第04話 見惚れるほどの、その景色
馬車は、もう何日も走り続けていた。王都から離れた場所にある、ローズフェル家の所有する領地に向かっている。
最初は王都の石畳の街道を進んでいた。やがて整備された並木道に入り、葉の擦れる音が車輪の音に混じるようになった。
途中で何度か宿場町に立ち寄り、馬を替え、夜は休んだ。バルタザールはエリザベスの馬車には同乗せず、すぐ脇を騎乗で進んでいた。鞍の上から一行へ静かに目を配り、行く先々で宿の者と短く言葉を交わしては、メイドたちの疲れにも穏やかに気を配っていた。何かあればいつでも動ける位置に、彼が控えていること。それが、この旅から騒がしさを遠ざけ、静かな安心の輪郭になっていた。
石造りの建物が少しずつ減り、空に占める緑の割合が増えていった。やがて道は石畳を離れ、自然の中をうねるように続く土の道へと変わっていく。畑で働く人々の影、放牧された牛たち、小川を渡す素朴な木橋。窓の外を流れる景色は、王都のそれとはもう別の絵巻に変わっていた。
車輪の音も変わっていった。石畳を踏む高い響きが、土の道に変わる頃には低く沈み、馬車の揺れも少しずつ柔らかくなっていった。空気そのものも、走るほどに澄んで、肺の中に入ってくるたびに、ほんのわずかな冷たさを残していった。
エリザベスは窓越しに、その変化を静かに眺めていた。
幼い頃、父と一度だけここを訪れた記憶が、かすかに残っている。視察のための短い滞在で、馬車の中も到着後の屋敷でも、慌ただしく時間が過ぎていったことしか覚えていない。窓の外の景色を、こうしてゆっくり眺める余裕はなかった。
(あの頃も今も、わたくしには余裕がなかったのね)
胸の中でひとつだけ、そう呟く。
夜会の夜から続く重さに、長旅の疲れが静かに重なっていた。けれど、いつの間にか、それ以上の何かが、胸のあたりに溜まり始めている気もした。
澄んだ空気の中を、馬車は静かに進み続けていた。
しばらく走った後、馬車の速度が、ふと落ちた。
バルタザールが、馬を窓辺へ寄せてきた。
「お嬢様、まもなく到着でございます」
短い、低い声で知らせてくれる。
やがて、車輪の音が止んだ。蹄の音も、御者の手綱を引く声も、一拍ずつ静かになっていく。御者が地面に降りる、軽い足音。続いて、バルタザールが鞍を降りる、静かな気配。馬を預け、エリザベスの扉の前へと歩み寄る足音が、ゆっくりと近づいてきた。
扉が開いた。
最初に押し寄せてきたのは、澄んだ空気だった。
馬車の狭い箱の中に閉じ込められていた淀みを、外側からひと息に押し流してしまうほどの、清らかな風。湿った土の香り、葉の香り、それからどこか遠くで揺れている花の香り。鳥のさえずりが、いくつもの方向から重なって聞こえる。風が、木々を撫でて通り過ぎる音。
バルタザールが、外から手を差し出している。
エリザベスは、その手をそっと取り、外へ降り立った。
足の裏が、固い地面ではなく、柔らかな土の感触を伝えてきた。顔を上げる。
視界が——どこまでも広がった。
「……まぁ」
遠く、空の縁に山々が連なっていた。深い緑の山肌の上に、頂の白い雪が残り、青空と緑の境目で静かに光っていた。神々しい、という言葉が脳裏に浮かんだ。
山並みは何本もの稜線を重ねていて、奥へ向かうほどに薄い藍色に溶けていく。一番奥の山は、空の色と区別がつかないほどに、青と白が混ざり合っていた。
山の麓には、広大な森が広がっていた。
濃い緑、明るい緑、黄緑——いくつもの色が、混ざり合いながら一枚の絵のように重なっていた。風が吹くたびに、葉が波のように一斉に揺れ、木漏れ日が地面の上で形を変えていく。葉擦れの音が、近くから遠くへ流れ、また戻ってくる。鳥のさえずりが、その音の間に、いくつも溶け込んでいた。
森の向こうには、湖が見えた。
水面が、信じられないほど透き通っていた。太陽の光を受けて、対岸の景色と、その上の山々と、頭上の空までを鏡のように映していた。湖の上を渡ってきた風には、ごくかすかな水の匂いと、川のせせらぎのような音が、遠くから運ばれてきていた。
