第27話 癒やしがくれた答え ※ルシアン視点
湖を渡ってくる風が、頬を撫でていった。
ルシアンは、湖畔の木陰に置かれた椅子に腰かけ、ただ、目の前の景色を眺めていた。朝の光が、澄んだ水面に細かく散っている。岸辺の葦が、風が吹くたび穏やかに揺れ、どこか遠くで名も知らぬ鳥が鳴いていた。それきり、あたりは静かだった。
ただ、ひたすらに休む。
視察の覚え書きも、学ぶべき知識も、今は脇に置いている。ただ座り、息をして、風の音を聞いている。何もしない。それだけの時間が、こんなにもゆっくりと感じられるのは、いつ以来だろうか。
王都での日々は、いつも何かに追い立てられていたような気がする。幼い頃から勉強に励み、自信を失ってからは、これ以上の粗相のないように気を張って、波風を立てぬようにしていた。
息を潜めて過ごす日々の中で、自分が今、ちゃんと呼吸をしているのかさえ、よくわからなくなっていた。
けれど、ここでは違った。
張り詰めていた何かが、徐々にほどけていく。肩の奥に居座っていた強張りが、湖を渡る風に溶かされるように、いつの間にか緩んでいた。
気づけば、深く息を吸い込んでいる。胸の底まで、清らかな朝の空気が届く。身体が、芯から休まっていくのがわかった。
なるほど、これなのか。
昨日、エリザベスが口にした言葉が、ふいに蘇る。この土地が癒してくれた。あのとき、彼女の実感がこもったその一言を、頭では理解したつもりでいた。けれども、本当にわかってはいなかったのだろうと、今になって気づく。
言葉で聞くのと、身をもって知るのとは、まるで違う。
こうして自分が、この土地の静けさに身を浸して、初めて腑に落ちた。癒されるとは、こういうことだったのか。誰に急かされることもなく、何かを成し遂げる必要もなく、ただ在ることを許される。
そういう時間が、人の心と身体を、こんなにも穏やかにほどいていく。
水面に散る光を見つめながら、ルシアンの心は、いつしか凪いでいた。
長いあいだ、波立つことも、晴れることもなく、ただ重く沈んでいた胸の奥。そこに今、清らかな水が満ちていくようだった。
そうして心が緩んだとき、ルシアンの思いは自然と、遠い昔の方へと向かっていった。
***
心が休まると、見えてくるものがある。
張り詰めていたあいだは、思い出すことさえなかった。けれど、こうして凪いだ心で振り返ると、かつての自分の姿が、ふしぎなほど鮮やかに浮かんでくる。
まだ、前を向いていた頃の自分。王家の役に立ちたいと、ただそれだけを願っていた頃の自分が、ふいに胸に蘇る。
懐かしさが、胸を満たす。責めるのでも、嘆くのでもなく、ただ慈しむように、かつての自分を見つめている。あんなに真っ直ぐだった頃が、自分にもあったのだ。失っていたのは力ではなく、こういう穏やかな心持ちだったのかもしれない。
ルシアンはようやく、あの時の失敗から目を逸らすのをやめて、落ち着いた気持ちで見つめ直そうとしていた。
***
これまでは、思い出すだけで心が竦んだ。
あの躓きを振り返るたび、自分は間違えたのだという事実だけが、胸の底から重く立ちのぼってきた。だから、考えないようにしてきた。蓋をして、見ないふりをして、息を潜めて。けれど今は、なぜか、まっすぐに見つめることができた。
心が休まったからこそ、得られた冷静さなのだろう。
今でも、失敗だったとは思う。あの時、もっと良いやり方があったかもしれない。
その思いに、嘘はなかった。なかったことにするつもりも、大したことではなかったと言い繕うつもりもない。間違えたのは事実だ。その事実から、目を逸らしたくはなかった。
だが――と、ルシアンは、初めて、その先を考えた。
それは、立ち止まり続けなければならないほどの過ちだっただろうか。
王家のために働きたいと思っていた自分まで、否定する必要があったのだろうか。
失敗したのは、自分だ。それは認める。けれど、ひとつの躓きと、自分という人間の値打ちとは、本当は別のものだったのではないか。間違えたという出来事が、いつの間にか、自分には何の価値もないという思い込みへと、すり替わっていなかったか。
失敗と、自分の存在価値とは、別のものだったのだ。
そう思い至ったとき、長いあいだ自分を縛っていた何かが、ほんの少し緩んだ気がした。
動けば、また間違えるかもしれない。その怖さや不安が消え去ったわけではない。けれど、間違えることを恐れて、ただ立ちすくんでいるだけの日々を、これ以上続ける必要が、はたしてあるのだろうか。失敗を抱えたまま、それでも、もう一度前を向くことは、許されないことではないはずだ。
留まり続ける必要は、ないのかもしれない。
そう思えたとき、ルシアンは失っていた何かが、自分の中に、少しずつ戻ってくるのを感じた。
***
それは、急に湧き上がるものではなかった。
