つめていた。その眼差しが何を思っているのか、ルシアンには読み取れなかった。
それでも、彼の胸の内は不思議と凪いでいた。
成し遂げた王子は今、自分の心を知った。願いは確かに、言葉になった。
あとは、父の返答を待つばかりだった。




