第36話 いつでも歓迎いたします
よく晴れた朝。窓の外には、見慣れたローズフェル領の景色が広がっている。
なだらかな丘の連なりと、その向こうに光る湖面。湯治場から立ち昇る白い湯けむりが、湖から吹く風に流されてゆるやかにたなびいている。湯治場へ向かう人々の影が、石畳の小道をのんびりと行き来していた。
エリザベスは、その光景をしばらく落ち着いた気持ちで眺めていた。
とても、穏やかな日々だった。
少し前、この地に小さな波風が立っていた。前触れもなく押しかけてきた、かつての婚約者。けれど、それももう過ぎたこと。彼が残していった重苦しい空気は、あっという間に湖の風にさらわれ、すっかり消え去った。今この領地に、過去の影は差していない。
遠くで、職人たちの槌の音が響いている。貴族たちに人気の湯小屋を増やすため、新しい建物の工事がまた一つ進んでいるのだろう。市場の方からは、焼きたてのパンの匂いが風に乗って届いてくる。誰もが、それぞれの一日を当たり前のように始めていた。
その当たり前が、エリザベスには何より心地よかった。
ここ数日、領内にはもう一人、熱心に歩き回る人の姿があった。その正体は、ルシアン王子。彼の視察も、いよいよ締めくくりの時を迎えようとしている。
彼は本当に、この地の全てを学ぼうと、よく見て回った。建物の目的、宿の切り盛り、職員の教育法、村人たちの暮らし。一つひとつを、立場を感じさせない柔らかな物腰で尋ね、平民である村人の話にも耳を傾けていた。
エリザベスは思う。初めて彼がこの地を訪れた頃、その面差しにはどこか疲れた様子があった。けれど今は、その影はなくなっていた。前向きで、穏やかに笑うようになった。そんな表情を見るたび、彼女は安堵を覚えるのだった。
ルシアン王子が、この地に来て良い影響を受けてくれたのなら、とても喜ばしいことだ。
***
視察の任務を完了した最後の朝、エリザベスはルシアンを湖を望む東屋へ案内した。
茶の支度を整える間、彼は飽きもせずにじっと湖面を眺めていた。やがて、こちらへ向き直る。
「すっかり、世話になってしまったね」
ルシアンは、感慨を込めるように切り出した。
「この地で、本当に多くを学ばせてもらった。癒しというもの、人をもてなすということ、土地を育てるということ。そのどれもが、書物を読んだだけでは決して得られないものだった」
その口ぶりに、王族らしい気負いはなかった。普通の人間として、学びを得たことに喜びを感じている。
「君たちが惜しみなく見せてくれたおかげだ。とても有意義な視察だった。心から、礼を言うよ」
「もったいないお言葉です」
エリザベスは、静かに首を振った。
「学ばせていただいたのは、わたくしの方もです。殿下の視察をきっかけに、この地を見つめ直す機会をいただきました」
それは、世辞ではなかった。彼の問いかけは、いつもこちらの思い至らぬところを考えさせてくれた。この辺境の地だけでなく、王国全体の中に置いたときどう見えるのか。彼の眼差しは、その視野を教えてくれた。
道の整え方ひとつとっても、彼は遠方から訪れる者の目で見ていた。領内で暮らす者には当たり前すぎて、かえって気付けないことを、彼は外側から拾い上げてみせた。そのたびに、エリザベスは小さな発見を重ねていた。
「気付かされたことが、たくさんございました。日々のことに追われていると、つい見えなくなるものがございますから。貴重な経験をさせていただきました」
「いや」
ルシアンは、少し困ったように微笑んだ。
「私はただ、感心して見ていただけだよ。ここで暮らす人々の顔が、皆、明るいだろう。それが何よりの答えだと思った」
「それは、わたくしの力ではございません」
エリザベスは、穏やかに応じた。
「ここで働く者たち、訪れてくださる貴族の方々。皆さまのおかげで、この地は成り立っております。わたくしはただ、皆が力を尽くせるよう、場を整えているだけのことです」
ルシアンは、その答えに目を細めた。
「その『ただ整えているだけ』も、かなり難しいことだと、私は思うけれどね」
からかうのではなく、しみじみとした口ぶりだった。彼は本心からそう言ってくれているのだろう。ここで、まだ謙遜するのは失礼に当たるだろうか。そんな事を考えていたエリザベスが言葉に詰まると、ルシアン王子は悪戯っぽく笑い、それから真顔に戻った。
彼は湖の方へ視線を移し、独り言のように呟いた。
「こういう場所が、もっと国のあちこちにあればいい。王都の人間にも知ってもらいたいこと、見せてやりたいものが、ここにはたくさんある」
その横顔には、何か遠いものを見据えるような、静かな志が滲んでいた。
エリザベスは、それ以上は問わなかった。ただ、彼が視察に来て得たもの、持ち帰るものが確かにあったのだと感じられたことが嬉しかった。互いに、相手から何かを受け取った。そんな手応えが、二人の間に穏やかに横たわっていた。
***
茶を飲み干してから、エリザベスはふと、伝えそびれていたことを思い出した。