大声で叫びたくなるような高ぶりでも、何でもできるという万能感でもない。長く干上がっていた地面に、雨が染み込んでいくように。失っていた自信が、少しずつ、確かに戻ってこようとしていた。
完全に、元通りになったわけではない。
まだ、自分を信じきれない部分は、いくらでもある。けれど、前を向こうとする力が、確かに芽吹き始めている。それだけで今は十分だった。
ルシアンは、この土地を見渡した。
湖。木立。よく手入れされた小径。訪れた人々が、思い思いにくつろいでいる、穏やかな空間。傷ついて沈んでいた自分の心を、これほどまでに深く解きほぐしてくれた、この場所。
エリザベスが生み出したものは、本当に素晴らしい。
胸の奥から、その思いが湧いてきた。これはただの、景色の美しい土地ではない。疲れた人の心と身体を、芯から休ませ、立ち直る力を取り戻させる、そういう力を持った場所なのだ。現に、自分がそうだった。
重い足取りで訪れた自分が、今、こうして前を向こうとしている。それが何よりの証だった。
王都には、こういう場所がない。
ふと、そう思った。華やかな宴も、壮麗な建物も、王都には数えきれないほどある。けれど、人がただ心安らかに休み、傷を癒すための場所は、どこにもなかった。張り詰めたまま生きている人は、王都にこそ、大勢いるというのに。
こういう場所を、王国のあちこちに作っていきたい。
その思いが、はっきりと形を結んだ。
疲れた人々が、心から休める場所。傷ついた者が、もう一度立ち上がる力を取り戻せる場所。それを、この辺境だけでなく、王国の各地に。そうすれば、かつての自分のように沈んでいた誰かが、救われるかもしれない。
そして――それは、自分がするべきことではないのか。それが、王家に貢献できる方法なのではないか。
胸が高鳴った。
王家の発展に貢献する力など、自分にはない。そうやって諦めていた。何をしても害になるだけだと、身を引くことしかできなかった。けれど、違ったのかもしれない。王家のために何かしたいという、あの純粋な願いを、現実の道筋に変えられるのではないか。
自分にもまだ、できることがある。
願いと、手立てとが結びついた。沈んでいた頃には、決して見えなかった道が、目の前に、ほのかに開けていく。
自分にできることが、見つかった。
そう思えたとき、ルシアンの目は、もう一度、エリザベスの仕事の方へと向けられていた。今度は――学ぶ者の、目で。
***
客としてこの土地での過ごし方を体験させてもらったあと、ルシアンは視察を再開した。
今度は、義務としてではない。学ぶために。参考にするために。エリザベスがどのような思いでこの土地を作り上げ、どのように人を癒す仕組みを整えてきたのか。その一言一言を聞き逃すまいと、ルシアンはより真剣に耳を傾けた。
「この一帯は、訪れた方が好きに過ごせるよう、あえて何も決めずにおいてあります」
エリザベスが湖畔の小径を案内しながら、穏やかに説明する。
「人を休ませるには、まず、何もしなくていいと思える時間が要りますから」
なるほど、と、ルシアンは深くうなずいた。
昨日までは、ただ完成度に感心するだけだった。けれど今は、その一つひとつの工夫の裏に、人を癒すための思想が通っていることが、はっきりと理解できる。聞けば聞くほど、吸収するべきものが、いくらでもあった。
この話を、王都へ持ち帰りたい。そして、王家にも同じような場所を作れないかと、提案してみたい。
ここで学んだことを、いつか役立てられるように。一字一句を、心に刻んでおきたい。
ルシアンは、案内するエリザベスの横顔を、そっと見やった。
傷を負い、それでも立ち直り、傷ついた者を癒す場所を作り上げた人。そして、沈んでいた自分に、何ひとつ見返りを求めることなく、そっと手を差し伸べてくれた人。
そう思わずにはいられなかった。
この土地を訪れたことで、自分も立ち直れた。自分を導き、前を向くきっかけをくれたのは、ほかでもない、彼女だ。彼女がいなければ、自分は今も変わらず、重い足取りのまま、ただ義務を終えることだけを考えていただろう。
この恩は、いつか必ず返す。
ルシアンは、そう心に誓った。
彼女が何かを必要とするときが来たなら、そのときは、今度は自分が支える側に回りたい。この恩を返せるだけの自分に、なりたい。
けれど、それはひとまず先の話だ。
今は、目の前のことに、全力を注ごう。この土地のすべてを知り尽くし、持ち帰る。それが、前を向き始めた自分にできる、最初の一歩なのだから。
「次は、東屋の方をご覧になりますか」
エリザベスの声に、ルシアンは「ああ、ぜひ」と、迷いなく応じた。
その足取りは、ここへ来たときとは、もう違っていた。
湖の上を渡る風が、また一つ、頬を撫でていく。差し込む朝の光が、ルシアンの行く先を明るく照らしていた。




