第18話 自分の時代 ※アレクシス視点
その知らせは、夕刻の静けさを破って届いた。
書斎で書状に目を通していたアレクシスのもとへ、家令が血相を変えて駆け込んできたのだ。常であれば、扉の前で一礼し、落ち着いた声で取り次ぐ男だった。その家令が、息を切らし、礼すら忘れて立ち尽くしている。
「公爵様が……旦那様が、お倒れに」
「は?」
一瞬、言葉の意味が頭に入ってこなかった。
アレクシスはペンを置き、立ち上がった。廊下へ出ると、屋敷の空気が普段とまるで違っていることに気づく。侍女たちが足早に行き交い、押し殺した囁きが壁を伝って広がっていた。
父の寝室の前には、すでに人だかりができていた。医師の到着を待っているのだろう、誰もが落ち着かなげに身を寄せ合っていた。
扉の隙間から覗いた父の姿は、寝台に深く沈み込み、いつもの威厳をすっかり失っていた。顔色は紙のように白く、呼吸は浅い。常に背筋を伸ばし、この公爵家を意のままに動かしてきた男が、今はただ横たわっているだけの存在に見えた。
アレクシスは、ただ呆然と立っていた。
駆けつけた医師が、深刻な面持ちで何かを告げている。当主としての職務を続けられる状態ではない、と。その声が、どこか遠くから聞こえた。
父は、かねてより体調を崩していたという。今になって、アレクシスはそれを知った。まさか、倒れるとは。
胸の奥が、ざわついた。
動揺している、と自分でも分かった。だが、その動揺の隙間から、もう一つの感覚が、音もなく頭をもたげてくる。
誰かが代わりに、この家を動かさねばならない。
父が倒れた今、この公爵家を支える者は——自分しかいない。
アレクシスは、父の寝顔から目を逸らした。慌ただしく行き交う者たちの只中で、彼はすでに、別のことを考え始めていた。
***
父が倒れてから数日、屋敷は当主不在という異常事態に揺れ続けた。
決裁を待つ書類が積み上がり、取引先からの問い合わせが滞り、家中の者たちは指示を仰ぐ相手を失って戸惑っていた。そうした混乱の中で、アレクシスのもとへ集まってくる者が、日に日に増えていった。
「アレクシス様。こうしている間にも、家政は止まっております。どうか、ご決断を」
「公爵様のご回復を待つわけにはまいりません。今こそ、アレクシス様がお立ちになる時かと」
彼に取り入る者たちの言葉は、どれも耳心地がよかった。
「アレクシス様。あなたはヴァルモント公爵家の跡継ぎです。この混乱を収められるのは、もはやあなただけなのです。皆、そう申しております」
その一言が、彼の自負を熱く煽り立てた。そうだ、と思う。自分はこの日のために学び、鍛えてきた。父の影に隠れ、ずっと出番を待っていたのだ。彼らは、それを正しく見抜いている。忠義に篤い者たちだ、と。
彼らの目の奥に、別の計算が揺れていることに、アレクシスは気づかない。当主が代われば、真っ先に取り入った者が重く用いられる。混乱に乗じて自分の立場を確かなものにしようとする、ありふれた打算。だが、その打算は、アレクシスの自尊心を心地よくくすぐる言葉の下に、巧みに隠されていた。
一方で、苦い顔をする者もいた。
長く家に仕えてきた家臣たちが、ある日、人払いを願い出てアレクシスの前に進み出た。
「アレクシス様。差し出がましいことを申し上げます。……今は、慎重になるべきかと存じます」
「慎重に?」
「公爵様がお倒れになった今、家の内外は、アレクシス様が思っておられる以上に揺れております。家の状況は、決して楽観できるものではございません。社交界での風向きも……それに、ローズフェル家との一件も、まだ収まってはおりませぬ。今は事を急がず、当主様の回復を待つべきかと」
アレクシスは、その言葉を最後まで聞かなかった。
