第25話 辺境で芽生えたもの
湖から渡る風の中を、エリザベスはルシアンを案内して歩き出した。
粗相のないように。その緊張があった。今回は王家からの視察であり、迎える側として失礼があってはならない。ひとつひとつの言葉を選び、所作に気を配る。社交の場で身につけた感覚が、彼女の背筋を自然と伸ばさせていた。
案内を始めてすぐに、エリザベスはあることに気づいていた。
ルシアンには、権力者にありがちな尊大さがまるでなかった。
道々、彼女が土地のことを語ると、ルシアンは静かに耳を傾けた。先を急がせるでもなく、退屈そうにするでもない。ときおり頷き、丁寧に相槌を返してくる。その態度には、上の立場から物を見る者の高さが、少しも感じられなかった。
そういう振る舞いをしても許される立場。王家から遣わされた検分役。その一言で、こちらを値踏みすることもできる人だ。それなのに、彼はむしろ、案内する側のエリザベスに気を配ってくれているようにさえ見えた。
そんな彼にぜひ、この土地のいちばん美しい場所をご覧いただこう。
エリザベスは、湖を望む小高い場所へと、ルシアンを案内していった。
***
散策路を抜けて視界が開けた瞬間、ルシアンの足が止まった。
眼前に、湖が広がっていた。午後の光を受けた水面が、風にそよいで穏やかに輝いている。対岸には山並みが連なり、その稜線が空との境を柔らかく描いていた。湖畔には、季節の草花が彩りを添えている。
ルシアンは、しばらく何も言わなかった。ただ、その景色に見入っていた。
「……これは」
ようやく漏れたのは、感嘆とも吐息ともつかない、低い声だった。
「王都でも、これほどの景色は見たことがありません」
その言葉に、世辞の響きはなかった。心からそう思ったのだと、表情が物語っていた。眉が、ほんのわずかに上がっている。目は、湖の遠くまでを追っていた。
「歩いてきた庭の小道も、ありのままに見えて、そうではないのですね。通っていて、不思議と心地よかった」
「お気づきになりましたか」
エリザベスは、控えめに微笑んだ。
「あの散策路は、ウィルという庭師が手がけたものです。この土地にもともと生えていた草木を活かして、できるだけ手を加えたように見えないよう、整えてくれました」
「もとからあったものを、活かす」
ルシアンは、その言葉を確かめるように繰り返した。それから、背後の建物へと視線を移す。湖を望むその施設は、地元で採れた石と木で建てられ、まるで風景の一部のように佇んでいた。
「なるほど。あの建物も……景色を邪魔していませんね。むしろ、あそこに在ることで、景色が引き締まって見える」
「設計したのは、トーマスという技師です。どこに立っても、景色がちょうど額縁に収まるように、と。窓のひとつひとつまで、考え抜いてくれました」
ルシアンは、その建物をしばらく眺めていた。真剣な眼差しだった。見栄えだけを撫でるような視線ではない。何がどう作られているのか、その奥にあるものまで見ようとする、真摯な目だった。
「見事です」
彼は、静かにそう言った。エリザベスの作り上げたものを褒める言葉。
その一言が、エリザベスの胸に染みた。自分の手柄を誇る思いではない。トーマスやウィルの仕事が、こうして正当に見てもらえたことへの喜びだった。
「皆が力を貸してくれたからこそ、実現できたことです」
エリザベスは、そう答えた。それは謙遜ではなく事実だった。
***
湖を離れ、施設の中を案内しながら、エリザベスは、この土地で大切にしてきたことを、少しずつ言葉にしていった。
「ここは、ただ豪華なものを並べただけの場所にはしたくありませんでした」
歩きながら、彼女は穏やかに語る。
「この土地の自然を損なわず、訪れた方が心から休めるように。そして、ここで働く人々が、誇りを持って暮らしていけるように。その両方が叶う場所になればと、そう願って始めたことなのです」
