第20話 未来の公爵夫人 ※ロザリンド視点
ヴァルモント公爵が床に伏したという報せを聞いたとき、ロザリンドの胸に広がったのは、喜びだった。
公爵が倒れた今、嫡子であるアレクシスが当主代理として家の実権を握る。
ついに、この時が来た。
自分が捕まえた男が、早くも公爵家の実権を手にしたのだ。自尊心が高く、満たされぬ不満を抱えていた男。その不満を、ロザリンドは一つひとつ丁寧に拾い上げて、肯定し、称賛してきた。
あなたのお考えは素晴らしい。あなたこそ真の貴族。あなただけが分かっている。そう囁き続けるうちに、アレクシスはすっかり自分なしではいられなくなった。
彼は、私を味方だと信じている。利用できるうちは、その思い込みこそ好都合だった。
ロザリンドは、ほのかに口元を緩めた。
話は、とても単純だ。実権を握った彼の隣に立つのは、当然、彼の信頼を得ている自分。未来の公爵夫人。その座は、もう私のものだ。約束されたも同然。いいえ、約束など必要ない。それは、もはや確定した事実なのだから。
長年の渇望が、ついに現実になる。この美貌に見合う、最高の地位が。公爵夫人。その響きを、ロザリンドは舌の上で何度も転がした。甘く、芳しく、自分の喉によく馴染む響きだった。
ロザリンドは、ゆったりと椅子の背にもたれた。
目的は遂げられた。あとは、その果実を味わうだけ。手を伸ばせば届くところに、熟れた実がぶら下がっている。それを、心ゆくまで堪能すればいい。
ようやく、ふさわしい高みにいる。
その充足が、ロザリンドの全身を満たしていった。
***
未来の公爵夫人。
その自覚は、ロザリンドの振る舞いを、日に日に変えていった。
これまで、彼女は優雅で控えめな令嬢を演じてきた。淑やかに微笑み、誰にでも柔らかく接して、決して角を立てない。それは、人の心に入り込むための、丁寧に磨き上げた仮面だった。
だが、もう、そんな面倒なものは要らない。
いずれ公爵夫人になる身なのだから、もう偉ぶったところで、誰に咎められよう。むしろ、それが相応しいのだ。高い地位には、高い地位なりの振る舞いというものがある。下々の者にまで愛想を振りまくなど、かえって威厳を損なうというもの。
ロザリンドは、遠慮をしなくなった。
ヴァルモント公爵家の富を、ロザリンドも惜しみなく使った。アレクシスに求めさえすれば、何であれ叶えられた。
彼女が望めば、王都でも指折りの仕立て屋が、極上の絹を幾反も運んでくる。深い紅の、光の角度で艶を変えるドレス。胸元と裾には、繊細な金糸の刺繍が幾重にもほどこされ、動くたびに小さな光が躍る。袖を通せば、まるで自分のために生まれてきた一着のように、身体に馴染んだ。
宝石も、思うがままだった。
首元を飾る、大粒の紅玉。耳に揺れる雫形の金剛石。指には、深く澄んだ青の宝石をいくつも連ねた。鏡の前に立てば、燭台の光を浴びて、全身が無数の星を散りばめたように煌めく。これでこそ、自分の美貌が真に映える。美しい器には、美しい飾りが要るのだ。
茶会には、選び抜いた品ばかりを並べさせた。自らの権勢を、誰の目にも明らかに示すために。
異国から取り寄せた茶葉。砂糖をふんだんに使った焼き菓子。銀の器に盛られた、季節の果実。卓の上には、贅を尽くしたもてなしが、当たり前のように広がっていた。他の令嬢には、とても真似のできない贅沢だった。
これらの富が、いつまでも自分のものになる。
ロザリンドは、そう信じて疑わなかった。今はまだ公爵夫人ではないにせよ、来るべき暮らしを少しばかり先取りしているに過ぎない。ためらう理由も、遠慮する道理も、どこにもなかった。
惜しみなくヴァルモント家の資産を使い、贅を尽くす。浪費することこそ自分の権利なのだと、当然のように貪る。
それを諫める声は、どこからも上がらなかった。屋敷の者たちは、ただ黙って、彼女の求めるものを運んでくるばかりだった。当主代理であるアレクシスから、ロザリンドの好きにさせよと命じられていたからだ。誰一人として、その浪費を咎める者はいない。ロザリンドは、それを当然のことと受け止めていた。自分は、未来の公爵夫人なのだから。
ようやく、美貌に見合う暮らしを手に入れた。
絹のドレスに身を包み、宝石を煌めかせ、贅沢な茶を口に運びながら、ロザリンドは深い満足に浸っていた。これこそ、自分が生まれながらに与えられるべきだった暮らし。遅すぎたくらいだ。だが、もう何も急ぐことはない。これからは心ゆくまで、この豊かさを味わえばいい。
