第22話 広がる輪
エリザベス・ローズフェルは、執務机の上に積まれた封書を、一通ずつ確かめていた。差出人の名は、どれも見覚えのあるものばかり。その中に、少し見慣れない名前も混じっている。
セレスティアからの紹介状が一通。彼女からの紹介でこちらを訪れたいという、伯爵夫人への取り次ぎだった。リネットからは、親しい子爵家の姉妹を、ぜひと書いた便りが届いている。アドリアンの口添えで、武門の家の当主が静養を望んでいるという話も来ていた。
そして、ローズフェル侯爵家の当主である父からの手紙。
几帳面な筆跡は、相変わらず簡潔だった。さる伯爵家のご当主が興味を持っているから、もしよければこの方をもてなしてやってほしい、という内容。
見知らぬ家からの問い合わせも、日に日に増えていた。縁のある家から、名も知らぬ家まで、滞在を望む便りが次々と届く。王都で噂が広がっているのだと、エリザベスは実感した。セレスティアたちのおかげだろう。
ただ、この土地で受け入れられる数には限りがある。
湖を見渡すあの土地は、決して広くはない。一度に迎えられる客は、せいぜい数組。宿に泊まれる人数にも限りがあり、希望はその器をとうに超えて、順番待ちが生まれていた。
エリザベスは、予定を組み立てた。どの方々をいつお迎えするか、滞在の時期が重ならぬよう確かめながら、一組ずつ丁寧に振り分けていく。慌ただしさはあったが、浮ついた気持ちにはならなかった。
一組、また一組と、貴族が訪れる。そのたびに、湖畔の景色に目を細め、心からくつろいで帰っていく。その姿を見送ることが、何より嬉しかった。
けれど。順番待ちの名簿を眺めながら、エリザベスはふと、あることに気づいた。
これだけの人々が、王都からこの辺境へ行き来するということ。その道のりの途中で、何かが起きているのではないか。
***
その予感はほどなくして、一通の問い合わせという形になった。
差出人は、ヴェルニエ伯爵。王都とこの辺境を結ぶ街道の、ちょうど中ほどに領地を構える家だった。ローズフェル侯爵家とは、これまで深い縁のなかった相手である。
文面は、咎める調子ではなかった。戸惑いがにじんでいた。
――最近、領内を通る馬車の往来が、目に見えて増えている。貴族の馬車もあれば、商人の荷馬車もある。どうやら、そちらの取り組みが関係しているようだが。
エリザベスは、手紙をしばらく見つめていた。
言われてみれば、当然のことだった。王都からこの地までは遠く、その道はいくつもの他領を通り抜けていく。客を乗せた馬車、商人の荷馬車、品を届ける納品の車も連なる。この土地に向かう流れが増えれば、その途上にある領地もまた、その影響を受ける。
なのに、自分はそこへ思いが及んでいなかった。
配慮が足りなかった。
胸の内で、率直にそう認めた。自分の手がけたことが、知らぬ間に、縁もない他領にまで影響していた。その方々に、事前の説明も、お断りもできていないまま。
うろたえはしなかった。けれど、これは捨て置いてよいことではないと思った。
手紙で済ませることもできただろう。代理人を立て、事情を書き連ねて謝罪の言葉を送れば、形のうえでは事足りる。
だが、それは違う。
影響を及ぼしておきながら、紙の上の言葉だけで詫びるのは、筋が通らない。自分の口で説明し、頭を下げるべきだ。相手が戸惑っているのなら、なおのこと。
動き出す前に、一つだけすべきことがあった。
エリザベスは、父へ宛てて筆を執った。ローズフェル侯爵家の当主である父に、街道の往来が増えていること、その影響がヴェルニエ家をはじめ近隣の領地にまで及んでいること、そして自分がどう収めるつもりかを、包み隠さず書き記した。
許しを請う手紙ではなかった。相談でもなかった。これは、自分が蒔いた種だ。ならば、刈り取るのも自分の役目だろう。当主には事の次第を伝えておく。けれど、後始末は自らの足で運ぶ。決めたことを報せるための手紙だった。
