第29話 なんの問題もない ※アレクシス視点
新しく始めた事業の情報を夜会で広めてくれと、ロザリンドにお願いした。彼女の働きぶりは、悪くなかった。
アレクシスのもとには、その様子が方々から伝え聞こえてきた。公爵家が新たな計画を進めているらしい、未来の公爵夫人がそう語っていた、と。
ありがたいことだ、とアレクシスは思った。
評判というものは、自分から動いて作るものではない。誰かが、しかるべき場で、しかるべき言葉とともに広めてくれてこそ、価値を持つ。その役目を、婚約者が引き受けてくれている。これ以上、心強い味方はいない。
もっとも、聞こえてくる話には、わずかな引っかかりもあった。
伝え聞くかぎり、ロザリンドが語っているのは、事業そのものの中身よりも、彼女自身のことが多いらしい。やがて公爵夫人となる自分が、いかに大きな計画に関わっているか。どうやら、そういう語り口になっているようだった。
だが、それも仕方のないことだ、とアレクシスはすぐに思い直した。
未来の公爵夫人として振る舞うのは、彼女の立場からすれば、ごく自然なことだろう。むしろ、その誇りがあるからこそ、これほど熱心に動いてくれているのだ。彼女なりのやり方で、力を尽くしてくれている。それを、誰が責められよう。
事業の中身よりも自分のことが先に立つのも、裏を返せば、それだけ深く関わっているという自負の表れだろう。社交の場での立ち回りは、彼女のほうがよほど心得ている。任せておけば、間違いはない。
彼女は理想の婚約者だ。アレクシスは、そう信じて疑わなかった。
ロザリンドが力を尽くしてくれている。ならば、社交界からの反応も、さぞ大きなものになるだろう。そう思っていた。
だが返ってきた反応は、彼の予想とはいささか違っていた。
***
反響が思っていたほどではない。
報告や噂を集めるうちに、アレクシスはそのことに気づき始めていた。新事業の話は確かに広まってはいる。けれど、彼が想像していたような大きなうねりには、まるで届いていない。
おかしい、とアレクシスは思った。
エリザベスの辺境の事業は、王都で大きな話題になったと聞く。だとすれば、我が公爵家が同じ事業に乗り出したのだから、それ以上の騒ぎになって然るべきではないか。なのに、貴族たちの口の端に上る程度で、熱狂と呼べるものはどこにもない。
いったい、なぜなのか。
しばらく考えて、アレクシスは一つの答えに行き着いた。
――そもそも、たいした話ではなかったのだろう。
エリザベスの新たな取り組みが王都を賑わせたというのも、しょせんは過大な評価だったのだろう。物珍しさが、一時の話題を呼んだだけのこと。あるいは、一つの流行りに過ぎなかったのかもしれない。流行りというものは、熱しやすく冷めやすい。貴族たちは、新しいものに飛びつき、そしてすぐに飽きる。
そう考えれば、辻褄が合う。
反応が小さいのは、自分の事業に問題があるからではない。最初から、その程度のものだったのだ。エリザベスが特別だったわけではない。たまたま、彼女の話が物珍しかった。それだけのことだったのだ。
考えてみれば、おかしな話だった。婚約を解かれ、王都を追われるように去っていった令嬢が、辺境の地でそうそう大きな成功を収められるはずもない。注目されているように見えたのは、人々が面白がっていただけのこと。実のところは、案ずるほどのものではなかったのだ。
胸のつかえが、すっと下りていく心地がした。
反応が小さいなら、なぜそうなのか。事業の中身はどうか、家がどう見られているか、宣伝の仕方は的を射ているか。そうした問いは、ついぞ彼の頭をよぎらなかった。値踏みすべきは相手であって、自分ではない。彼の中では、もう答えが出ていた。
とはいえ、計画はすでに動き出してしまった。
今さら、止めるわけにはいかない。場所を確保して、予算も決めてしまったから。立ち上げた事業を引っ込めるなど、当主代理として、あってはならないことだ。
ならば、と、アレクシスは前を向いた。
反応が薄いなら、自分たちで盛り上げていけばいい。ロザリンドにもっと声をかけてもらい、機を見て手も打つ。自分たちが新たな盛り上がりの火付け役となる。それくらいの気持ちで臨めばいいのだ。なに、難しいことではない。
気持ちを切り替えたところへ、事業の担当者からの報告書が届いた。
***
報告は、とても順調だった。
アレクシスは机に向かい、届いた書面に目を通した。工事は順調に進んでいる。予算の範囲内で運んでいる。今のところ、問題はない。完成は予定どおりの見込み。報告書には、整った文字で記されていた。
結構なことだ、とアレクシスは満足した。
順調なら、それでいい。事業というものは、こうして滞りなく進んでこそだ。何も案ずることはない。
書面を最後まで読み、彼は紙を置いた。
