第35話 選ぶ男を間違えた ※ロザリンド視点
朝の光が、以前ほど美しく見えなくなった。
かつては輝いて見えた景色も、今では色褪せている。公爵夫人になれるはずだった未来を失った今、その光はただ、自分が手に入れ損ねたものを思い出させるばかりだった。
ロザリンドは寝室の窓辺で薄く唇を噛みながら、その光を疎ましげに見やった。
かつて住んでいた屋敷に比べれば、今の住まいはひどく手狭だった。広間の数も、客間の数も見るからに少ない。
磨き上げられた大理石の階段も、長い回廊も、もうここにはない。男爵位に降ろされたヴァルモント家に残されたのは、慎ましいという言葉がお似合いな、小さな屋敷だけだった。
使用人も、めっきり減った。
以前なら、鈴を鳴らせば、すぐに侍女が幾人も駆けつけてきたものだ。今では呼んでも、返事が返ってくるまでに間がある。髪を結う者も、湯を運ぶ者も、足りていない。生活するだけで苦労するなんて、耐えられない。粗末な扱いに甘んじなければならないなんて。
衣装も、思うように新調できなくなった。仕立て屋は、もう極上の絹を運んでこない。許される費えには限りがあり、宝石を買い足すことなど論外だった。鏡台の宝石箱は、いつまでも同じ顔ぶれのまま。茶会を開こうにも、並べられる品は見栄えのしないものばかりだった。
贅沢は、もう許されない。
どうして、こんなことになってしまったの?
ロザリンドは化粧台の前に座り、再び唇を噛んだ。目の前の現実が、どうにも受け入れられなかった。
少し前まで、自分は王都でも指折りの暮らしを送っていたはず。絹のドレスに身を包み、宝石を煌めかせ、誰もが羨む贅を当たり前のように味わっていた。それが、今はどうだ。
悪い夢でも見ているのではないか。目を覚ませば、また、あの満ち足りた日々が戻ってくるのではないか。そんな思いが頭の隅にこびりついて離れない。けれど、何度まばたきをしても、時間が経過しても、目の前の手狭な部屋は消えてはくれなかった。
日に日に、苛立ちだけがロザリンドの胸の内に重く降り積もっていった。
***
その苛立ちの矛先は、やがて一人の男へと向かっていった。
アレクシス。
その名を思い浮かべるたびに、ロザリンドの胸には冷えた毒のようなものが広がった。
選ぶ男を間違えていた。アレクシスが、こんなにも愚かだなんて思わなかった。最悪だわ。
もっと有能な男だと思っていたのだ。公爵家の嫡子で、当主代理の座に就き、思いのままに権勢を振るう男。その隣に立てば、自分は望むものすべてを手にできるはずだった。彼の不満を拾い上げ、肯定し、称賛して、自分なしではいられないようにしてやった。あれは、確実な投資のはずだった。
それが、どうだ。まさか、ここまで愚かだったなんて。
辺境のリゾート開発とやらに手を出して、無様に失敗し、王族の不興まで買って、ヴァルモント家を台無しにした。あの男が、もっとうまく立ち回ってさえいれば。もっと賢く事を運んでいれば。あんなことには、ならなかったはずなのに。
ロザリンドは、過ぎ去った日々を思い返した。
最初はうまくいっていた。満足のいく結果を得られた。公爵夫人としての輝かしい未来を手に入れることなど簡単なはずだったのに。
あの頃は、すべてが順調だった。エリザベスとかいう女を押しのけて婚約者の座を手に入れ、公爵家との縁を結び、社交界では誰もが自分を一目置いた。
来るべき公爵夫人の座を、もはや確定した事実として、舌の上で甘く転がしていた。誰もが羨む立場に、自分はなるはずだった。あの優越感を、ロザリンドは今もはっきりと覚えている。
それが、すべて消えてしまった。
気づけば、再び男爵位。なんの冗談なのよ、これは。まるで、その程度の位置こそがふさわしいと示されているようで、憎たらしい。
男爵位。その響きが、ロザリンドの自尊心を抉る。そこから逃げ出したいと思ってアレクシスとの関係を築いたのに、再び戻ってくるなんて考えてもいなかった。
社交界で味わったあの誇らしさも、もうどこにもない。今の自分は、かつて見下していた者たちと同じ立場だった。
いいえ。同じどころか、それ以下かもしれない。
その思いが、何よりロザリンドのプライドを傷つけ続ける。高い場所から人を見下ろすのが当然だと思っていた。それが今は、見下していたはずの相手と肩を並べ、あるいはもっと低いところに自分は立っている。
なぜ、自分がこんな目に。
考えれば考えるほど、腹立たしさばかりがこみ上げてくる。こんな立場、認められるはずがなかった。
***
こんなところに、いつまでもいるわけにはいかない。
ロザリンドは、そう考えるようになった。別の相手を探せばいい。もっと良い結婚先を、もっと相応しい後ろ盾を見つければ。今度こそ、望んだ場所へ戻れるはずだ。一度しくじったからといって、終わったわけではない。自分には、まだこの美貌がある。
けれど、現実は、思い描いたようには動かなかった。
