第33話 部外者ではないよ ※ルシアン視点
アレクシスの吐き捨てるような言葉に、ルシアンは特に何も感じなかった。投げつけられた罵りそのものは、彼の心を波立たせはしない。理に詰まり、思いどおりにならぬ苛立ちを、手近な相手にぶつけているだけのこと。
そういう類いの言葉にいちいち傷つくほど、ルシアンは弱くもなければ、暇でもなかった。
ただ。
今のは、聞き流していい言葉ではなかった。
個人の感情として、許す許さないの話ではない。投げつけられたのが、王族その人であった以上、それは王国の秩序に関わる。たった今この男は、王族に対して、公然と無礼を働いた。不敬罪の要件は、満たされてしまっている。
引き返す機会は、あったはずだった。先ほど穏やかにたしなめた時点で、この男が一言詫びていれば、すべては何事もなく済んでいた。けれど彼は自ら言葉を重ねて、越えてはならない一線を踏み越えた。
ならば、見過ごすわけにはいかなかった。
ここには、守りたい人がいる。
ルシアンは、ひとつ息を整え、口を開いた。
「部外者ではないよ」
声を荒らげはしない。ただ、はっきりと、相手の目を見て告げた。
「私は、ヴェルデニア王国の王子、ルシアン・ヴェルデニアだ」
アレクシスの顔から、表情が抜け落ちた。
「……なに?」
吐き捨てかけた言葉の続きが、行き場を失ったように宙に浮く。王子、という一語を、頭の中で何度も転がしているのだろう。その目が、忙しなく揺れていた。
ルシアンは、相手が呑み込むのを待ってから、続けた。
「王位継承順位が低いので、知らないのも無理はないだろう。だが、それでも君は、許されないことをしてしまった」
責めるでも、嘲るでもない。ただ、起きてしまった事実を、そのまま告げる。
いつもの自分なら、あまりしないことだった。身分を明かし、それを盾に人を退かせる。そんな振る舞いを、ルシアンは避けてきた。
けれど、今この瞬間だけは、躊躇いはなかった。
この地は、エリザベスが築いたものだ。傷を負った者を癒し、立ち直る力を取り戻させる、争いの似合わない穏やかな場所。沈んでいた自分を、何も言わずに掬い上げてくれた、大切な土地。
その彼女を、この男は傷つけようとしている。
ならば、振りかざせばいい。自分が持っているものが、彼女を守る助けになるのなら。
***
「な、なぜ……」
ルシアンの言葉で、ようやく事態を理解したらしい。アレクシスの声は、掠れていた。自らの失態に気づいて、慌てているのだろう。
「なぜ王子が、こんな場所に?」
その問いには、答えてやる義理もなかったが、ルシアンは穏やかに応じた。隠すことでも、もったいぶることでもない。
「ローズフェル家の取り組みを視察するために訪れていたんだよ。それを、君が邪魔した」
言葉を継ぎながら、ルシアンは事の次第を、ひとつずつ確かめるように並べていった。感情を込める必要はない。事実だけで、十分だった。
「予定も取り付けていないのに、やって来たそうだね。それだけでなく、この土地を預かっているエリザベスを呼びつけて、愚かな要求を突きつけていたようだが」
約束もなく押しかけ、業務を妨げ、威圧で人を従わせようとした。女性に対して、高圧的に振る舞った。そして、王族に向かって暴言を吐いた。
どれひとつをとっても、看過できるものではない。声を荒らげる必要も、糾弾する必要もない。事実を並べていけば、それだけで彼の立つ瀬は、もうどこにもなかった。
「……」
アレクシスは、何も言い返さなかった。いや、言い返せなかったのだろう。口を開きかけては閉じ、また開きかけては、言葉を失う。反論の糸口を探して、見つけられずにいる。その沈黙こそが、何よりの答えだった。
ルシアンは、その様子を見つめていた。
こうして人前に立ち、身分を明かして、責任をもって相手を諭す。そんなことに、かつての自分は、とても自信が持てなかっただろう。失敗を恐れ、波風を立てぬよう、ただ息を潜めて生きていた頃の自分なら。
けれど、今は違った。
不安がないわけではない。完全に立ち直ったわけでもない。それでも、為すべきときに、王族として為すべきことを為す。その重みを、今は、きちんと両肩で受け止められている。
この土地が、自分にそれを思い出させてくれた。沈んでいた心に、もう一度、前を向く力を戻してくれた。
ならば、その力を、こういうときにこそ使うべきだ。
***
ルシアンは、最後の言葉を告げた。
「君に、そんな権力はない。大人しく帰り給え」
エリザベスを引き取る権利も、彼女に何かを命じる資格も、この男にはない。意のままに人を従わせる力など、誰にも与えられてはいないのだ。
その一言が、応接室の空気を断ち切った。
アレクシスは、なおも何かを言おうとするように見えた。けれど、その口から、声が出てくることはなかった。彼が振りかざしてきたものが——公爵家の当主代理という肩書きの威光が、本物の王族を前にして、音もなく崩れ落ちていく。その様が、ルシアンの目には、はっきりと映った。