順調。問題なし。予定どおり。並んだ言葉は、どれも耳に心地よかった。もっとも、どこまで工事が進んだのか、これまでにいくら使ったのか、具体的な数字までは書かれていない。何をもって順調と言うのか、その根拠が記されてはいなかった。そこに記されているのは、これから先の見込みばかりで、済んだことの報告は、どこか歯切れが悪い。
だが、アレクシスはそこを気に留めなかった。
順調と書いてあるのだから、順調なのだ。問題なしと書いてあるのだから、問題はないのだ。細かいことは、すべて担当者に任せてある。責任者からの報告書。いちいち自分が口出しするまでもない。それこそが、人を使うということだろう。
当主たる者が、現場の数字を一つひとつ睨んでいては務まらない。大枠を見て、信じて任せる。それが、自分のやり方だ。
彼は報告書を、机の上に積まれた他の書面の上へ重ねた。順調を告げる紙が、また一枚増えた。それを眺めるだけで、事業が確かに前へ進んでいるという手応えが、胸に満ちてくるようだった。
その頃、ヴァルモント家の中では、別の声が上がり始めていた。
***
ある日の会議で、帳簿を確認してほしい。そう申し出てきた者がいた。
ヴァルモント家に仕える、下級の家臣の一人だった。事業の数字について、念のため帳簿を照合し、報告の裏づけを取ってはどうか。一度きちんと調べておくべきではないか、と。
その申し出に、真っ先に渋い顔をしたのは、アレクシスの取り巻きたちだった。
「細かすぎますな」
「順調に進んでいるのですから、何を今さら調べることがありましょう」
「まさか、当主代理のご判断を、信用しておらぬわけでもあるまいに」
口々に言われ、その家臣は引き下がった。
アレクシスは、そのやり取りを脇で聞いていたが、深くは考えなかった。後押ししてくれた取り巻きたちの言葉が正しいと。帳簿の確認など、余計な仕事を増やすだけだと。
いちいち帳簿を照合したいなど細かすぎる。順調だと報告が上がっているものを、わざわざ掘り返して、何になるというのか。大局を見るのが当主の務めであって、そうした細事に煩わされるのは、むしろ務めを取り違えている。
彼の中で、その声は、取るに足らないものとしてあっさりと片づけられた。
順調だと報告が上がっているのだ。それを疑ってかかるというのは、要するに、事を任せた者を信じていないということだろう。任せると決めた以上、いちいち裏を取ろうとするのは、かえって筋が通らない。
諫めるような物言いをする者は、もうこの家には、ほとんど残っていない。煙たい忠言を並べていた者は、とうに遠ざけた。残った者たちは、皆こうして、彼の判断を後押ししてくれる。耳に痛いことを言う者がいないというのは、実に心地のよいものだった。それが、アレクシスには好ましかった。
もう一つ。彼が気づいていながら、目をつぶっていることがあった。
ロザリンドの買い物が、近頃、めっきり増えている。
新しい宝石。仕立てたばかりの衣装。屋敷に運び込まれる、贅を凝らした品々。その費えが、決して小さくないことは、アレクシスにもわかっていた。
以前から、少しばかり度が過ぎる気はしていた。だが、と彼は思う。
彼女は事業のために、社交の場で骨を折ってくれているのだ。その彼女が、装いの一つや二つに金をかけたところで、何を咎めることがあろう。愛する婚約者だ。それくらい、好きにさせてやればいい。
帳簿を確認したがる声も、婚約者の些細な贅沢も、アレクシスにとっては、どちらも取るに足らないことだった。
彼の心を満たしているのは、ただ一つ。順調だという、確かな手応えだけだった。
***
その夜、アレクシスは執務机の前に座り、ひとり満足感に浸っていた。
机の上には、順調を告げる報告書が、幾枚も積み重なっている。事業は予定どおりに進み、社交界への宣伝も、ロザリンドが引き受けてくれている。すべてが、滞りなく整いつつあった。
自分の判断は、間違っていなかった。
エリザベスの真似ではない。彼女にできた程度のことが、公爵家の財と、自分の采配をもってして、できないはずがない。むしろ、規模も、立派さも、向こうとは比べものにならないものになるだろう。
当主代理として、自分は十分にやっていける。
権限を握ってからというもの、すべては思いどおりに運んでいる。事業を立ち上げ、人を動かし、評判を整える。一つひとつ、自分の手で形にしてきた。これが当主の務めというものだ。そして、自分はそれを、見事に果たしている。
成功は、もう間近だ。
反応が薄いなどというのは、一時のこと。やがて施設が完成すれば、人はおのずと集まる。そうなれば、たいした話ではなかったなどと言っていた者たちも、こぞって手のひらを返すに違いない。そのときこそ、自分の正しさが、誰の目にも明らかになる。
アレクシスは、積まれた報告書をもう一度見やった。
順調。予算内。問題なし。
その言葉に囲まれて、彼は確信した。
――必ず成功する。
机の上で、順調を告げる紙の束が、また少しだけ高くなる。その薄い紙の重なりだけが、彼の確信を支えていた。




