第32話 お断りします
午後の打ち合わせを終えたばかりのエリザベスのもとへ、急な知らせが舞い込んできた。
予定になかった貴族が、訪ねてきているという。手配もなしに訪れて、それでいて帰る気配もなく、応接室で「エリザベスを呼べ」と声を尖らせているのだという。取り次いだ職員は、対応に困り果てていた。
エリザベスは手にしていた仕事を一旦置いて、対応に向かうために席を立った。
応接室へ向かう廊下を、横に並んで歩く男性職員は、顔を真っ青にしていた。早口で経緯を詫びようとする声が、わずかに上ずっている。
「大丈夫です。私の方で対処します」
エリザベスは、努めて穏やかに告げた。
「申し訳ありません、エリザベス様」
そう言って謝罪し続ける職員は、肩を縮めている。
「謝る必要はありません。突然やってきた貴族を相手に、断るのも難しいでしょう。受け入れ体制の見直しは必要かもしれませんが、今回のことは気に病まないで」
言いながら、エリザベスは状況を冷静に見定めていた。
事前の申し込みのない貴族を、いったん中に通してしまった。それ自体は確かに、小さな手落ちかもしれない。けれど、そこまで強引に居座る相手であるならば、手配されていないからと帰そうとしても、結局は今と同じように暴れていただろう。問題があるのは、押しかけてきた貴族の側だ。現場の者を責めるのは、筋が違う。
なんの連絡もない来訪を、どう見極め、どう丁重に断るか。そうした手順は、後で落ち着いて見直せばいい。一度の躓きを咎めて人を萎縮させてしまえば、かえって次の対応が硬くなる。今は目の前の厄介事を、自分の手で収める。それが、上に立つ者の役目だ。
職員の強張った横顔に、ほんの少しだけ和らぐ気配を見て取ってから、エリザベスは応接室の扉に手をかけた。
そして、開いた扉の向こうにいた人物を見て、エリザベスの表情が固まった。
***
ソファに、傲然と背を預けて座っていたのは——アレクシスだった。
かつての婚約相手。一方的に婚約破棄を告げてきた男が、なぜ今、この辺境の地にいるのか。
なぜ今さら。どうして、ここへ。
胸の奥に生じた疑問と、それを上回る警戒が膨らんだ。
アレクシスは、入ってきたエリザベスを認めると、待ちくたびれたとでも言いたげに、深く息を吐いた。
「待たせすぎだぞ、エリザベス」
「……アレクシス様」
エリザベスは、辛うじてその名を口にした。
わざわざ自分が出向いてやったのだから、出迎えるのが当然だと言わんばかりの、尊大な物言いだった。詫びの一言も、来訪の理由も、何ひとつない。ただ、待たされたことへの不満だけが、真っ先に突きつけられる。
昔と何も変わっていない傲慢な態度。いや、と、エリザベスは思い直した。記憶の中の彼よりも、その態度は、ずっと横柄になっているように感じた。
***
エリザベスが問いかけるよりも先に、アレクシスは話を切り出した。挨拶も、近況を問う言葉も一切ない。まるで、決定事項を読み上げるような口ぶりだった。
「お前を引き取り、ヴァルモント家のリゾート地の開発を命じる。立て直しを図れ」
一瞬、その言葉の意味が理解できなかった。
引き取る。命じる。立て直せ。並べられた言葉を、エリザベスは無言でなぞり返した。何かの聞き違いではないか、とさえ思う。けれど、アレクシスの表情には冗談の色も、ためらいの色もない。本気で、それを命令として告げている。
ようやく、彼の言葉が呑み込めた。
「お断りします」
迷いはなかった。考え込む必要も、言葉を選ぶ必要もない。当然のことだ。なぜ自分が、そんな話を受け入れると思われたのか、まるで見当がつかなかった。
なぜ、自分が彼の事業の責任を取らなければならないのか。
そんなエリザベスをよそに、アレクシスはなおも続けた。そうして語られる話を聞くうちに、その提案の中身が酷いものだと知った。
彼は、エリザベスを婚約者として迎え直そうとしているのではない。失敗している事業を立て直す働き手として自分を手元に置き、そのうえで——妾のような立場を、押し付けようとしているらしい。
なんて、傲慢な言い方。エリザベスの胸に湧いたのは激しい怒りではなく、静かな呆れと、冷えた嫌悪だった。
しばらく顔を合わせないうちに、彼はますます酷いことになっていた。向こうから婚約破棄を告げてきたのに、今になって引き取るだなんて。しかも、その破棄を取り消すのではなく、妾のような立場を押し付けようとしている。人をまるで、思いどおりに使える道具のように扱う言い分だった。
ますます、そんな男の提案を受け入れるわけがない。
昔の自分なら、動揺していたかもしれない。婚約を破棄され、居場所も、これまで信じてきたものも、何もかもを一度に失って、ただ深く疲れ果てていた頃の自分なら。彼の言葉の一つひとつに、いちいち胸を痛め、自分のどこが悪かったのかと、答えのない問いを繰り返していたかもしれない。
けれど、今は違う。
この土地で人と繋がり、自分で一から築き上げてきたものがある。誰かに必要とされ、誰かを信じ、自分の足で立つ日々を持っている。自信がある。だから、彼の言葉は、もうエリザベスの心を揺さぶらなかった。遠い場所から聞こえてくる、他人の独り言のように、ただ通り過ぎていくだけだった。
***
迷いのない拒絶を、アレクシスは許せなかったらしい。みるみる顔を赤くし、声を荒らげた。
「なんだと! お前に、そんな権限があると思っているのか! お前は、素直に受け入れるんだ。婚約相手もいない女を、公爵家の当主である私が引き取ってやるんだ。感謝するんだな」
