第02話 父への報告
馬車が、屋敷の門をくぐった。
石畳を踏む蹄の音が、夜の静けさの中に低く沈んでいく。玄関の灯がひとつ、ふたつと近づき、やがて車輪が止まった。御者の短い挨拶のあと、扉が開く。冷えた夜気がふっと差し込んだ。
降り立ったエリザベスを、玄関の前で執事長のバルタザールが出迎える。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
バルタザールの声は、いつもと変わらない。白髪を丁寧に整え、背筋をまっすぐに伸ばし、深い皺の奥の灰色の瞳は穏やかに伏せられていた。一分の隙もない所作で、彼は深く一礼する。
「ただいま、バルタ」
そう返したエリザベスの声に、力はなかった。
バルタザールは、その理由を問うことはなかった。けれど、視線がほんの一瞬、エリザベスの顔色に止まる。深い皺の奥の瞳が、わずかに翳った。
幼い頃から彼女を見守ってきたバルタザール。それは隠しきれない案じ方だった。それでも彼は何も言わず、いつも通りの礼の所作のまま、けれど普段よりわずかに早い動きで、身を引いた。
「お父様に報告しなければならないことがあるの」
「では、当主様の書斎に向かいましょう」
ええ、とエリザベスが頷く。
屋敷の中は、夜会の華やかさとは別世界のように静まり返っていた。長い廊下を、エリザベスはバルタザールの少し後ろから歩いていく。柔らかな絨毯が、靴音を吸い取っていた。
書斎の扉の前で、バルタザールは静かに歩を止めた。
軽く扉を叩き、エリザベスが来たことを伝える。そして返事を待ってから開けた。彼はエリザベスを通すと、自分は扉のすぐ脇に退き、深く頭を下げたまま気配を消した。
書斎の灯は、机の上のひとつだけだった。
父は書類に向かっていた。羽根ペンを握り、当主としての普段の姿のまま、机の上で手を止めている。控えの使用人が数名、壁際で静かに立っていた。
エリザベスは、机の前まで進み出た。
何かを言わなければ、と思った。準備していた言葉も、ここまで来る間に頭の中で繰り返した文句もあったはず。けれど、口を開いた途端、それらは音にならず、ただ一つだけが、こぼれ落ちた。
「お父様……」
「どうした?」
父は、娘の顔から目を離さなかった。いつもの娘とは違う、と気づいた者の目だった。机の上で組んだ手を一度ほどき、椅子をわずかに引いて、こちらへ身体を向ける。それから、低く静かに告げた。
「顔色が良くないようだが」
エリザベスは、ゆっくりと息を吸った。胸の中の空白を、声の形に整えるための時間が、いくらか必要だった。
これを報告すると、父の仕事を無駄に増やすことになるかもしれない。けれど、黙ったままにしておくわけには行かない。結局、話さないといけないこと。
覚悟を決めて、エリザベスは先程起きた出来事について説明した。
「実は、今夜の夜会で、アレクシス様から——」
ロザリンドという男爵令嬢を伴って広間の中央へ進み出たこと。公衆の面前で、婚約破棄を告げられたこと。「お気楽なお前では」と、その一語が告げられたこと。
自分の都合のいいようにしたり、嘘は言わないように注意しながら、先程の出来事の事実だけを伝える。
報告を進めていくと、書斎の空気がじわりと冷えていくのを、エリザベスは肌で感じた。
控えの使用人たちが、いっそう深く息をひそめた。誰も身じろぎをしない。場の温度が下がっていくのが、彼らの反応からも伝わってきた。
父の顔は、険しくなっていた。けれど、その険しさが向けられていたのは、娘ではなかった。歯を食いしばるでもなく、声を荒らげるでもなく、ただ、内側に閉じ込めるように、感情が溢れ出ないように抑えている。
エリザベスは父の顔色に気づいて、語るのを止めてしまいそうになる。
報告の途中でエリザベスが「お父様、申し訳ございません」と詫びかけたとき、父は落ち着いた声で口を挟んだ。
「君が謝る必要はない。それよりも、続きを聞かせなさい」
「はい」
エリザベスは、なんとか最後まで語り終えた。
書斎を、しばらく沈黙が満たした。
父は、すぐには口を開かなかった。視線が一度、宙のどこかをさまよう。
やがて父は低く、ひとりごとのように呟いた。
「夜会の最中、衆人環視の場で、婚約を一方的に破棄するなどと……」
言葉が、途中で途切れる。
「なんて無礼な。そんな話は、聞いたことがない」
その声には、怒りよりも先に、信じがたいものを前にした者の戸惑いがにじんでいた。
父は、机の上で両手を組み直した。
