第19話 静かになった屋敷 ※アレクシス視点
ヴァルモント公爵家の屋敷は、アレクシスの意のままに動いていた。
朝、彼が食堂へ下りれば、すべては整えられている。彼の好む茶が、好む温度で差し出される。
彼が一言、書斎の暖炉を強くせよと命じれば、使用人たちは弾かれたように動き出す。
父が床に伏してからというもの、この屋敷の中心は、紛れもなく自分だった。命じる声があり、従う者がいる。それだけのことが、これほど心地よいものだとは知らなかった。
当主代理。その響きを、アレクシスは胸の奥で何度も転がした。父の代わりではない。ようやく、自分がこの家の真の姿を引き出す番が来たのだ。
彼が変わると、屋敷もまた変わっていった。
彼に近しい側近たちが、いつの間にか、以前より強気に振る舞うようになっていた。アレクシスの名を背に負えば、誰も逆らえない。そのことを彼らはすぐに学んだ。
ある朝、年若い側仕えの一人が、廊下で給仕の娘を呼び止めているのを、アレクシスは遠目に見た。茶の支度が遅いと、低く、しかし容赦のない声で叱責している。娘はうつむき、肩を縮めて、ただ詫びの言葉を重ねるばかりだった。
出入りの商人に対しても、同じだった。屋敷の差配を任された者たちは、納品の品をろくに検めもせず、横柄な口調で値を切り、待たせ、追い返す。商人たちは愛想笑いを貼りつかせたまま、何も言い返さずに去っていく。
アレクシスは、それを咎めなかった。
むしろ、満ち足りた思いで眺めていた。これでいい。公爵家とは、本来そうあるべきなのだ。父の代の、誰にでも穏やかに接する遠慮がちなやり方では、家の威厳など保てはしない。下の者には下の者の分というものがある。それを弁えさせてこそ、秩序が生まれる。
屋敷の空気が、日に日に張り詰めていくのを、彼は感じていた。
使用人たちは、彼の前を通るとき、決まって視線を伏せる。声をかければ、過剰なほど畏まって応じる。談笑の声は廊下から消え、足音さえ忍ばせるようになった。
***
アレクシスの祖父の代からヴァルモント家に仕えてきた老臣のゴドフリートが、面会を求めてきたのは、よく晴れた昼下がりのことだった。
父が床に伏してからというもの、ゴドフリートは側に付き添い、屋敷の表向きのことには、ほとんど口を挟まずにいた。アレクシスにとっては、ずっと父の影に寄り添う、古い置物のような存在だった。
その老臣が、自ら書斎の扉を叩いたのだ。
「アレクシス様。差し出がましいことと承知の上で、申し上げたき儀がございます」
ゴドフリートは、深く腰を折った。その所作には、長年の奉公で染みついた、揺るぎない礼があった。
「申してみよ」
アレクシスは、書類から目を上げずに応じた。
「近頃の、屋敷の様子にございます」
老臣の声は、静かだった。荒げるでもなく、媚びるでもない。ただ、一語一語に、年月の重みが沈んでいた。
「お側に仕える者たちの振る舞いが、目に余ります。使用人を頭ごなしに叱りつけ、出入りの者にも礼を欠いておりまする。あれは、ヴァルモント家の名を笠に着た横暴にございます。どうか、お正しくださいませ」
アレクシスは、わずかに眉を寄せた。
「そして、僭越ながら――当主代理であられるアレクシス様ご自身にも、いま一度、品位あるお振る舞いをお願い申し上げたく存じます」
「……続けよ」
「大旦那様は、まだご存命にございます」
老臣は、顔を上げた。その目に、媚びの色は微塵もなかった。
「そして、いまだ危ういご容体であられます。その最中に、家の中がこのように荒れていては、回復されたとき、何と思し召されましょうや。それに、社交界での当家の見え方も、決して良いとは申せませぬ。むしろ、芳しからぬ風向きにございます」
アレクシスは、ペンを置いた。