茶会に顔を出しても、かつてのように人が集まってこない。話しかけても、相手はどこかよそよそしい。誘いの文を出しても、当たり障りのない断りばかりが返ってくる。ヴァルモント家の失墜は、すでに社交界の隅々にまで知れ渡っていた。王族との関係が悪化していて、すべてを失ったヴァルモント家の女に近づこうとする者など、存在しない。
誰も、わたくしに近づかない。ロザリンドが自信を持っていた美貌に価値がなくなった、とでも言うように。
距離を置かれている。敬遠されている。それが、痛いほど伝わってきた。かつて自分の周りに群がっていた者たちは、潮が引くように離れていった。彼らが見ていたのは、ロザリンドではなく、その背後にあった公爵家の富と地位だったのだ。富も地位も失った今、誰一人として振り返りもしない。
そして、肝心のアレクシスは、もっと冷たかった。
逃げることも、許されなかった。
今回の件は、お前にも責任がある。アレクシスはそう突きつけてくると、まともに取り合おうとしなかった。財産を好き勝手に浪費した。宣伝も、ことごとく失敗した。そう冷ややかに並べ立てては、口を閉ざす。
腹立たしかった。浪費したことは、確かに事実だ。そこは認めてもいい。けれど、宣伝はどうだ。リゾート地のことを社交界で言い広めよと命じられ、わたくしはその通りに、きちんとやってのけた。求められた働きは、果たしたのだ。それなのに、なぜそれまで失敗の咎に数えられなければならないの。あの土地に、貴族を惹きつけるだけの魅力がなかった。失敗したのは、ただそれだけのこと。
その責めまで、どうしてわたくしが負わされるの。それは、わたくしのせいじゃないわよ。
けれど、いくら言い返しても、アレクシスは聞く耳を持たない。本当に、ひどい男。
そのうえ、アレクシスは、ロザリンドを離そうとしなかった。
どうせ、新たな婚約相手も見つからないだろうから。
そう言いたげな態度で、彼はロザリンドを手元に留め置いた。今さら離縁したところで、行き場などないだろう。その確信が、彼にロザリンドを離さない決意を持たせていた。そして、まるで日頃の鬱憤を晴らすかのように、こまごまとした嫌がらせの言葉を投げかけ続ける。
なんて迷惑な男なのかしら。
ロザリンドは、心の底からそう思った。けれど、思うだけだった。どれほど迷惑に感じようと、この状況から脱け出すことは、もはや不可能だった。傾いた男爵家の中で、愛のない二人が、互いを憎みながら、ただ縛り合っている。
逃げ場は、どこにもない。出口のない現実の中で、ロザリンドの胸に残るのは——。
***
結局のところ、自分は、選択を誤ったのだ。愚かなアレクシスではなく、もっと価値のある男を選ぶべきだったと、後悔している。
ロザリンドは、薄暗い部屋の窓辺に立ち、それを認めざるを得なかった。男を見誤った。賭ける相手を間違えた。あの男に自分の未来を託したのが、そもそもの間違いだったのだ。
もし、違う道を選んでいたら。もっと慎重に相手を見極めていたら。もっと別の、確かな相手を選んでいたら。今ごろ自分は、望んでいた通りの場所にいたかもしれない。煌めく宝石に囲まれ、誰もが頭を垂れる、あの輝かしい座に。
今さら考えたところで、遅いけれど。
失われた未来は、もう戻らない。何度悔やんでも、過ぎた時は巻き戻せない。手にしかけていたものが指の間からこぼれ落ちて、二度と拾い上げられないところへ消えていった。それだけが、ただ確かなことだった。
窓の外を見つめながら、ロザリンドは思う。
かつて手に入るはずだった公爵夫人の座は、もう届かない。
あれほど近くにあったのだ。手を伸ばせば届くところに、熟れた果実のように、ぶら下がっていたのだ。未来の公爵夫人。その甘やかな響きを、信じて疑わなかった。約束された地位。確定した事実。そのはずだったのに。
それが今は、遥か遠い。手の届かない高みに、その座だけが、ぽつんと取り残されている。
その事実だけが、彼女の心を、生涯苦しめ続けるのだった。
ロザリンドは、自分の選択を誤ったことを死ぬまで後悔し続ける。けれど、それは決して自らの過ちを悔いたからではなかった。
彼女が惜しんだのは、失った公爵夫人の座だった。手に入るはずだった地位と権力。味わえるはずだった贅沢な暮らし。そのすべてを失ったことが、ただただ悔しかった。
アレクシスがなぜ失敗したのか。自分に責任はなかったのか。そんなことを顧みる日は最後まで訪れない。
悪いのは愚かな失策を重ねたアレクシスであり、自分ではない。ロザリンドはそう信じ続けた。
彼女が求めていたのは、公爵夫人という輝かしい立場だけだったのだから。
窓の外には、薄曇りの空が広がっている。
その空の下、どこか遠い土地で自分が見下し、終わった女だと切り捨てた令嬢が、まばゆいばかりの場所へと昇っていることを——ロザリンドは、まだ、本当の意味では理解していなかった。理解する日も、おそらく来ないのだろう。
彼女が見つめていたのは、二度と届かない自分の座のことだけだった。