エリザベスは、すぐに支度を整えた。
久しぶりに、王都へ発つ馬車に乗り込む。行き先は、ヴェルニエ伯爵の屋敷。代理人ではなく、自分自身で誠意を尽くすために。
道中、同行してくれたバルタザールに事情を打ち明け、どう向き合うべきか、相談を重ねた。
***
通された応接の間で向かい合うと、伯爵は警戒を隠さぬ面持ちでエリザベスを見ていた。侯爵令嬢が自ら出向いてきたことに、いくらか面食らっているようでもあった。
エリザベスは椅子に腰を下ろすより先に、深く頭を下げた。
「ご説明が遅くなり、申し訳ございませんでした」
伯爵が、わずかに息を呑む気配がした。
「貴家の領内を通る馬車が増えておりますのは、私が辺境で始めたことに、原因がございます。事前に一言お伝えするべきところを、配慮が至りませんでした。まずは、そのお詫びを」
顔を上げると、伯爵の眉が、戸惑うように動いていた。咎めるつもりで呼んだ相手が、先に頭を下げてきたのだ。その意外さが、表情にそのまま出ていた。
「……いや。詫びていただくほどのことでは。お若いあなたに頭を下げさせて、こちらこそ申し訳ない。どうぞ、座ってください」
伯爵は言葉を濁し、それから、ともかく頭を上げて座るようにと手で示した。
エリザベスは腰を下ろし、辺境で手がけたことを、隠さず話した。
湖を見渡すあの土地に、訪れた人が心身を休めるための場所を整えたこと。その評判が王都に広がり、貴族たちが足を運ぶようになったこと。そして、これからしばらく、その往来はおそらく、さらに増えていくであろうこと。
伯爵は、黙って耳を傾けていた。話が進むにつれて、その面持ちから硬さが少しずつ抜けていくのが分かった。
「事情は理解しました」
伯爵は、ゆっくりと頷いた。
「その噂は、私の耳にも届いておりました。辺境に、人を惹きつける土地があると。それが、あなたのなさっていたことだったのですね」
エリザベスはもう一つ、伝えるべきことがあると思っていた。
「ご迷惑をおかけしている以上、せめてもの誠意として」
彼女は、リゾートに寄せられた心付けの一部を、ヴェルニエ家に納めたい旨を申し出た。往来の増えた分、街道の整備にも入り用があろう。その足しにしていただきたい、と。
伯爵の目が、はっきりと見開かれた。
「……それは、あなたの得た成果でしょう。それを、わざわざ手放すのですか」
その声には、純粋な驚きがあった。問いというより、信じがたいものを見たような響きだった。
「独り占めしようとは、思われないのですか」
エリザベスは、静かに微笑んだ。
「独り占めできるものなど、はじめからございません。あの土地が栄えるのは、あの土地だけの力ではないのです。多くの人々が関わって、ようやく形になったものです。そして、これは伯爵さまの領地あってのこと。この道を通していただけなければ、叶わなかったのですから」
そして、彼女は身を乗り出して、もう一つの話を切り出した。
「むしろ、伯爵さま。これから馬車の往来は、まだ増えてまいりましょう。でしたら――この街道の途中にあたる貴家の領地に、休憩のための施設や、宿を建ててみてはいかがでしょう」
伯爵が、エリザベスの口にした提案に目を瞬かせた。
「旅の途中で、人は必ず一息つきます。馬を休め、食事をとり、夜には体を横たえる。その場所が貴家の領内にあれば、増えた往来は、そのまま実りに変わります。きっと、この地を潤すはずです」
応接の間に、しばしの沈黙が落ちた。
ヴェルニエ伯爵は、エリザベスの顔をまじまじと見つめていた。詫びを述べ、利を分かち、そのうえ、自領の儲けになる道筋まで示す令嬢を、どう受け止めればよいのか、測りかねているようだった。
やがて、伯爵がためらいがちに尋ねた。
「あなたは……いったい、何をなさりたいのですか」