「ゴドフリート。つまり、何が言いたい」
「申し上げます」
ゴドフリートは、一歩も退かなかった。
「いまは、何もなさいませぬよう。大きな事は、何一つ。ただ、静かに、大人しくお構えくださいませ。それが、家のため、そして何より、アレクシス様ご自身のためにございます」
「……」
書斎に、沈黙が落ちた。
窓の外で、庭木の葉が風に鳴っている。アレクシスは、老臣の言葉を一つひとつ、頭の中で反芻した。
はじめのうちは、聞き流すつもりだった。年寄りの小言などは、いつものことだ。父に長く仕えた者は、決まってこういう口を利く。慎重に、慎ましく、目立たぬように。古い、臆病な処世術。
だが。
「大人しく」という、その一語が、アレクシスの中で、抑えがたい不快に変わっていった。
***
大人しくしていろ、だと。
アレクシスの内側で、冷たいものが、ゆっくりと頭をもたげた。
この男は、何を言っている。いったい、誰に向かって。
「ゴドフリート」
彼は、椅子の背に身をあずけ、老臣を見据えた。声は、荒げなかった。荒げる必要などなかった。
「お前は、何か思い違いをしているようだ」
「と、おっしゃいますと」
「私は、正式に爵位を引き継ぐ身だ。もう、このヴァルモント公爵家の代表は、この私だ。父ではない」
ゴドフリートの表情が、かすかに動いた。だが、アレクシスはそれを意に介さなかった。
「お前たちは、長いあいだ父に仕えてきた。それは認めよう。だがな、その父を第一に考えてきた者たちが、いまになって、新しい当主である私に、ああしろ、こうするなと口を出してくる。大人しくしていろ、などと」
彼は、一語ずつ、区切るように言った。
「それが、私には許せない」
声を荒げないからこそ、その確信は、凍りつくように据わっていた。
この老臣は、結局のところ、父の犬なのだ。アレクシスは、そう断じた。今もなお、父の影を引きずり、その回復だの容体だのを盾にして、新しい当主の足を引っ張ろうとしている。大人しくしていろという言葉は、忠言の皮を被った妨害に過ぎない。自分の力が削がれることを、この男は恐れているのだ。
忠誠だと。笑わせる。
真の忠誠とは、当主に従うことだ。それ以外にない。今この家の当主は自分であり、その自分に向かって「何もするな」と言う者を、どうして忠臣と呼べよう。父に未練を残し、新しい時代を認めようとしない――それは、忠誠ではなく、ただの反抗だ。
「アレクシス様」
ゴドフリートが、なお口を開きかけた。
「私は、何も、お力を削ごうなどとは――」
「もうよい」
アレクシスは、片手を上げて、それを遮った。
「お前の言いたいことは分かった。十分にな」
老臣は、それ以上、言葉を継がなかった。ただ、じっとアレクシスを見つめている。その視線の意味を、アレクシスは読み取ろうともしなかった。
父の時代は終わったのだ。古いやり方に固執し、慎重を装って何もしない者たちは、もはや、この家には要らない。当主に従うか、従わぬか。線引きは、それひとつで足りる。
自分は、家を刷新しているだけだ。正当な権限のもとに。
その思いが、彼の中で、冷たく、揺るぎなく固まっていった。
***
数日のうちに、アレクシスは決断を下した。
ゴドフリートを、家令の職から退かせた。
屋敷の中枢から遠ざけ、領地の片隅にある古い館の、名ばかりの管理役へと移したのだ。実権は何もない。報告を受ける立場からも、差配する立場からも、その老臣は外された。
それは、報復ではない。当然の処置だ。当主に従わぬ古い人間を整理し、家を然るべき姿に整えるための、正当な人事に過ぎない。
ゴドフリートと同じく、口うるさく諫言を重ねてきた数人の古参も、同様に役職から退けた。アレクシスの指示で、父の代から仕えてきた者たちが、屋敷の表から、姿を消していった。
