第31話 私は間違っていない ※アレクシス視点
その報告は、ある朝、ひとりの家臣の手によって執務机へと運ばれてきた。
書面を差し出す家臣の物腰は、いつになく硬かった。アレクシスはそれに構わず、文面へと目を落とす。そして、読み進めるほどに、その眉根が寄っていった。
利用する客が、一向に増えない。せっかく資金を投入した施設に、人が訪れない。それでいて、維持にかかる費用だけは、日ごとに膨らんでいく。
人を雇い、調度を保ち、広大な敷地を整えている。そのすべてに金がかかる。収益は、ほとんど上がっていなかった。
「赤字が……このままでは、追加の資金が必要かと」
家臣の声が、わずかに掠れた。
アレクシスは書面を握る指に、力がこもるのを感じた。
赤字。その二文字が、目の奥で冷たく光る。あれだけの財を投じた事業が、利を生むどころか、家の蓄えを食い潰しにかかっている。投じた額は、もはや小さなものではない。
公爵家の資産をもってしても、揺らぎかねない規模に達しつつあった。
なぜだ。
込み上げたのは、腹の底を炙るような、冷たい怒りだった。胸の内で、その問いだけが幾度も渦を巻いた。
なぜ、こんなことになった。順調に運ぶはずだった。あれだけ立派な施設を建て、惜しみなく金を注ぎ込んだ。成功して、当然のはずだった。理解できない。何が、どうなって、こうなったというのだ。
だが——と、彼の思考は、間を置かずに次の場所へと滑り込んだ。
私は、間違っていない。
計画は正しかった。判断も、采配も、誤ってはいない。財も惜しまず投じた。当主代理として、するべきことは、すべてした。
ならば、問題は他にある。
成功するはずだったのだ。何かが間違っているとすれば、それは私ではない。
アレクシスは、書面を静かに机へ置いた。冷えていく心地のなかで、原因はどこにあるのか、と彼は考え始めた。間違いは、必ずある。自分の外側の、どこかに。
***
最初に思い至ったのは、現場の者たちだった。
私は、正しい指示を出した。何をどう進めるか、必要なものはすべて与えた。場所も、予算も、人員も。あれだけ整えてやったのだ。それで利が出ないというのなら、原因は、与えられたものを正しく動かせなかった者にある。
実行した者が、無能だったのだ。
考えれば、筋は通っていた。立派な施設は、現にそこに建っている。ならば、客を呼び込み、もてなし、利を上げる。その日々の運びを誤った者がいる。任された役目を、まっとうできなかった者がいる。そいつらが、すべてを台無しにしたのだ。
アレクシスは、家臣を呼びつけた。運営を取り仕切る責任者、客の差配を任せた者、帳簿を預かる者。彼らを次々と詰問し、叱責し、処分を言い渡していった。降格させた者もいれば、職を解いた者もいた。
なぜそうなったのか、どこに無理があったのかを彼は問わなかった。原因を究めようとはしなかった。ただ、責めを負わせる相手を探していた。利が出ない。ならば、誰かが失敗したのだ。その誰かを罰すれば、筋は通る。
失態を犯した者を、同じ場所に据えておくわけにはいかない。負うべき者に、責めを負わせる。それが道理というものだ。
人を替え、罰を下しても赤字の数字は、一つも減りはしなかった。
アレクシスの苛立ちは行き場を求めて、次の対象へと向かった。
***
今度は、招いた貴族たちだった。
思い返せば、腹立たしいことばかりだった。あれだけ手厚くもてなしてやったではないか。豪奢な館へ招き、贅を凝らした調度で迎え、最上の席を用意した。公爵家の名にふさわしい、申し分のないもてなしだったはずだ。
それを、あの者たちは、どう報いた。
一度来たきり、二度と足を運ばない。招きの手紙には、あれこれと理由をつけて、やんわりと断りを寄越す。社交の場で、進んで語ろうともしない。
なぜ利用しない。なぜ話を広めない。なぜ、協力しようとしない。
あれだけのものを見せてやったのだ。本来なら、我先にと触れ回り、こぞって押し寄せるのが道理だろう。それをしないのは、あの者たちが、ヴァルモント家の意向を解さぬからだ。価値を理解していない。物の善し悪しを見る目がないのだ。
施設に、足りないものがあるなどとは、考えもしなかった。建物は立派だ。金もかけた。ならば、欠けているはずがない。悪いのは、利用しない側だ。
恩知らずな連中だ、と彼は内心で吐き捨てた。あれほどのもてなしを受けておきながら、報いる気のない者たち。それが、貴族のすることか。
部下も、貴族も、誰一人として、自分の成功を支えようとはしない。皆が皆、役目を果たさず、価値を解さず、足を引っ張る。
苛立ちのなかで、アレクシスの思考は、次第にひとつの方向へと流れていった。そもそも、なぜ自分が、こんな苦労を背負い込む羽目になったのか、と。
***
そして、その問いは、ひとりの女へと辿り着いた。
エリザベス・ローズフェル。かつての、婚約相手。
