第28話 自分ならば ※アレクシス視点
当主代理の執務机で書面に目を通していたアレクシスのもとへ、家臣の一人が辺境からの便りをまとめて差し出した。商人筋の動向、社交界の噂、家中に集まる雑多な情報。その中に、ひとつ、見慣れた家名があった。
「辺境のローズフェル領にて、新たなリゾート地が栄えております。景観を売りにした地に、各地から人が集まり、賑わっていると」
婚約破棄を告げたあと、ローズフェル家はしつこく賠償を請求してきた。その対応は主に父が引き受けていたが、病に倒れて有耶無耶になった。今は、こちらも黙殺を決め込んでいる。
アレクシスは、書面から目を上げなかった。
「リゾート地? 辺境の片隅に、物好きが集まっているという話か」
些細な話だろう、と思った。辺境で何かを始めた女が、わずかばかりの客を呼んだところで、たかが知れている。彼の中では、すでに片付いた話だった。
だが、家臣は説明を続けた。
「それが、王都でも評判となっておりまして。あの地を訪れた貴族が、口々にその良さを語り、いまや一度は足を運ぶべき場所、と。訪問する貴族たちは年を追って増え、その影響で領の実入りも相当なものに上っていると聞き及びます」
アレクシスの指が、その文字の上で止まった。
王都で。評判に。
流そうとした言葉が、喉の奥でつかえた。辺境の物好きの戯れ、と切り捨てるには、その規模が大きすぎた。一度きりの噂であれば気にも留めなかった。だが、年を追って客が増え、貴族たちが競って語る。それは、もはや負け惜しみや偶然で片付く話ではなかった。
「……ローズフェル家が? あの家の当主がわざわざ、そんなことを?」
問うまでもなく、答えは分かっていた。それでも、確かめずにはいられなかった。
「いいえ。エリザベス・ローズフェル様にございます」
切り捨てた女が。終わったはずの女が。今、現に、人を集めているらしい。
アレクシスは、書面を静かに机へ置いた。流そうとして、流せなかった。胸の奥に、不快な引っかかりが残った。
***
その日、アレクシスの心は、いつもの落ち着きを取り戻さなかった。
かつての婚約者が、新天地で成功を収めているらしい。縁を切った相手が、辺境で身の丈に合った居場所を見つけた。それで結構ではないか。頭の片隅では、そう思おうとした。
けれど、心は穏やかでなかった。
婚約破棄をした相手が、成功している。王都で、その名が語られている。その事実が、どうにも気に入らなかった。
それほど騒がれることなのか。
アレクシスは、執務机の上で指を組み、窓の外へ目をやった。ただの景色。たったそれだけのものに、王都の貴族たちが浮かれて足を運ぶ。物珍しさに踊らされているだけだ。彼は、リゾート地に関する評判を、冷静に値踏みしているつもりだった。
その値踏みの果てに、ひとつの考えが頭をもたげた。
自分ならば、もっと上手くやれるはず。
あの女に、人を率いて何かを成し遂げる才があったとは思えない。たまたま、辺境に手つかずの好条件があった。それを、運よく活用できただけ。器量の問題ではない。
ならば、自分が同じことをすれば——いや、自分ほどの者が手がければ、それぐらいの成功は、たやすく超えられる。
その思いつきは、彼の胸のざわつきを、心地よくほどいていった。
そうだ。気に入らないという考えは、嫉妬などではない。ただ、現状を正しく評価しているだけ。物珍しい取り組みが過大に持ち上げられている、その状況、自分は冷静に見抜いている。それだけのことだ。
自分の方が、当たり前に優れている。自分が同じことをすれば、あれよりも大きな成功になる。
その確信は、もはや揺らがなかった。穏やかでなかった心は、いつの間にか、大きな自信へと姿を変えていた。彼は、自分が嫉妬しているなどとは、微塵も思っていなかった。
***
心が決まれば、行動は決まる。
エリザベスにできたのだから、自分にできないはずがない。むしろ、と彼は思う。あの女が手にしていたのは、辺境の限られた資源にすぎない。それに引き換え、自分にはヴァルモント公爵家の財がある。活用できる広大な土地がある。侯爵家とは比べるべくもない。
ならば、答えは明らかだった。
自分も、話題になっているリゾート地を造ればいい。多くの貴族を招くことができるように、大規模で豪奢なものを。貴族である我々に見合ったものを。
考えれば考えるほど、それは妙案に思えた。アレクシスの頭の中で、構想は瞬く間にふくらんでいく。広大な土地を活用するため、贅を尽くした館を建てる。
豪華な浴場、見栄えのする庭園、王都の貴族をうならせる調度。資金を惜しまず、最上のものを揃えれば、貴族たちは自ずと集まるだろう。
成功は、規模に比例する。あの女が限られた財で人を呼べたのなら、その何倍もの財を投じる自分が、その何倍もの成功を収めるのは道理だった。
難しいことではない。立派な施設を作れば、人は集まる。
アレクシスの思考は、どんな施設を、どれほどの規模で建てるか、その一点を、軽やかに巡り続けた。土地の広さ、館の意匠、浴場の数。頭の中で、壮麗なリゾート地が次々と形を成していく。