茶器を傾けながら、ロザリンドは、ふと、一人の令嬢のことを思い出した。
ここに至るまでに、舞台から退場していった、あの女のことを。
***
エリザベス・ローズフェル。
その名を思い起こすと、ロザリンドの唇が、ひとりでに緩んだ。
かつて、アレクシスの婚約者だった女。侯爵令嬢という、自分より高い家柄を持ちながら、結局のところ、何も為せずに消えていった女。
ロザリンドの記憶の中のエリザベスは、ひどく退屈な女だった。
いつも如才なく、だれかれ構わず愛想を振りまいて、何を考えているのかも分からない。ただ礼儀正しいだけの、中身のない女。あれが、公爵家の嫡子の婚約者だというのだから、笑ってしまう。きっと、家柄だけで運よく結ばれた縁だったのだろう。その縁を、私が横から攫っただけのこと。
あの夜会のことを思い出すと、なおさらだった。
大勢の貴族が見守る中、アレクシスがエリザベスに婚約破棄を告げた、あの夜。
彼の隣には、堂々と、私が立っていた。
「皆様の前で、堂々とお告げになるべきです」――そう囁いて、彼をあの場へと導いたのは、ほかならぬ自分だった。会心の一手だった。公衆の面前で告げてしまえば、もはや覆しようがない。
あの場面で、エリザベスはどうしたか。
ろくに抗いもしなかった。涙を流すでも、すがりつくでもなく、ただ承知し、一礼して、その場を去っていった。ロザリンドの目には、それは、ただの諦めとしか映らなかった。気の利いた反論の一つもできず、惨めに退場するしかなかった、哀れな女。
あれを、品位だなどと擁護する者もいるかもしれない。でも、結果はこうなった。彼女は王都から去り、彼の隣に私が立っている。要するに、彼女は負けた。戦う術を持たなかっただけのこと。
逃げたのだ、とロザリンドは思っていた。傷ついた自尊心を抱えて、人目につかぬ辺境へと。そんな女が、公爵家にいたところで、邪魔になるだけだった。いてもいなくても同じこと。いや、いない方が、よほど都合がいい。
エリザベスがいなくなって、本当に良かった。
ロザリンドは、心の底からそう思った。
それは、嫉妬の裏返しなどではなかった。負け惜しみでも、強がりでもない。純粋な、勝利の確信だった。邪魔者が消えたからこそ、自分が公爵夫人の座に就ける。あの女が舞台から降りたからこそ、すべてが思い通りに運んだ。
美貌でも、これから手にする地位でも、これからの幸福でも、自分はあの女に勝ったのだ。
今ごろ、エリザベスはどうしているだろう。
ロザリンドは、首を傾げて、想像してみた。
辺境に逃げたらしいけれど。きっとその片隅で、惨めに暮らしているのでしょうね。
華やかな社交界からも、贅沢な暮らしからも遠く離れ、寂れた土地で、ひっそりと、後悔に沈んでいるに違いない。婚約相手を奪われ、王都を離れて、誰にも顧みられぬまま、くすんでいく日々。それが、戦うことを知らなかった女の、当然の末路というものだ。自分だったら、絶対に耐えられない。
ロザリンドは、その想像に優越感を覚えた。
もう、あの女のことを、気にかける価値すらない。エリザベス・ローズフェルは、自分の人生から、完全に退場した。終わった女。記憶の隅に追いやって、それきり忘れてしまえばいい存在。
そう片付けてしまうと、エリザベスの面影は、ロザリンドの中から、するりと消えていった。
再び、彼女の意識は、自分の輝かしい現在へと戻っていく。
絹のドレス。煌めく宝石。贅沢な茶。約束された、公爵夫人の座。
ロザリンドは、満ち足りていた。
***
すべてが、自分の思い通りだった。
高価な茶器を置き、ロザリンドは、窓の外に広がる王都の街並みを、満足げに眺めていた。豊かさも、地位も、未来も、何もかもが手の内にある。これほどの安らぎを、これまで味わったことがあっただろうか。もう、何も恐れるものはない。何も、企てる必要もない。あとは、この幸福を死ぬまで享受していくだけ。
ロザリンドは、誰にともなく口の端で笑った。
彼女は、自分の世界に閉じこもっていた。
――そして、その同じ頃。王都では、辺境の噂が広がり始めていた。
けれど、自分のことだけに夢中になっているロザリンドが、その噂に気づくのは、ずっと先のことだった。