エリザベスは、多くを語らなかった。儲けのためではないこと、人が心から休める場所をこの地に増やしたいのだということを、それだけを誠心誠意伝えた。幾度となく胸の内で確かめてきた願いだったから、止まることなく言葉にできた。
伯爵は、興味を引かれた様子で耳を傾けていた。やがて、その口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「……わかりました。私たちも、協力させていただきます」
警戒の色は、もうそこには残っていなかった。
***
会談は、和やかなうちに終わりへ向かっていた。
名残を惜しむように茶を酌み交わし、互いの領地の話に花が咲いた頃、ヴェルニエ伯爵が、ふと言いよどんだ。
彼は、それまでの当主然とした態度を少し崩し、どこか照れたように、視線を泳がせた。
「……ローズフェル殿。一つ、私事を申し上げても」
「はい、どうぞ」
「実は……妻や、娘も。その、どうやらあなたの辺境の地に、ずいぶん興味を持っているようでして」
伯爵は、ばつが悪そうに頬をかいた。
「王都で噂を聞いてからというもの、一度行ってみたいと、たびたび申すのです」
公務の硬い話のあとに、ふいに差し出された家族の話。その人間味に、エリザベスは笑みをこぼした。そして、彼が何を求めているのか、すぐに察した。
「それでしたら、ぜひ。招待させてください」
彼女は、迷いなくそう告げた。
「奥さまも、お嬢さまも、お揃いで。湖の景色を、ゆっくりと楽しんでいただけたら、これほど嬉しいことはございません」
伯爵の顔が、ほっとしたように緩んだ。
「それは……喜びましょう。ありがとうございます」
その声には、初めの硬さは、もうなかった。一つの取引を超えて、人と人の交わりが、確かにそこに芽生えていた。
***
エリザベスが面会したのは、ヴェルニエ伯爵家だけではなかった。
王都とこの辺境を結ぶ街道沿いには、ほかにも往来の波を受けている領地がいくつもあった。エリザベスは、その一つひとつを自ら訪ね歩いた。
することは、どこでも変わらない。事情の説明が遅れたことを詫び、心付けの一部を誠意として納める。そして、増えていく往来を、その地の実りに変える道筋を示す。旅人が馬を休め、腹を満たし、夜を越せる場所を、街道沿いに設けてはどうかと。
消極的だった当主たちも、彼女が頭を下げ、利を分かち、共に栄える道を説くうちに、一人、また一人と顔つきを変えていった。賛同する者、その場で構想を語り出す者、家族を辺境に招いてほしいと願い出る者。応じ方はさまざまだったが、エリザベスの取り組みに協力を断る家はなかった。
こうして、街道沿いの領地は、少しずつ手を結んでいった。エリザベスの始めたことは、もはや一つの領地だけの話ではなくなっていた。
***
王都を発ち、辺境への道を戻りながら、エリザベスは車窓の外を眺めていた。
街道には、いくつもの馬車が行き交っていた。客を乗せた車も、荷を積んだ商人の馬車も、絶え間なく続いている。その流れは、ヴェルニエ伯爵の領地を通り、その先の領地を通り、辺境のあの土地へと延びていく。
やがてこの道沿いに、休憩の宿が建つだろう。旅人がそこで一息つき、その地もまた潤っていく。伯爵の領地で、人々が新しい仕事を得て、暮らしを立てていく。
かつて、何もない、貧しいだけの土地だと思っていた辺境。若者が次々と王都へ去り、現金の乏しさに沈んでいた、あの遠い地。
それが今、自領の枠を抜け出し、周辺の領地までも巻き込んで、一つの大きな流れを生もうとしている。
始まりは、ただ一つの景色を守りたいという、ささやかな願いだった。
その願いから生まれたものが、今、ひとつの領地の境を越えて、より広い世界へと根を伸ばし始めている。馬車が行き交い、人と人が手を結び、心から休める場所が、少しずつ増えていく。
エリザベスの描いた夢は、ひとつの領地を越えて、広がり始めていた。