長い、沈黙があった。
やがてアレクシスは、ゆっくりと腰を上げた。
一度だけ、その視線がエリザベスの方へと向けられた。何か言いたげに、けれど言葉にはならない。恨めしげな色が、その目の奥に滲んでいるように見えた。それも一瞬のことだった。
結局、彼は何も言わなかった。
捨て台詞のひとつもなく、抗弁の一言もなく。ただ、唇を引き結んだまま、踵を返し、応接室の扉から出ていった。
遠ざかっていく足音を、ルシアンは聞いていた。
この男の暴走は、ようやく止まった。もう、彼女を脅かすことはできない。
***
扉が閉まり、応接室に本来の静けさが戻ってくる。
ルシアンが、ふっと息をついたそのとき、エリザベスが彼の前へと歩み出てきた。
そして——地面についてしまいそうなほど、深く頭を下げた。
「ルシアン殿下。本当に、申し訳ありませんでした!」
張りつめた声だった。自分の過去に、王族を巻き込んでしまった。その負い目が、低く下げられた頭の角度に、痛いほど表れていた。
「頭を上げて」
ルシアンは、慌てて言った。
「君が気にすることじゃないさ」
謝られるようなことは、何ひとつない。むしろ、頭を下げるべきは、割って入った自分の方ではないかとさえ思う。余計な気苦労を背負わせてしまった。
ルシアンは、エリザベスに深く恩を感じていた。
重い足取りでこの地を訪れた自分を、彼女は、何も言わずに癒してくれた。沈んでいた心を解きほぐし、もう一度前を向くきっかけを、そっと差し出してくれた。見返りを求めるでもなく、ただ、当たり前のように。
そのとき、心に誓ったのだ。この恩は、いつか必ず返そうと。彼女が何かを必要とするときが来たなら、今度は自分が助ける側に回りたいと。
それが、こんなにも早く巡ってきた。
だから、嬉しかった。彼女の助けになれたのなら、それ以上のことはない。これで恩を返しきれたとは思わない。けれど、その一歩を踏み出せたことが、今は素直に嬉しかった。
「悪いのは、あちらの方だ。君の対応は何も間違っていない」
ルシアンはもう一度、穏やかに繰り返した。
「だから、気にしないでほしい。本当に、君が詫びることなど何ひとつないのだから」
顔を上げた彼女の表情から、強張りがわずかにほどけていくのが見えた。
***
この件を、ここで終わらせるつもりはない。
アレクシスは去った。だが、彼が為したことは、消えてなくなるわけではない。王族への不敬。ローズフェル侯爵家の令嬢に対する、目に余る無礼。この地への無断の来訪と、引き起こした騒ぎ。
そして——何よりも。
公爵家の当主代理という立場にありながら、その振る舞いはあまりに拙く、領地の事業を、大きな損害とともに傾けてしまったと聞く。実は、すでに調査済みだった。ヴァルモント公爵家の取り組みは大失敗。私的な暴走に留まらず、公の責任を問われるべき失政が明らかになった。
それらすべてに対して、相応の罰が、突きつけられなければならない。
恨みを晴らすためでも、痛めつけて溜飲を下げるためでもない。ただ、正当な責任を取らせるため。乱された秩序を、あるべき形に戻すため。個人の感情ではなく、王族として、国家として、見過ごすわけにはいかないからだ。
その場で叩きのめすことはしない。怒りに任せて、すべてを終わらせてしまうのではなく、然るべき手続きに委ねる。それが、王族としての責任の取り方だった。
アレクシスにも、責任を取ってもらう。当主代理とはいえ、実権を握っているのは彼なのだから。
***
ルシアンは改めて、エリザベスへと目を向けた。
彼女を守れて、よかった。
心の底から、そう思えた。あの日、胸の内で交わした誓いを、今日、行動として果たせた。受けた恩を、ようやく少しだけ、返すことができたのだ。満ちてくるのは、勝利の高揚などではない。もっと穏やかで、満ち足りた何かだった。
婚約を破棄され、辺境へ移ることになり、それでもこの地で、一から立ち上がった尊い女性。誰かを信じ、誰かに必要とされ、自分の足で立つ日々を、彼女はもう取り戻している。
彼女はもう、過去に囚われてはいない。
その横顔を見つめながら、ルシアンは、まだ終わっていない責任を胸の奥で見据えていた。
王都へ送られる報告書。すでに明らかになった失政の数々を、正式な裁定の場へと運ぶ流れ。そして、これから始まっていくであろう処分の手続き。
これからアレクシスは、大変なことになるだろう。
けれど、それは、彼自身が選び取った道の果てにあるものだ。誰かに嵌められたわけでも、理不尽に貶められたわけでもない。積み上げてきた無礼と慢心が、自らの足元を崩しただけのこと。
ルシアンは、窓の外へ目をやった。
穏やかな光がこの地を、変わらず明るく照らしている。
守るべきものを守れた。前を向き始めた自分に、それができた。
それで十分だった。