考えてみれば。アレクシスの内で、ある思いが鎌首をもたげた。そもそも、あの女が、あんな話題にならなければ。
辺境で、つまらぬことを始めた女。それが王都で運良く評判となって、貴族たちが競って語り、年を追って客が増えていった。そんな噂さえ自分の耳に入らなければ。あの女が、あんなふうに注目を集めなければ。
私は、こんな事業を始めはしなかった。
その考えは、いったん芽吹くと、みるみる根を張っていった。正しいと思えた。そうだ。すべては、あの女から始まったのだ。あの女が、身の丈に合わぬ話題になり、人目を引いたから。それを知ってしまい、自分は影響されてしまった。あの女にできて、自分にできぬはずがない。そう思い、財を投じた。そして、損をした。
ならば、すべての発端は、あの女ではないか。
あの女の影響がなければ、自分は事業を起こさなかった。事業を起こさなければ、赤字も、損失も、この苛立ちも、何ひとつ生まれはしなかった。今、自分がこうして煩わされているのは、元をたどれば、あの女のせいなのだ。
原因を作った者が、責任を取る。それが、道理というものだ。そして、その元凶こそ、あの女だ。
アレクシスは、自らが投じた財のことも、丸投げにした采配のことも、急がせて建てた施設のことも、振り返らなかった。新たな婚約者ロザリンドが、社交界でこの事業を吹聴し、浪費を重ねてきたことなど、疑いの対象にすら上らなかった。彼女は、未来の公爵夫人だ。唯一、自分を解する者だ。そこに、綻びがあろうはずもなかった。
彼の怒りは、何ひとつしていない、辺境の女へと、まっすぐに注がれていった。
あの女が、悪い。
そう結論づけたとき、彼の中で、歪んだ論理は、次の段階へと進み始めた。原因を作った者に、どう、その責めを取らせるか。
***
まず思い浮かんだのは、彼にとっては、ごく穏当な考えだった。
あの女は、現に成功している。ならば、その知恵を借りればいい。何が客を呼び、何が利を生むのか。そのからくりを、あの女は知っているのだろう。助言だけ、聞いてやろう。そうすれば、この事業も立て直せる。
いいや、駄目だ。すぐに、それでは足りぬと思い直した。
助言など、生ぬるい。原因を作ったのは、あの女だ。であれば、ただ知恵を貸すだけでは、釣り合わない。立て直しそのものを、命じればいい。あの女に、この事業を立て直させる。後始末をするのが当然で、それでこそ筋が通る。
しかし、それでもなお、足りなかった。
命じるだけでは、責めを取らせたことにはならない。立て直したところで、それは当然の務めを果たしたにすぎない。あの女に、相応の責めを負わせるには——手元に、置いておくべきだ。
婚約者には、戻さない。ロザリンドがいる。あれは、自分にふさわしい、公爵夫人となる女だ。それは動かない事実。
ならば、エリザベスは妾として迎えればいい。
手元に置き、働かせ、この事業を立て直させ、生涯をかけて、責めを取らせる。所有し、支配し、思うままに使う。それでこそ、原因を作った者への、正しい報いというものだ。
考えがそこに至ると、アレクシスは、ひどく得心した。そして、落ち着きを取り戻した。
これは、罰だ。あの女が招いた失敗への、当然の罰。だが同時に、救済でもある。
どうせ、結婚する相手のいなくなった女だ。この先、新たな婚約相手など、見つかるはずもない。辺境で、寄る辺もなく朽ちていくだけの女だ。それを、公爵家が引き取ってやるのだ。これ以上の温情が、あるものか。
自分は寛大だ。
アレクシスは、しみじみと、そう思った。罰を与えながら、行き場のない女に、居場所を与えてやる。公爵家に引き取られるのだから、あの女は、むしろ感謝すべきだろう。
そうだ。引き取ってやろう。
その結論に、迷いは、微塵もなかった。あの女が、それを断るかもしれぬ——そんな考えは、彼の頭を、ただの一度もかすめなかった。
***
アレクシスは、エリザベスと直接会うことに決めた。書状でやり取りする話ではない。面と向かって、自らの口で伝えてやる。お前には、この事業を立て直す責めがある。そして、その身柄を公爵家が引き取る、と。
彼は家臣に命じて、ローズフェル領への旅の支度を整えさせた。馬車を手配して、護衛を付け、訪問の段取りを素早く組ませる。辺境までは、それなりの道のりだ。
旅の支度を整えさせている間、アレクシスには揺るぎない確信があった。
エリザベスは従う。
一度は袂を分かったとはいえ、自分が再び手を差し伸べれば、あの女は、喜んでそれに応じるに違いない。
断る理由など、あの女には、ありはしないのだ。
アレクシスは、辺境の地に思いを馳せた。あの女を引き取り、事業を立て直して、すべてを丸く収めた自分の姿を想像した。それが未来の自分であると。
馬車の用意が整った。
アレクシスは、確信を抱いたまま、ローズフェル領へと向かった。そこで何が自分を待つのかを知らぬまま。