空は、王都では決して見ることのできない広さで頭上に広がっていた。建物に区切られず、地平線まで続いている。雲がゆっくりと流れていく。その雲の流れさえも、急いてはいなかった。
足元には、野生の花が咲いていた。
紫、黄色、白、淡いピンク。名前も知らない、けれど確かに可憐な花々が、風に揺れている。背の低いものも、すらりと伸びたものも、互いに譲り合うように並んで咲いていた。誰かが植えたわけでもない、ただ風と土と陽が育てた花たちだった。
日差しは温かく、けれど暑くはなかった。風が肩を撫でていく。風を胸いっぱいに取り込むと、清々しい空気が身体の中をゆっくりと通り抜けていった。草と土と花の香りが、ひとつに混ざって、胸の奥まで届いた。
馬車の窓から見えていた景色は、その一部でしかなかった。
「なんて、美しいの」
思わず、口からこぼれ落ちた。
意識して告げた言葉ではなかった。気づいたときには、もう胸の中の何かが、そのまま声の形になって外へ出てしまっていた。
その景色を眺めているだけで、胸の奥で何かが、ほんのわずかに緩んだ。
夜会の夜から積み重なっていた重たい疲れの底に、初めて、薄く光が差し込んだ。それは劇的な救いではなかった。ただ、底のどこかが、ほんの少しだけ、けれど確かに明るくなった。
王都のどの庭園よりも、どの芸術品よりも、ここにある景色は、ただ静かに、確かに、美しかった。
人の手が加えられていない、ありのままの姿。
完璧に整えられたものではない。けれど、その不完全さの中にこそ、ほどけて広がる優しさのようなものがあった。誰かに見せるために整えられたのではない。誰のためでもなく、ただそこにあるだけの美しさが、かえって深く胸に届いた。
エリザベスは、もう一度、ゆっくりと周りを見渡した。
山並みも、森も、湖も、空も、足元の花も。どれもが、互いに自分の場所を侵さずに、ただ静かにそこにあった。
(この景色を、ずっと眺めていたい)
胸の中で、そんな願望が浮かんでくる。
(何も変えたくない。このままで、ずっと)
風がもう一度、肩を包んだ。湖の方から流れてきた風だった。湿りを帯びていて、けれど冷たくはなかった。髪の一房が頬を撫で、エリザベスは無意識のうちに、それをそっと耳の後ろへ流した。
背後では、メイドたちが静かに控えている。誰も声を出さなかった。バルタザールも、ただ静かにエリザベスの少し後ろに控えていた。声をかけてはこなかった。彼女の時間を、彼は尊重していた。
もう一度、深く息を吸う。清々しい空気が肺いっぱいに広がり、身体の中の何かが、ゆっくりと整えられていく感覚があった。胸の奥の冷えが、完全に消えたわけではなかった。けれど、温まった日差しと風の中で、少しずつ、その輪郭が薄れていくのが分かった。
どれくらいの時間が、そうして流れただろう。
風が、ふと強くなった。そのタイミングを見計らって、バルタザールが穏やかに声をかけた。
「お嬢様、屋敷へ参りましょう」
エリザベスは、振り返って、小さく頷いた。
「ええ、バルタ」
屋敷の方角に、小さな建物の影が緑の中に溶け込むように見えていた。木立に守られた控えめな佇まいだった。王都の屋敷のように威容を競う造りではなく、ここでは建物の方が、周囲の景色に身を寄せているように見えた。
(ここで、しばらく過ごすのね)
その事実を、構えずに、ただそのまま受け止める。先のことは、まだ何も決まっていなかった。ここでどう過ごすのか、いつまで滞在するのか、そういった将来の輪郭は、ひとつも頭の中に立ち上がってこない。けれど、その曖昧さが不思議と今は不安ではなかった。
建物に向かって歩き出す。一歩、また一歩。足元には、先ほど目に映った可憐な花々が、変わらずに揺れていた。エリザベスは、その花を踏まないように、ほんの少しだけ歩く位置を選んだ。意識して避けたというよりも、自然と足がそうしていた。
バルタザールの静かな足音が、傍にあった。メイドたちの控えめな足音も、その後ろに続いている。
風が、もう一度、エリザベスの頬を優しく撫でていった。
彼女の足取りは、王都を出たときよりも、ほんの少しだけ軽かった。




