第03話 辺境への旅立ち
昨夜は寝台に身を横たえた瞬間に、眠りへ落ちた。夢のかけらもない、静かな眠りだった。身体の重さはまだ残っていたが、それでも頭の芯にあった鈍い疲れは、ほんのわずかに退いている。エリザベスは、静かに身を起こした。
朝食を終えたあと、改めて父と話し合いの時間を取ってもらった。その結果、すぐに王都を旅立つことに決まった。夜会での婚約破棄の話が広まる前に、王都を離れてしまえばいい。辺境の領地まで退けば、好奇の視線も、無遠慮な詮索も、もう届かなくなる。それは、父の配慮だった。
その心遣いを、エリザベスはありがたく受け取った。少し気が早いかもしれない、とも思ったが、反対する気持ちは少しも湧かなかった。今はただ、父から言われた通り、静かに従えばいい。すぐに支度を終えて、今日のうちに旅立つ。
ほどなく、メイドたちが旅支度に取りかかった。
居間の隣の支度部屋に、衣装櫃から取り出されたドレスが次々と運び込まれてくる。淡い水色の昼の装い、夜会用の華やかなドレス、宝石箱、冬用のショール、扇——どれもエリザベスを案じてのことだった。
メイドたちの中に、年配の女性が一人いた。エリザベスを幼い頃から世話してきた古参で、運んできた宝石箱を胸に抱えたまま、不安そうにこちらを見ている。
「お嬢様、これも、必要ですよね?」
「いいえ。身軽に行きたいの」
エリザベスは、静かに告げた。
「華やかな装いは必要ないわ。普段着られるドレスを数着と、暖かなショール。それだけで十分」
(社交界からは少し距離を置いて、静養に専念しないといけないから)
胸の中で、一度だけそう呟いた。
メイドたちは顔を見合わせつつ、主の意を汲んで、すぐに荷物を絞り直し始めた。年配のメイドは、宝石箱を抱えたまま、目元をわずかに潤ませた。エリザベスはそれに気づかぬふりをして、机の方へ歩み寄る。
辺境の屋敷を訪れたのは、幼い頃に一度きりだった。父に連れられての、ごく短い視察。長く滞在するのは、今回が初めてになる。王都をこれほど長く離れるのも、初めてのことだった。
机の前に座り、ペンを取る。
書く相手は、三人だった。公爵令嬢セレスティア・ヴァンデール、男爵令嬢リネット、侯爵家子息アドリアン——エリザベスにとって、大切な友人たちだった。
昨夜の夜会の出来事は、もうおそらく彼らの耳にも届いているはず。詳しい事情を書く必要はない。それを書く気力も、今のエリザベスには残っていなかった。
ただ、何も告げずに発つことだけは避けたかった。
短く、簡潔に。けれど、今の自分の気持ちだけは伝わるように。
ペン先が、紙の上を静かに滑った。
《突然のお便り、ごめんなさい。しばらく王都を離れて、休んでまいります。落ち着きましたら、必ずお便りを差し上げますね》
それだけを書いて、エリザベスは小さく息をついた。
(本当は、直接お会いして、一言ご挨拶申し上げたかったけれど)
胸の中で、控えめな申し訳なさが揺れる。けれど今は、それさえも長く抱える力がなかった。
(離れていても、お便りだけはくださると、嬉しい)
残りの二通も、似たような短い文面で書き終えた。三通の封をして、執事に託す。手紙が手を離れた瞬間、肩のあたりが、ほんのわずかに軽くなった気がした。
扉が、静かに叩かれた。
返事を待って部屋に入ってきたのは、執事長のバルタザールだった。白髪を丁寧に整え、背筋をまっすぐに伸ばしている。深い皺の刻まれた顔、灰色の瞳。年齢に似合わぬ、一分の隙もない佇まいだった。
彼は、机の前まで進み出ると、エリザベスに向かって丁寧にお辞儀をした。
「お嬢様、不躾ながら、一つお願いしたいことがございます」
「なあに、バルタ」
「辺境への旅、私もお供させていただきたく存じます」
エリザベスは、ペンを置きかけた手を止めた。彼の顔を見つめ、口を開く。
「バルタ、お年もありますし、ご家族のことも……」
長旅は、決して楽なものではないはず。彼にも、王都での暮らしと、息子たちとの繋がりもある。その子たちと離れ離れになる。長年ローズフェル家に仕えてくれたバルタザールに、そんな負担を負わせるわけにはいかなかった。