その構想のどこにも、エリザベスが時間をかけて土地に根を張らせたもの——そこに暮らす人々との間に少しずつ築いた信頼、その地ならではの気風や持てなし、訪れた者をもう一度呼び戻す日々の細やかな手入れは、影も差さなかった。彼の中でリゾート地の成功とは、ただ立派な施設を構えることと、一つのものだった。
財を投じ、立派なものを建てれば、それで済む。
当主代理の権限を得た今こそ、自分の手で何かを成し遂げる時だ。これは、自分にこそふさわしい事業だった。あの女の模倣などではない。あの女が拙くやってのけたことを、自分が正しい姿で完成させるのだ。
あとは動くだけだった。
***
翌日から、事は滞りなく進んだ。
アレクシスは、領内で活用できていなかった一帯を事業地に定め、潤沢な予算を割り当てた。実務を取り仕切る担当者を任じ、家中へ正式に新事業の開始を告げた。当主代理の権限のもとで、すべてが淀みなく形になっていった。
大枠を定めてしまえば、あとは任せればよい、とアレクシスは考えた。
当主たる者が、いちいち細事に煩わされるべきではない。土地の差配も、職人の手配も、日々の工事の進み具合の確認も、それは下の者の仕事だ。自分は大局を見ていればいい。
彼は現場へ足を運ばず、ただ折々の報告を聞くにとどめた。それが、当主としての正しい身の処し方だと信じていた。
彼のもとへ届くのは、心地よい言葉ばかりだった。
「さすがアレクシス様。これほどの大事業を、即座にお決めになるとは」
「素晴らしいご判断にございます。公爵家の威信を、天下に示すものとなりましょう」
「必ずや、成功いたします」
居並ぶ家臣たちは、口々にそう称えた。誰一人として、土地の選び方を案じる者も、丸投げ先を危ぶむ者も、進め方に異を唱える者もいなかった。問いも、ためらいも、苦言も、ただの一つも、彼の耳には届かなかった。
返ってくるのは、称賛だけだった。
アレクシスは、その声を浴びながら、自分の判断は正しかったのだと、いよいよ確信を深めた。これだけの者が、声を揃えて成功を見込んでいる。ならば、間違いようがない。順調そのものではないか、と彼は思った。何ひとつ、つまずく気配はなかった。
あとは、評判さえ集めればいい。
そう考えたとき、アレクシスの脳裏にもう一人、力になってもらうべき相手が浮かんだ。
***
この事業を成功させるには、評判は欠かせない。
いかに立派なものを建てても、それが語られなければ貴族は来ない。社交界で評判を広めるなら、艶やかで、誰からも一目置かれる、そんな女性がいる。新たな婚約者のロザリンドだ。彼女ほど、その役目にふさわしい者はいなかった。
もっとも、とアレクシスの脳裏を、ふとした思いがかすめた。
近頃のロザリンドは、いささか贅沢が過ぎるように見える。仕立てさせる衣装も、ねだる宝飾も、月を追うごとに華美になっていく。気にかからないと言えば、嘘になった。
だが、すぐにその思いを脇へ寄せた。彼女を愛している。だからこそ、咎めるような言葉は、口にしたくなかった。それに、むしろ役割を与えればいい。事業の一翼を担ってもらえば、彼女の心も、より自分の方へ向くだろう。気がかりさえ、彼は前向きに丸め込んだ。
その夜、アレクシスはロザリンドを訪れ、新事業の構想を語って聞かせた。
「そういうわけだ。夜会で、この事業の話を皆に広めてほしい。お前ならば、うまくやってくれるだろう」
頼みを口にした、そのときだった。
ロザリンドの端正な顔に、ほんの一瞬、何かがよぎった。眉のあたりに、わずかな曇り。気の進まなさにも、煩わしさにも見える、淡い色。
だが、それは瞬きのうちに掻き消えた。次の刹那には、彼女は美しい笑みを浮かべていた。
「まあ、素敵なお話。アレクシス様のお役に立てるのでしたら、喜んで」
その声は、滑らかで、淀みがなかった。
アレクシスは、満ち足りた心地で頷いた。やはり、彼女は理想の婚約者だ。自分の求めるところを、すぐに察し、進んで応えてくれる。
先ほど一瞬だけ面に差した曇りのことなど、彼の視界には留まっていなかった。完璧な婚約者の、完璧な返事。彼の耳には、ただそう響いていた。
事業を立ち上げ、評判を広める手段も用意した。もはや、欠けるところはない。あとは、思い描いた通りに事が運ぶのを待つばかりだ。
あの女にできたのなら、自分にできないはずがない。
むしろ、辺境の女など、遠からず追い越してみせる。あの女がこつこつと積み上げたものを、自分は財と権限で、一息に超えてみせるのだ。
窓の外には、星をちりばめた夜空が広がっていた。アレクシスは、その彼方に、自らの輝かしい未来を思い描いた。誰もが羨む壮麗な新たなリゾート地の完成。それを成し遂げた、若き当主への賞賛。想像するのは、父を超え後世に名を残す自分の姿。
胸の内に、揺るぎない確信が満ちていた。
その確信の足元に、彼が見ようとしない——あるいは、見えていない綻びが、静かに口を開けつつあることを、アレクシスは、まだ何も気づいていなかった。