吐き出される言葉の一つひとつが、彼の内側を露わにしていく。拒否権などない。婚約相手のいない女に、価値などない。それを公爵家が引き取ってやるのだから、ありがたく思え。それが、彼にとっての、揺るぎない道理なのだ。自分が誰かに断られるということ自体、彼の中には存在していないのだろう。
この人は、もう自分の人生にはなんの関係もない。そう思うと、不思議なほど、心は凪いでいた。
「ですから、お断りします。お話は以上ですか? では、お帰りください」
声を荒らげはしなかった。言い負かそうとも、言い返そうとも思わなかった。ただ、断る。話を打ち切り、帰るように告げる。
「駄目だ!」
アレクシスが、子どものように声を張り上げた。
理屈の通らない相手を、理屈で説き伏せようとするのは、徒労でしかない。彼が何を言おうと、答えは変わらないのだから。
***
話は、もう終わっているはずだった。
けれど、アレクシスは腰を上げようとしなかった。引き取れ、立て直せ、と要求を繰り返し、エリザベスが応じないとみるや声をいっそう大きくしていく。
エリザベスは、何度目かの「お断りします」を、変わらぬ調子で告げた。
厄介な人だ、と思う。けれど、それで心が乱れることはない。応じない、ただそれだけを、淡々と続ける。
アレクシスの怒声が、応接室の壁を越えて、廊下にまで漏れ始めていた。扉の外に、人の気配が増えていく。何事かと、職員たちが足を止めているのだろう。客人がくつろぐためのこの場所に、ふさわしくない不協和音が、じわじわと広がっていく。せっかく整えてきた穏やかな空気が、たった一人の身勝手によって乱されていくことに、エリザベスは心苦しさを覚えた。
それでも、感情的に言い返すことだけはしまいと、自らに言い聞かせる。ここで自分まで取り乱せば、彼と同じ高さに降りていくことになる。
いっそ警備兵を呼ぶべきだろうか。どう場を収めるか、エリザベスが思案を巡らせた、そのときだった。
応接室の入り口に、ひとつの人影が立った。
***
「これは、なんの騒ぎだい?」
穏やかな、けれどよく通る声だった。
くすんだ金色の髪に、青灰色の瞳。線の細い、優しげな面立ちの青年が、静かにこちらを見ている。その姿に、エリザベスはハッとした。こんな場所に来てはいけない。
「ルシアンでん――」
殿下、と続けようとした言葉は、最後まで紡がれなかった。
「なんだ貴様は?」
アレクシスが、苛立たしげに遮ったのだ。
突然現れたこの青年を、彼は、ただ無遠慮に話へ割り込んできた部外者としか見ていない。そして、睨みつけている。エリザベスの言葉が途中で断たれたことにも、気づいた様子はなかった。
ルシアンは、アレクシスの剣呑な視線を受けても、表情を変えなかった。ただ、ふっと、穏やかな微笑みを浮かべる。
「女性に対して、そんな態度で接するべきではないよ。王国の貴族であるならば、もっと紳士的にするべきだ」
声を荒らげるでもなく、威圧するでもない。諭すような落ち着いた口調だった。
その物言いは、ついさっきまでのアレクシスの怒声と、あまりにも対照的だった。一方は、相手をねじ伏せようと声を張り上げ、一方は静かに相手を立てながら、過ちをそっと指摘する。
アレクシスは思いどおりにならぬことのすべてを他人のせいにして、ルシアンは、ただ目の前の非礼を穏やかにたしなめる。二人の差は、声の大きさでも、身分の高さでもなく、ただ言葉と佇まいだけで痛いほど際立っていた。
けれど、アレクシスには、その差を察することはできなかったらしい。
「部外者は黙っていろ!」
吐き捨てるように、彼は言い放った。
今は自分とエリザベスが大事な話をしている最中だ。そこに口を挟むな。そう言わんばかりの、傲慢な拒絶だった。
その瞬間、エリザベスの顔から、すっと血の気が引いた。なんてことを。
アレクシスは、本当に気づいていない。
目の前にいる相手が、一体誰なのかを。
ルシアン殿下。この王国の王子、その人だ。視察のため、この地を訪れている、王族。その御方に向かって、アレクシスは今、「部外者は黙っていろ」と言い放ったのだ。
けれど当の本人は、それに気づいていない。知らぬまま無礼を、ひとつ、またひとつと、重ねていく。
止めなければ、と思った。それはアレクシスへの心配や同情ではない。あれだけの言葉を浴びせられた後で、彼を案じる気持ちなど湧いてはこない。ただ、ここはエリザベスが預かる場所だ。その大切な場で、これ以上の騒ぎを起こさせるわけにはいかなかった。
どうにかして、ルシアンをこの部屋から出せないか。せめて、アレクシスから引き離せないか。かといって下手に口を挟めば、何をしでかすか読めないこの男を、いっそう刺激しかねない。
慌てて動けないのではなかった。考えれば考えるほど、迂闊な一手が打てなくなる。どう動いても、事態がどちらへ転ぶか読みきれない。
ルシアンは、もう微笑んでいない。
穏やかな瞳を、まっすぐにアレクシスへと向けている。何かを言うわけでも、反応するわけでもない。ただ、黙って見ている。
それでも、その静かな眼差しの奥で何かが決定的に変わったことを、エリザベスは感じ取った。
アレクシスは、まだ気づいていない。自分が誰に何をしているのかも知らぬまま、苛立ちのままに、一方的な主張を続けている。
応接室の空気が音もなく、凍りついていった。