「ヴァルモント公爵は、いったい何をしておられたのか」
その問いは、エリザベスに向けられたものではなかった。この場にいない、格上の公爵家の当主へ向けられた、淡々とした詰問だった。
「もしや、息子一人の独断か。それとも——」
そこで、父はわずかに目を細めた。口にするのもためらわれる、という様子で、その先を飲み込む。けれど、飲み込みきれなかった疑いの色は、確かに残っていた。公爵家そのものへの、深い不信。エリザベスには、それが見て取れた。
父は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
机を回り、エリザベスのそばへ歩み寄ってくる。一歩ごとに、二人の間の距離が縮まっていく。父が手を伸ばし、その手はエリザベスの肩に添えられた。
「よく話してくれた」
低い、労いの声だった。
間を置いて、父は続けた。声に、抑えきれない悔いが混じっていた。
「そんなことをしでかす男を、お前の婚約相手に選んでしまった。父の責任だ。……いや、それだけではない。兆しは、もっと前からあった。私がもっと早く手を打っておくべきだった」
エリザベスは、首を横に振った。
「お父様のせいではありません」
父はしばらく、エリザベスの顔を見つめていた。疲労の深さを、目で確かめるように。やがて、視線をわずかに伏せ、低く、けれど芯のある声で告げた。
「ヴァルモント家との件は、私が対処する」
添えられた手に、力がこもる。
「相手が公爵家であろうと、今回のことは黙って収めるつもりはない。これは抗議に値する。我がローズフェル家には、その権利があるだろう」
言い切る声は、声高ではなかった。思わず声を荒らげそうになるのを必死に抑えて。そこには、長く家を背負ってきた者の揺るがぬ確信があった。エリザベスには、その姿がひどく頼もしく見えた。
父はふっと、その険しさを和らげた。視線を、エリザベスに向ける。
「だが、それは私の仕事だ。お前が背負うことではない」
父は、もう一歩、距離を詰めた。
「お前は、何も心配しなくていい。領主として、父として命じる。辺境で、ゆっくり休んでこい」
控えの使用人たちも、息を止めたまま様子を見守っている。父は娘の顔をまっすぐに見ていた。
「今のお前に必要なのは、交渉でも社交界での体面でもない。心身の静養だろう」
その言葉が、エリザベスの胸の奥のどこかに、静かに届いた。
張り詰めていた何かが、ほんの少しだけ、緩んだ。
肩のあたりから、力がゆっくりと抜けていく。先のことを考える億劫さも、父を煩わせてしまう申し訳なさも、消えてはいなかった。けれど、そのすべてを父が引き受けてくれる。その形で、身体のどこかが、そっと息を吐いた。
守られている、と感じられたから。
エリザベスは、深く頷いた。
「はい、お父様」
父は、それ以上何も言わなかった。添えていた手を離し、エリザベスの肩を、ごく軽く一度叩いた。それだけだった。けれど、その手のひらの重みが、言葉よりも多くのものを伝えていた。
報告が無事に終わって書斎を出ると、廊下にバルタザールが控えていた。
やはり彼は何も問わず、ただ深く頭を下げると、エリザベスの少し後ろを歩いて、自室まで送り届けてくれた。途中の廊下も、自室の前でも、彼は何ひとつ口にしなかった。気遣いは、すべて沈黙の中にあった。一人ではない、と思える静けさだった。
自室では、メイドたちが寝支度を整えていた。
いつもより口数が少ないのは、すでに何かを察しているからだろう。過剰な労りはなく、けれど手つきはどこまでも丁寧だった。中の一人、幼い頃からエリザベスの世話をしてきた年配のメイドが、髪を梳く手を止めて、案じるように顔を覗き込む。
「……お嬢様。何かお持ちいたしましょうか。温かいものでも」
「ありがとう。でも、今夜はもう、休むだけにするわ」
そう答えると、年配のメイドは頷き、それでも掛布の縁を、いつもより念入りに整えてくれた。
就寝の準備が終わり、エリザベスは窓辺に立った。
夜の王都の灯が、窓の向こうにぼんやりと浮かんでいる。見ようとしたが、目には何も入ってこなかった。
けれど、胸の奥は婚約破棄を告げられて、屋敷に戻ってきたときよりも、いくらか軽くなっていた。父が引き受けてくれた。バルタも、メイドたちも、ただそばにいてくれた。それだけのことが、こんなにも心強い。
寝台に身を横たえる。
枕の柔らかさが頬に触れた瞬間、意識の輪郭が、すうっと薄れていった。
その夜、エリザベスは穏やかに眠ることができた。