ゴドフリートは、反抗しなかった。
退任を告げられたとき、老臣はただ深く一礼し、長年勤めた書斎を、静かに辞しただけだった。その背中に、抗議も、嘆願も、未練もなかった。何かを言いたげに一度だけ振り返り、しかし結局、口を閉ざしたまま、彼は去っていった。最後の潔さは認めよう。
「ご英断にございます、アレクシス様」
彼に取り入った側仕えの一人が、揉み手をせんばかりに言った。
「あの老人は、いつまでも昔のやり方に拘って、当主様のご威光を損なうばかりでした。これで、当家はいよいよ良くなりましょう」
「そうだろうな」
アレクシスは、満足げに頷いた。
残った者たちは、皆、彼を持ち上げ、彼の意に沿う言葉だけを口にする。耳障りな諫言は、もうどこからも聞こえてこない。あれこれと小うるさく口を出す者は、一人もいなくなった。
これでよい、と彼は思った。真の忠臣だけが、残ったのだ。
夜、その日の務めを終えたアレクシスは、ひとつ息を吐いた。胸の内に、これまでにない満ち足りた思いが広がっていた。
邪魔者がいなくなった。
これで、自分の時代を進めていける。誰の指図も受けず、誰に足を引っ張られることもなく。真の公爵家の姿を、この手で築き上げるのだ。
静かになった屋敷が、彼の確信を、そっと包んでいた。
***
それからの屋敷は、とても静かだった。
諫める声は消え、ただ、彼を称える声だけが残った。アレクシスは、その静けさを心から好ましく思った。
だが、その静けさの底で、これまで滞りなく回っていたものが、少しずつ、軋み始めていた。
領地から上がってくる書類の処理が、いつの頃からか遅れるようになった。以前なら、当主が目を通す頃にはすべて整理され、要点がまとめられていたものが、今は雑然と積み上がったまま、判断を待っている。どれを優先すべきかも、どこに綻びがあるかも、誰も的確には示してくれない。
「これは、どういうことだ」
ある朝、未決の書類の山を前に、アレクシスは眉をひそめた。
「申し訳ございません。今は代替わりで何かと立て込んでおり、手の足りぬところがございまして……ですが、ご案じなさいますな。すべて、順調に運んでおりますゆえ」
残った側仕えは、慌てたように頭を下げ、それでも最後には、必ずそう付け加えた。順調です、と。
アレクシスは、それ以上は問わなかった。
些細なことだ、と彼は思った。役職が変わったばかりなのだから、慣れぬうちは多少の滞りもあろう。じきに、皆も新しい体制に慣れるだろう。順調だと言っているのだから、順調なのだ。
ここで声を荒らげても仕方あるまい。寛容に構えてこそ、当主の器というものだ。怒るべき時は、自分で見極めればいい。
領地の代官からの問い合わせに返答が間に合わず、出入りの商家との取り決めに行き違いが生じ、いくつかの判断が、宙に浮いたまま放置された。だが、そうした綻びの一つひとつが、彼のもとへ「問題」として届けられることは、もはやなかった。
残った者たちは、彼を持ち上げることには長けていたが、家政を回し、領地を差配する力を、誰も持ち合わせてはいなかった。何かが滞っても、誰一人それを問題として指摘せず、ただ「順調です」と繰り返すばかりだった。アレクシスの耳には、心地よい言葉しか、もう届かなくなっていた。
彼は、それに気づかなかった。
書斎の窓辺に立ち、屋敷を見渡しながら、アレクシスは満足の息を吐いた。耳障りな声は、すべて消えた。残ったのは、自分を称える声と、整然とした静けさだけ。
自分の判断は、正しかったのだと、信じ切っていた。
彼は、確信を深めていた。何もかもが、うまくいく。
静かになった屋敷の、どこか奥のほうで、小さな何かが軋む音がした。
その音は、満ち足りたアレクシスの耳には、ついぞ届くことがなかった。