大仰な理念を並べ立てるつもりはなかった。ただ、自分が感じて、信じてきたことを、飾らない言葉で伝える。それだけだった。
厨房の脇を通りかかると、料理人たちが立ち働く活気が伝わってきた。回廊では、客室を整える者たちが手際よく動いている。庭の方からは、草木の手入れをする領民の声が、朗らかに響いていた。
誰もが、生き生きと働いていた。
その姿に、ルシアンは目を留めた。立ち止まり、しばらくその様子を見ていた。
「あちらの方々は……皆、この土地の」
「ええ。多くは、もとからこの地に暮らす者たちです」
エリザベスは頷いた。
「かつては、王都へ出ていくしかないと思っていた者も少なくありませんでした。この辺境には先の見えない不安があり、現状のままでは、いずれ衰えていくしかなかった。だから、多くの若者がこの地を離れていったのです。けれど今は、こうしてここで働き、家族と共に暮らしています」
ルシアンは、しばらく言葉を探しているようだった。働く領民たちと、エリザベスの顔とを、交互に見ている。
「失礼ながら」
そう前置きして、彼は慎重に口を開いた。
「私は……正直に申せば、ここへ来るまで、辺境の土地というものを、どこか一括りにして考えていたように思います。活用するのが困難で、寂れてしまうのが当たり前の土地なのだと。けれど」
言葉を切り、彼はもう一度、働く人々の方へ目をやった。
「ここには、人の暮らしがある。それも、活気のある暮らしが。私が思っていたものとは、まるで違いました」
その声には、率直な戸惑いと、それを素直に認める誠実さがあった。自分の見方が誤っていたと、飾らずに口にする。立場を盾に、見栄を張ろうとはしない人だった。
「働く者の顔が、明るい。これは、命じられて出せるものではないでしょう」
ルシアンの言葉は、的を射ていた。表面の華やかさではなく、その奥にあるものに、彼は心を動かしている。
エリザベスは、その横顔を見ながら思った。この方は、上辺だけで頷く人ではない、と。
彼のような人物が視察に来てくれて、本当に良かった。
***
案内を続けるうちに、二人の間で交わされる言葉は、いつしか、視察のためだけの問答ではなくなっていた。
ルシアンの問いは、どれも真摯だった。どうしてこの方針を選んだのか。困難はなかったのか。領民とは、どのように信頼を築いたのか。ひとつひとつに、熱心な興味を感じた。その答えを知りたい、と。だからエリザベスも取り繕うことなく、自分の言葉で答えていった。
答えると、ルシアンはまた新たな問いを返してくる。それは、試すためのものではなく、純粋に知りたいという気持ちから生まれた問いだった。彼とのやりとりは、いつしか弾んでいった。
「あなたは、これだけのことを成し遂げられたのですね」
ふと、ルシアンがそう言った。その声には、世辞ではない、本心からの敬意がこもっていた。
「今まで変わることのできなかった土地を、貴族が集う場所に変える。言葉にすれば簡単ですが、どれほどのものが必要なのか……私には、想像することしかできません。だが、ここを歩けば、それが並大抵のことでなかったことは、よくわかります」
「……もったいないお言葉です」
エリザベスは、わずかに目を伏せた。立場ある相手から向けられた敬意。けれど、彼女の心に温かく残ったのは、その立場ゆえではなかった。
彼が、真っ直ぐに見てくれたから。
飾らず、真剣に、この土地と、ここで働く人々を観察し、その上で言葉をくれた。土地のことだけではない。彼の目にはエリザベス自身もまた、きちんと映っていた。だからこそ、その敬意が胸に届いた。
王子だから、ではなかった。
エリザベスは、自分の内に芽生えたものを、静かに認めた。この短い時間の交流の中で、彼女はルシアンに、確かに好感を抱いている。それは、相手が王族だからではない。誠実に向き合い、物事の本質を見ようとする、その人柄ゆえのものだった。
