第37話 君の力を貸してほしい ※ルシアン視点
石畳を踏む馬車の音、立ち並ぶ尖塔に、整然と区切られた街区。隅々まで人の手が行き届いた、洗練された景色。けれど、辺境の地で胸いっぱいに吸い込んだ、森林の匂いや湖の美しい景色、ゆるやかに流れる時間は、ここにはない。
帰ってきたのだと、ルシアンは思った。視察を無事に終え、学んだ知識を携えて。
ルシアンは持ち帰った資料を整理する。書き留めた覚書に、図面の写し、心に刻みつけた光景の数々。それらを順序立てて整理しながら、報告の言葉を頭の中で何度も組み立て直す。
これを無事に報告できるか。仕事の要として大事な部分。失敗はできない。緊張が、胸の奥にあった。けれど、それに押しつぶされたりすることはない。
伝えたいことがある。だから、緊張ばかりしていられない。
かつての自分なら、こんな感覚は持てなかっただろう。何を為しても役には立たぬと、ただ失敗を犯さないように、問題から逃れようとしていた頃の自分。だが今は、得た知識を、しっかりと言葉にして届けたい。任された仕事をちゃんと成し遂げたいと、素直にそう思えた。
ルシアンは整えた資料を手に取り、立ち上がった。父王たちの待つ場所へ。
***
謁見の間には、父王アルベリクが上座に座し、その傍らには兄王太子セドリック、彼らの他にも数名の王族や重臣が居並んでいた。
ルシアンは一礼し、口を開いた。
「ローズフェル領で見てまいりましたことを、ご報告いたします」
出した声は、思いのほか落ち着いていた。
彼は語った。湖畔に築かれた湯治の館のこと、訪れる者を癒す温かなもてなしのこと、辺境の地が人を呼び、賑わいを生み、領そのものを豊かにしていく様を。誰かの受け売りではない。自分の目で見て、肌で感じ、心を動かされたことを、自分の言葉で。
「あの地には、人を惹きつける力がございました。美しい景観、心を解きほぐす静けさ、そして何より、訪れた者を労わろうとする確かな志が」
報告を続けるルシアンには、ひとつの確信があった。あの場所で得たもの。荒んだ心がほどけ、再び前を向けたという、あの実感が言葉の一つひとつに力を与え、聞く者を惹き込んでいった。
「これは一つの領にとどまる話ではないと、私は考えます。人が集い、土地が潤い、文化として根を張っていく。その萌芽を、私はあの地に見てまいりました」
報告を終えると、間に、しばしの沈黙が続いた。それは、ルシアンの報告内容を各々が冷静に吟味する時間。
やがて、父王が頷いた。
「よく報告してくれた。お前の言葉には、確かな手応えがある」
その声には、威厳とともに隠しきれない温かさが滲んでいた。
「机上の数字ではなく、自らの足で確かめてきた者の言葉だ。よくぞ、それだけのものを持ち帰った」
兄セドリックも、口元に笑みを浮かべて言った。
「見違えたな、ルシアン。お前がこれほど雄弁に語る姿を見るのは、初めてかもしれない」
からかうような響きの奥に、弟の働きを喜ぶ色が、確かにあった。
ルシアンは、黙って頭を下げた。
胸の奥が、じんわりと熱を持っていく。けれど、舞い上がりはしなかった。ただ、ゆっくりと噛みしめていた。
王国の発展に貢献する力なんて自分にはない。そう諦めて、息を潜めていた頃が、つい先ごろのことのように思える。その自分が今、王家の前で、確かに評価されている。
これほど確かな手応えを得ることなど、これまでの彼の人生には、ほとんどなかった。だからこそ、その実感をルシアンは深く味わっていた。
***
けれど、父王の言葉は、そこで終わらなかった。
「ルシアン」
「はい」
名を呼ばれ、ルシアンは返事をしながら顔を上げた。視線が交差する。
「お前が持ち帰ったもの、机上に眠らせておくには惜しい。その知識を活かしてみるつもりはないか」
その言葉の意味を、ルシアンが計りかねていると、父王は静かに続けた。
「王家の領地にて、かの地に倣ったリゾートを興すのだ。王家が主導し、観光政策として国に根づかせる。お前の見てきた成果を、現実の事業として形にせよ」
謁見の間の空気が張りつめた。
それが王命であると、ルシアンは理解した。
王家領でのリゾート開発。王家主導の観光政策。視察の成果を、国家の事業として結実させること。それはこの上ない栄誉だった。そして同時に——かつて心に抱いていた願いが、いよいよ現実の形を取ろうとする、その瞬間でもあった。
リゾートの文化を、王国の各地へ広げたい。それが、自分の使命ではないか。あの地で芽生えた、確かな志。それが今、王命という、思いもよらぬ大きさで、目の前に差し出されている。
けれど。
同時にルシアンの中で、冷静な判断も働いていた。これは慎重に考えねばならないことだ、と。
王家領での開発。王家主導の事業。国家の未来にも関わる計画。
それは、辺境の一領地とは規模が違う。動く人も、金も、背負う責任も、比べものにならない。
自分に、務まるのだろうか。
本当に、成功させられるのか。期待をかけられ、評価された、その勢いのままに頷いて、もし、何ひとつ形にできなかったとしたら。
不安が、確かに胸をかすめた。
***
けれどルシアンは、その場で止まることはなかった。
以前の自分なら、どうしていただろう。
きっと、目を伏せていた。自分には無理だと、できない理由を並べて、その大役からそっと身を引いていた。波風を立てず、責任を負わずに済む場所へ。失敗して、何かを失うくらいなら、最初から挑むべきではないと。
けれど、もう、あの頃の自分ではなかった。