バルタザールは、ゆっくりと顔を上げた。
灰色の瞳が、まっすぐにエリザベスへ向いた。視線が、迷いなく定まっている。長年、ローズフェル家を支えてきた老執事が、そのように目線を据えるとき、彼の覚悟は決まっている。そのことをエリザベスは、よく知っていた。
「お嬢様を幼い頃からお守りしてきたのが、私の務めにございます」
声は、いつも通り静かだった。けれど、いつもよりわずかに張りがあった。
「お一人で辺境へ行かれるのを見送るなど、私には耐えられません」
その一言だけ、彼の声に、抑えきれない意志が滲んでいた。
部屋の中の空気が、ほんの一拍、止まったように感じられた。エリザベスは、その覚悟ある申し出を断る言葉を、口にできなかった。
「こう見えて、日頃から鍛えております。長旅にも耐えて、お嬢様のお側でお役に立てるかと」
彼は、わずかに目元を緩めて続けた。
「それに、ご当主様からの許可も、既にいただいております」
エリザベスは、小さく息を吐いた。
(そこまでの覚悟を、もう決めてくれていたのね)
バルタザールの献身が、エリザベスの胸の奥を緩ませる。疲れの残った身体に、湯のような温度が一滴落とされた、そんな感覚だった。
「ありがとう、バルタ。心強いわ」
バルタザールは、もう一度深く頭を下げた。何も言わなかった。けれど、その沈黙の中に、長年仕えてきた者の確かな安堵が、わずかに滲んだように思えた。
支度を終え、屋敷を発つとき、ローズフェル家の玄関前は、しんとしていた。
母と兄弟とは、準備を進めている間に、軽く別れを済ませていた。心配の言葉と、必ず手紙を寄越すようにという約束を交わした。
玄関の前には、父が立っていた。
背筋を伸ばして立っている。普段、書斎の机に向かって書類仕事をしているはずの時間だった。それを後回しにして、ここに立ってくれている。その事実だけで、エリザベスの胸の奥が温まった。
歩み寄ると、父は何かを言いかけて、結局、言わなかった。
代わりに、一歩近づいて、娘をそっと抱きしめた。
肩に回された腕の温もりが、エリザベスの強張りを、もう一段ほどいた。その香りも、腕の確かさも、子どもの頃から知っているものだった。
「ゆっくりしてきなさい」
「はい。ありがとうございます」
父の声は低く、短かった。それ以上は、何も言わなかった。エリザベスは、深く頷いて答えた。
顔を上げると、父の目元が、わずかに揺れていた。けれど父は、それ以上のことは、口にしなかった。
馬車に乗り込む。バルタザール、それから数名のメイドが続いて乗り込んだ。年配のメイドも、その中にいた。屋敷の使用人たちが、ひっそりと並んで頭を下げている。大々的な見送りはない。それでも、エリザベスには屋敷の者たちの気遣いが伝わっていた。そんな彼らと離れるのは、やはり寂しかった。
馬車が、ゆっくりと動き出した。
車輪が石畳を踏む音が、リズムを刻み始める。窓の外を、見慣れた屋敷の輪郭が後ろへ流れていく。やがて、ローズフェル家の屋根も、王都の景色の中へと滑り込み、見えなくなった。
エリザベスは、窓の外を、見るともなく見ていた。
(この先、どうなるのか。期待は、まだ持てない)
胸の中で、ひとつだけ呟く。
(ただ、ここから離れられることだけが、今のわたくしには、ほんの少しの救い)
婚約破棄を告げられた瞬間と、そこへ至った経緯を思い出す。けれど、怒りも、涙も、湧いてこなかった。低く沈んだ感情の底に、それでも、ところどころ温かなものが差し込んでいる。肌に残る父の抱擁の感触。隣に座る老執事の静かな気配。手紙を託した友人たちの面影。
馬車は、王都の街路を抜け、やがて石畳のない街道へと出ようとしていた。
空は、よく晴れていた。窓の外の景色は少しずつ、見慣れないものへと変わっていく。
その移り変わりを、エリザベスは静かに眺めていた。
彼女はまだ、これから出会う景色と、その先に芽生えるものに気づいていなかった。




