第01話 夜会での宣告
シャンデリアの光が、天井から降り注ぐように広間を満たしていた。
楽団の控えめな旋律が、淡い色のドレスの裾を撫でるように流れていく。扇の影で交わされる囁き、控えめな笑い声、磨き上げられた床に映るほのかな揺らぎ。有力貴族家の私的な夜会は、いつも通りの上品な空気をたたえていた。
エリザベス・ローズフェルは、ピンクブロンドの髪を肩でやわらかく揺らしながら、知人の婦人たちと言葉を交わしていた。当たり障りのない話題、季節の挨拶、お互いの近況を話し合う。社交に長けた所作で、彼女は自然と場に馴染んでいた。
扇を軽く開き、視線をさりげなく広間に巡らせる。
(アレクシス様は、まだいらしていないようね)
自分の婚約相手が、まだ会場には来ていない。胸の内で呟く。今夜は、彼とも顔を合わせる予定だった。その予定も、相手はいつものように無視していた。
両家の今後について、少しでも穏やかに話せれば。その程度の、控えめな期待も無視されている。
お誘いを無視されるのは、よくあることだった。けれど、最近は特に酷い。婚約者という立場にありながら、これでは周囲の貴族家に不審を抱かれかねない。せめて、取り繕う程度のことはしていただきたいのに。
扇の陰で、誰にも気づかれぬほど短い吐息をひとつ。
その時、広間の入り口の方に、わずかな変化があった。
人々の間を波のように渡っていく。何人かの視線が、入り口の方へ吸い寄せられた。エリザベスもまた、そちらへ目を向ける。
広間の扉が、開いていた。
アレクシス・ヴァルモントが、こちらへ進んでくる。エリザベスの婚約相手の男。予定の時間からかなり遅れて、ようやく来たようだ。だが、予想外なことがあった。
その腕に——艶やかな黒髪の女性が、当然のように手を添えていた。
深紅のドレス。胸元と耳元に、まだ若い令嬢の身には不釣り合いなほど派手な宝石。妖艶な瞳が、まっすぐに前を見ている。普段、夜会の場で婚約者の腕に添えられる手はもっと控えめで、もっと遠慮がちなものだった。
令嬢のそれは、迷いも遠慮もなかった。
二人は連れ立って、広間の中央へと歩を進めていた。堂々と、見せつけるようにして。
その光景を見たある婦人の眉が、一瞬だけ動いた。隣にいた紳士の口は、固く閉じられている。楽団の旋律が、ふとリズムを乱した気がした。誰かが小声で何かを囁き、それを聞いた者が首を横に振ったりしている。
(あの方は、どなたかしら)
エリザベスの胸の内に、静かな怪訝が広がった。
(なぜ、お二人で、あのように堂々としているの?)
婚約相手は自分のはず。それでは、あの親しそうにしている女性は? 何も理解はできていない。ただ、これまで知っていた夜会の風景の中に、調和を欠いた一筋の異物が混ざり込んだ。その感覚だけが、皮膚のあたりにじわりと残った。
その時、広間の中央で、エリザベスの姿を捉えたアレクシスの声が響いた。
「エリザベス・ローズフェル嬢」
その声には、張りがあった。普段、彼女に向ける時の素っ気なさとは違う、何かを示すための声音。
急にやってきたと思えば、主催者への挨拶もないまま、真っ先に声をかけてくる。その無作法は、本来であれば窘めるべきもののはずだった。
名前を呼ばれたエリザベスは、怪訝な視線を保ったまま、彼の方を見る。何事でしょうか。その言葉は、声に出たのか、出なかったのか。自分でもわからないまま、唇の端で消えた。
アレクシスは、隣の女性を誇示するように、半歩前へと押し出した。
押し出された女性は、その腕に添えた手をそのままに、誇らしげに胸を張った。視線が、まっすぐエリザベスへと向いている。その視線には、露骨な優越感が滲んでいた。
アレクシスが、息を吸う。
そして、はっきりとした声で告げた。
「お気楽なお前では、我が家を発展させることなどできまい。私は、もっと相応しい相手を見つけた。お前との婚約は、本日をもって破棄させてもらう」
「……は?」
突然の言葉に、意味が理解できなかった。
その言葉を聞いていた周りの者達も同じような反応。扇を持つ手が、宙に止まっている人々がいた。隣の婦人と視線を交わすこともできず、口を開きかけたまま開けない紳士がいた。
止めようとして、しかし手のひらが宙でわずかに浮いたまま、行き場を失っている婦人がいた。主催家の主ですら、何か言おうとして言葉を失い、唇を一度だけわずかに動かして、そのまま動かなくなった。
他家の婚約事情を、しかも自家の不名誉など顧みず、衆人環視の場で告げる。それは、人々の知る貴族の常識の外にあった。誰もが、それを止めるという発想に至るまでの数秒を、誰もが動けなくなった。そんな場面を目撃した数十人すべてが、同じ理解の遅れの中に、共に取り残されていた。
(……彼は、何を言っているの?)