ルシアンの脳裏に、いくつかの光景が浮かんだ。
心を癒してくれた、あの湖の景色。沈んでいた自分を、何も言わずに掬い上げてくれた、穏やかな時間。そして——傷を負いながらも立ち上がり、何もなかった土地に理想を形にしていった、一人の尊敬できる女性の姿。
婚約を破棄され、辺境で療養が必要なほど消耗していた彼女。でも、彼女はいつまでもうつむいていなかった。顔を上げて、自らの足で立ち、一から築き上げた。その姿が、どれほど自分を勇気づけたか。
不安は消えなかった。きれいに拭い去られたわけではない。胸の奥には、確かにそれが残っている。
それでも、ルシアンは思った。
逃げたくない。やってみたい。やり遂げたい。
諦めて立ち止まっていた自分は、もういない。不安を抱えたままでも、前へは進める。むしろ、不安があるからこそ慎重に、誠実に事を運べるのかもしれない。
ルシアンは、深く息を吸い、父王の目を見て答えた。
「王家領でのリゾート開発。謹んで、お受けいたします」
声に迷いはなかった。
***
その決意は、勢いに任せたものとは違う。
謁見の間を辞し、再び一室に戻ったルシアンは卓の上に広げた資料を前に、冷静に考えを巡らせていた。
受けると決めた。だが、自分一人の力で突き進めば、どうなるか。
答えは明らかだった。
失敗する。おそらくは無残に。
志があれば事が成るわけではない。あの辺境のリゾートが形になったのは、確かな知識と、幾多の経験と、現場を回す手腕があってこそだ。自分には、そこまでの実力はないだろう。視察で学びはしたが、見てきたことと自ら興すことの間には、深い隔たりがある。
この事業には、経験豊富な専門家が要る。実際にリゾートを築き、それが噂になり、土地を潤わせた、本物の知見を持つ者が。
その答えは、ルシアンの中で、すでに一つに定まっていた。
エリザベス・ローズフェル。
ほかに、いるはずもなかった。すべては彼女から始まったことだ。何もない辺境を、貴族の集う地へと変えてみせた彼女以上の専門家など、どこにもいない。
彼女を頼ろう。それは、ルシアンの冷静な、最も理にかなった判断だった。
一人で抱え込んで潰れるより、最も信頼できる者の手を借りて、事を成す。それは逃避ではない。責任を引き受けた上での賢明な選択だ。為すべきことを為すために、必要な力を借りねばならない。
助けを求めたいと、心から思える相手がいる。それはむしろ幸運なことだった。
ルシアンはペンを取った。エリザベスへ正式に協力を要請するために。その文面を、一字ずつ丁寧に綴り始めた。
***
返事は、ルシアンの予想を、はるかに超える早さで届いた。
いや、返事ではなかった。
手紙を送ってから数日後。応接室へ向かうと、そこに、エリザベス本人が立っていたのだ。
「エリザベス殿……っ」
つい先日、別れたばかりだった。また訪れてもよいかと、彼女が穏やかに告げた、あの別れから、そんなに時間は経っていない。それなのに、こうして取るものも取りあえず、王都まで駆けつけてくれたのだ。
申し訳なさが、込み上げた。
領の務めも、山ほどあるだろうに。それを放り出させるように呼びつけて、長旅の負担まで背負わせてしまった。
「すまない。別れたばかりだというのに、こちらの都合で呼び立ててしまって。さぞ、無理をさせただろう」
ルシアンが詫びると、エリザベスは首を横に振った。そして、ふわりと優しく微笑んだ。
「いいえ、ルシアン殿下。どうか、お気になさらないでください」
張りのある、けれど柔らかな声だった。
「殿下からお声をかけていただけたこと、むしろ光栄に思っております。私の知るものが、お役に立てるのでしたら……これほど嬉しいことはございません」
王族への礼を、彼女は少しも崩さなかった。それでいて、その言葉の一つひとつには、心からの真心が宿っていた。義理でも、世辞でもない。本当に、力になりたいと願ってくれているのだと、ルシアンには彼女の真意が真っ直ぐに伝わってきた。
その瞬間、胸のつかえがほどけていった。代わりに広がったのは、温かな何か。
彼女が来てくれた。ただ、それだけのことで、こんなにも心が軽くなる。重く構えていた肩から、ふと力が抜けていくのを、ルシアンは感じていた。
不思議だった。一人で向き合っていたときには大きく見えた不安が、彼女がそこにいるというだけで、ずいぶん小さくなったように思えるのだ。
「ありがとう」
ルシアンは、そう告げてから、改めて姿勢を正した。
「王家領で、ローズフェルに倣ったリゾートを興すことになった。王家が主導して、観光を国の政として根づかせる——そういう話だ。正直に言えば、私一人では、とても背負いきれない」
ルシアンは、まっすぐにエリザベスを見つめた。
「だからぜひ、君の力を貸してほしい。君の知識と経験が、どうしても必要なんだ。共に、この事業を成してくれないだろうか」
エリザベスは、ほんの一瞬だけ目を見開いた。力になれるのかと問うような色が、その面差しをよぎる。けれど、すぐに彼女は、瞳に決意の光を灯して、深く頷いた。
「謹んで、お引き受けいたします。微力ながら、全力を尽くさせていただきます」
こうして、王家領のリゾート開発は、二人の名のもとに正式に動き出した。
逃げずに挑むと決めた王子と、心から力を貸そうとしてくれる女性。二人が並んで、この大きなものへ踏み出していく。
窓の外には、王都の空が広がっていた。
その下で新たな挑戦が今、幕を開けようとしていた。