出会ったばかりの方に、これほど自然に話せるとは。
その心地よさが、彼女には少し意外だった。社交の場では、誰もが何かしらの計算を抱えて言葉を交わす。損得を秤にかけ、本心は表に出さない。
ルシアンとの会話には、そうした駆け引きがなかった。言葉が、まっすぐに通じていく。それが、とても安らかだった。
かつてエリザベスは、誠実さというものを、軽んじられたことがあった。約束も、向き合ってきた時間も、あっけなく踏みにじられた。あのときに失ったものの形を、今でも覚えている。だからこそ、裏表なく向き合ってくれる相手の前で、胸の奥が、そっと緩むのを感じた。
良い方だ。
素直に、そう思えた。もっと、こうして話したいと。
***
けれど。
心地よい会話のさなか、エリザベスはふと、あることに気づいた。
ルシアンの笑顔の端に、ときおり、別の色が過る。
それは、ほんの一瞬のことだった。彼が何かに感心し、表情を和らげる。その柔らかな笑みが消える間際、ふっと、影のようなものが差すのだ。受け答えの合間、言葉を選ぶときの沈黙にも、その気配は滲んだ。
彼は、疲れている。
最初は、旅の疲れだろうと思った。王都からこの辺境までは長い道のりだ。馬車に揺られ続ければ、誰しも疲れる。でも、彼の様子を見ているうちに、エリザベスは、それだけではない気がしてきた。
体の疲れではない。もっと内側の、心の奥に積もったような、そんな疲れのように見えた。
振り返ってみると、初めて顔を合わせたときにも似たものを感じていた。「王になることもない」と口にした、あの声の奥。穏やかな微笑みの裏に滲んだ、淡い翳り。あのとき掴みきれなかったものが、今、もう少しはっきりとした輪郭をもって、彼女の前に現れていた。
この方は、何かを抱えている。
それが何なのかは、わからなかった。ただの感傷かもしれない。立ち入ったことを推し量るのは、不躾だろう。それでも、人の機微を読むことに慣れた彼女の目には、ルシアンのまとう晴れない翳りが、はっきりと映っていた。
好感を抱いた相手だからこそ、その様子が気にかかった。
何か、声をかけるべきだろうか。
その思いが、エリザベスの心をよぎった。彼の疲れに気づいてしまった以上、ただ見過ごすのは、薄情のようにも思える。
何か、力になれることがあるのなら――。
けれど、すぐに別の考えがそれを押しとどめた。
出会ったばかりの王族に、私的なことへ立ち入っていいものだろうか。
今日、初めて言葉を交わしたばかりの相手。その心の奥に何があるのか、軽々しく問うていい間柄ではない。立場も、大きく違う。自分は侯爵令嬢で、相手は王族。たとえ気づかってのことであっても踏み込めば、それは不躾になりかねない。相手の領域を、土足で侵すことになる。
人の機微を読めるからこそ、気づいてしまった。そして、気づいてしまったからこそ、その先で迷う。声をかける優しさと、踏み込まない節度と。そのふたつの間で、エリザベスの心は揺れた。
……今は、聞かずにおこう。
迷った末に、彼女はそう決めた。
今、踏み込むべきではない。それは、関心がないからではない。むしろ逆だった。この方を、ひとりの人として尊重するからこそ、無遠慮に立ち入ることを、したくはなかった。
いつか、もし。もっと言葉を重ね、信頼が育ったそのときに。彼の方から話してくれることがあるのなら、そのとき、はじめて。
彼に対する好感と、小さな気がかり。そのふたつを胸に抱えたまま、エリザベスは隣を歩く王子へ、何事もなかったように微笑んだ。
「では、次は、向こうの庭をご覧いただきましょう」
「ええ、ぜひ」
ルシアンが、穏やかに応じる。その笑顔が、また、ふっと遠くなった気がした。
気づいてしまったものを、口には出さずにそっとしまって。エリザベスは、湖から渡る風の中を、王子と並んで歩き続けた。