言葉の意味が、すぐには繋がらなかった。
耳には届いている。意味も知っている。けれど、それが自分に向けられた現実だと、思考が理解を拒んでいた。
なぜ、こんな場所で。なぜ、こんな形で。その問いの方が、どうしても理解できない。どこから問い詰めるべきか、思考が乱れてしまった。
彼が婚約破棄を突きつけてきた理由も、理解不能だった。
両家のために、自分なりに考えてきたつもりだった。婚約者として、できる範囲のことを、静かに準備を重ねてもきた。家同士の繋がりの先を、自分なりに思い描いて、両家の発展のために足元を整えようとしてきたはず。
けれど、彼には、何一つ伝わっていなかったのね。
その事実が、胸の底に静かに落ちていく。波紋ひとつ立てずに、深いところへ、ゆっくりと沈んでいく。
婚約破棄そのものは、構わない。けれどなぜ、こんな場所で、こんな形で。
胸の奥が、重く澱んでいくのが分かった。怒りでも、悲しみでもない。先のすべてが、ゆっくりと暗くなっていくような、鈍い疲労感。
それでも、エリザベスは表情が崩れないよう、強く意識を保った。
姿勢を保ち、息を整えた。堂々としてみせた。指先が冷えていく感覚を、頬の奥に追いやる。表情の表面が崩れないよう、意志の力でそっと支える。
夜会に参加している貴族たちの数十の視線が、自分の方を向いていた。
(見られている。ここで取り乱せば、わたくしも、同じ穴の狢と見られる。それだけは、家のために避けなければ)
家のために。名を汚さないように。その理由が、疲労の底から、ゆっくりと浮かび上がってきた。エリザベスにとっては、とても大事な理由。
エリザベスは、扇を胸の前で軽く合わせ、深く息を整えた。胸の奥で渦巻く混乱を、堂々とした態度でそっと押し戻すように。
声には、張りはない。けれど、澄んで広間の隅まで通る声音で。
「左様でございますか。承りました」
短い、ひとことだった。撤回させるのではなく、そのまま受け入れる。
話し合って撤回させるなんて力は、もう残っていない。けれど、だからこそ、この回答が良いのだと、頭のどこかが、冷えた指先のように静かに計算した。
ほんの少し、間を置いてから彼女は続けた。
「お話は、確かに伺いました。それでは、わたくしはこれにて」
「……」
スカートの裾を、ふわりと指で支える。
それから、深く、深くお辞儀をした。
裾が床を撫でる、ごくかすかな衣擦れの音が、凍りついた広間に落ちる。誰もがその音を聞いた。けれど、誰も、それを言葉にすることはできなかった。
エリザベスは、姿勢を戻した。
なぜか、不満げな表情を浮かべる元婚約者となったアレクシス。彼が口を開く前に、その場を離れましょう。
振り返らず、エリザベスは夜会の主催者である人物のもとへ歩み出す。
「お騒がせして申し訳ありません」
「あ、ああ。いや」
戸惑う主催者に対して、エリザベスは頭を下げて謝罪する。
「それから、少々気分が優れないので、お先に失礼させてもらいます」
「そ、そうか。それは、お大事に」
短い挨拶を済ませて、退出の許可をもらう。少しマナーに欠けた行いだとは思うけれど、この状況だから勢いに任せて終わらせてしまう。最低限のマナーは守れているはず。まだ周りの貴族たちは戸惑った様子でエリザベスのことを見ていた。
アレクシスと、彼が連れてきた令嬢は、親密さを隠そうともせず、周囲の視線など意にも介していないようだった。
そのままエリザベスは、扉に向かって一人で歩き出した。
歩幅は、揺らがなかった。ピンクブロンドの髪が、肩でやわらかく揺れる。視線は、まっすぐ前へ。アレクシスの方も、彼が連れてきた令嬢の方も見ないように。見てしまったら、文句を言ってしまいそうだから。
背中越しに、どんどんざわめきが大きくなっていく様子を感じた。
息を呑む音、扇の陰での囁き、何かを問おうとして言葉にならない呼びかけ。そして、アレクシスの隣に立つ女性の誇らしげな気配。それらすべてが、廊下までついてくるように、空気の中を漂っていた。
けれど、エリザベスはもう、それらに反応する気力がなかった。
衝撃を受けて、正しく反応する力が残っていなかった。背中に張り付いた無数の視線も、廊下に伸びていく沈黙の余韻も、ただ薄い膜の向こうの出来事のように遠くに感じた。
扉を抜けて、広間から離れた控えの間に着いて、エリザベスは静かに足を止めた。
扉の脇に控えていたローズフェル家の執事が、姿勢を正す。彼女は視線を上げず、扇を胸の前に置いたまま、ただ短く告げた。
「帰ります。馬車を用意して」
執事は、何も問わずに、深く一礼して動いた。
ローズフェル家の紋章のついた馬車が、玄関の前に着く頃には、夜の王都の空気はすっかり冷えていた。
御者の短い挨拶。扉が閉まる、低く控えめな音。
馬車が、ゆっくりと動き出した。
石畳を踏む蹄の音、車輪の規則正しい音。耳には届いているが、どこか遠い。エリザベスは、窓の外を見なかった。流れていく王都の灯りも、夜空も、彼女の目には入らない。
ただ、膝の上に重ねた、自分の両手を見つめていた。
手袋の縁、指の先、薬指のあたり。どこにも、力は入っていない。
(勢いに任せて、婚約破棄を了承してしまった。これから、どうなるのかしら)
胸の中で、ひとつだけ呟いた。けれど、その問いを追いかける気力は、もう湧いてこなかった。
ただ、疲れた。
数十人の貴族が、あの場にいた。今夜のうちに、王都中を噂が駆け巡るのだろう。明日からは、その噂への対処が必要になるかもしれない。当主であるお父様の手を、煩わせることになる。
家のために、自分にできることが何かあるのか。
けれど、今の自分には、それを考える力すら残っていなかった。
お父様のお手を煩わせることになる。それが、とても申し訳なかった。
胸の底が、もう一段、深く沈む。
(……ああ、疲れた。なんで、こんなことに)
馬車は、石畳の上を進み続けていた。
窓の外を、王都の夜の景色が、ゆっくりと流れていく。
屋敷へ戻る馬車の中で、彼女はただ、後悔と不安を抱きながら膝の上の手を見つめていた。