「殿下。改めて、お詫びを申し上げたいことがございます」
ルシアンが、軽く首を傾げる。
「先日の、アレクシス様の件です」
あの日、彼女は確かにその場で頭を下げた。けれど、騒ぎの只中での謝罪だった。落ち着いた今だからこそ、改めて伝えておきたかった。
「わたくしの過去の縁に、殿下を巻き込んでしまいました。その上、処遇のことまで、すべて殿下に委ねてしまって。本来であれば、ローズフェル家が対処するべきことでしたのに」
「ああ、そのことか」
ルシアンの声は、少しも重くならなかった。むしろ、ほっとしたように笑った。
「前にも言っただろう。君が気にすることではないよ」
彼は、茶杯を手のひらで包みながら語る。
「あれは、王族として当然の役目だ。貴族が秩序を乱す振る舞いを正すのは、私たち王族の務めなのだから。君が負い目を感じることは、何ひとつない」
そして、穏やかに付け加えた。
「君の力になれたのなら、私はむしろ嬉しいんだ」
その言葉に、恩着せがましさは微塵もなかった。役に立てたことを、心から喜んでいる。そういう響きだった。
エリザベスは、胸の奥がそっと温まるのを感じた。過ぎたことは、もう過ぎたこと。そう言い合える相手がいる。それだけで、十分だった。
「……ありがとうございます」
彼女が深く頭を下げると、ルシアンは「礼を言われることでもないさ」と、また柔らかく笑った。
***
やがて、出立の刻が来た。
屋敷の前庭には、王都へ戻る馬車が数台すでに支度を整えて待機していた。御者が手綱を確かめ、従者たちが荷を積み終えている。晴れた空の下、馬が機嫌良さそうに尾を振っていた。
ルシアンは馬車の前で立ち止まり、エリザベスへと向き直った。
「エリザベス嬢、改めて世話になった。この数日のことは、きっと忘れない」
「お気をつけて、ルシアン殿下。道中、ご無事を祈っております」
いつもの、見送りの言葉。けれど、ルシアンはすぐには馬車に乗らなかった。
少しの間、何か言いかけては、口をつぐむ。視線が一度、屋敷の方へ、湖の方へと巡り、それからこちらへ戻ってくる。常の彼にしては、めずらしく落ち着かない様子だった。そんな間を置いた後、彼は、わずかに言葉を選ぶようにして尋ねた。
「あの……また来ても、いいかな? 今度は、仕事ではなく」
それは、視察の延長を願う口ぶりとは、どこか違っていた。公務の言葉にしては、ほんの少し、ためらいの色があった。
エリザベスは、その問いを受け止めた。
「もちろんです」
彼女は、微笑みながら伝える。
「いつでも歓迎いたします」
心からの言葉だった。彼の来訪を喜ぶ気持ちが、すんなりと胸に湧いていた。その気持ちが、いったいどういう類いのものなのか。そこまでは、彼女は測らなかった。ただ、また会えるのなら嬉しい。それだけが、確かだった。
ルシアンの表情が、ふと和らいだ。
「ありがとう」
彼は、少しはにかむように言い添えた。
「ただ、この土地を訪ねるためだけに来られたら、と思っているんだ。仕事のないときにでも」
「ええ。お待ちしております」
エリザベスは頷いた。親しい人が、また気軽に訪ねてくれる。そう受け取って、素直に嬉しく思った。
ルシアンは、もう一度こちらを見て、それから馬車へと乗り込んだ。
***
馬車の扉が閉まり、御者が手綱を鳴らす。
車輪がゆっくりと回り始め、馬車は前庭を抜けて、領地の道へと進み出した。
エリザベスは、それを見送った。王族を見送る礼として、背筋を伸ばし、最後まで丁寧に。普段、貴族の客人を送り出すときよりも、いっそう丁寧な所作で。
馬車は石畳の道を進み、丘のゆるやかな起伏に沿って、少しずつ小さくなっていく。
車窓から、ルシアンが軽く会釈をしたのが見えた。エリザベスも、会釈を返す。
馬車は、なおも遠ざかっていった。
もう、会釈を交わすには遠くなっていた。それでも、エリザベスは目を逸らさなかった。馬車の影が朝の光に溶け、丘の向こうへ消えていくまで、彼女はその場に佇んでいた。
見えなくなってからも、ほんの一拍。
彼女は、道の先を見つめていた。
穏やかな風が、湖の方から吹き上げてくる。湯けむりが、空へとゆるやかに昇っていく。市場の喧噪も、職人の槌の音も、いつもと変わらず領地を満たしていた。何もかもが、あるべき場所に収まっている。そう思える朝だった。
また、訪れてくださるという。その日を楽しみに思っている自分がいた。今度は視察ではなく私的な用事で、と彼は言った。仕事のないときにでも、と。
馬車に揺られて去っていった人は、もう、初めて訪れた頃のような疲れた様子はなかった。明るい表情で、前を向いて帰っていった。その変わりように、エリザベスは、確かな喜びを覚えていた。
彼は、この地で得たものを王都へ。それがいつか、思いがけぬ形で巡ってくる予感があった。けれど、それはまだ先のこと。
今はただ、その日を楽しみに待てばいい。
エリザベスは、ゆっくりと息をついた。そして、踵を返し、屋敷へと歩き出した。
よく晴れた、清々しい朝だった。