また、これだ。
古い人間は、いつもそうだ。慎重に、足元を、状況を見極めろと。口を開けば、できない理由ばかりを並べ立てる。父もそうだった。新しいことを始めようとすれば、決まって眉をひそめ、慣習を持ち出して押しとどめる。臆病なのだ。変化を恐れて、現状にしがみつくことしか知らない。
「それは、とても古臭い慎重論だ」
アレクシスは、静かに、しかし突き放すように言った。
「お前たちのその慎重さが、この家を縮こまらせてきた。私は違う。心配は要らぬ。下がってよい」
家臣たちは、何か言いたげに口を開きかけたが、結局は深く頭を垂れて退がった。その背中に、アレクシスは一瞥もくれなかった。
諫める声は、彼の耳を素通りしていく。代わりに、彼を持ち上げる声だけが、まっすぐ胸に届いた。正しい忠告とは、こういうものだ、と彼は思う。自分を理解し、後押ししてくれる声こそ、聞くに値する意見なのだと。
煽る声に背を押されるようにして、アレクシスは動き出した。
***
当主代理としてアレクシスが公爵家の権限を預かることが、正式に決まった。
その書面に署名したとき、アレクシスは、これまで感じたことのない高揚に包まれた。
父の印が、自分の手に委ねられる。家政の決裁も、人事も、財の差配も、すべてが自分の判断ひとつで動くようになる。長く父の影の下で抑えつけられてきたものが、堰を切ったように解き放たれていく感覚があった。
ついに、自分の時代が来た。
窓辺に立ち、広大な領地の彼方を見渡しながら、アレクシスは深く息を吸い込んだ。誇らしさが込み上げてくる。
考えてみれば、これは偶然ではない。婚約破棄の件で難色を示した父が倒れ、自分が当主代理の座に就いた——その流れには、確かな必然があった。
これこそ運命だ。
自分は、この公爵家を率いるために生まれてきた。父の病すらも、自分にその座を譲るために定められた巡り合わせだったのではないか。そう思えば、すべてが腑に落ちる。自分は選ばれた者であり、この時のために力を蓄えてきたのだ。
父のやり方は、もう古かったのだ。
慣習に縛られ、危ない橋を渡ろうとせず、ただ家の体面を守ることだけに汲々としてきた。それでこの家は、長く同じ場所に留まり続けたのだ。けれど、自分は違う。自分なら、もっと家を大きくできる。領地を発展させられる。父が成し得なかったことを、自分が成し遂げてみせる。
真の貴族のあるべき姿を、この手で実現するのだ。
ふと、父が病に倒れる前にかけてきた言葉が、耳の奥に蘇った。
好きにしろ。責任は、全てお前が負え。
あのとき父は、苦々しげにそう言い放った。アレクシスは、その言葉を満足とともに噛みしめた。父はあの時、自分を認めていた。一人前の男として、この家を託すに足る器として。だからこそ、すべての責任を委ねると言ったのではないか。
そう、これは承認だった。勝利だった。
それが、もはや何を言っても聞かぬ息子に、匙を投げただけの諦めの言葉だったということに、アレクシスは思い至らない。彼の中で、父の言葉は今も、前向きな承認として響いていた。
権限を握った自分を、アレクシスは心の底から誇らしく思った。
***
当主代理の椅子に身を委ねながら、アレクシスは、これから自分が築き上げていく未来を思い描いていた。
その未来は、どこまでも明るく、輝かしいものだった。隣には、ロザリンドも居てくれる。
ロザリンドのことを考えると、同時にあの件のことも思い出してしまう。
あの煩わしい婚約のこと。婚約破棄の一件については、ローズフェル家は今も抗議しているらしい。しつこい。もう、その件は終わったというのに。
エリザベス・ローズフェル。形ばかりの婚約者だった、あの女。アレクシスは、彼女のことを思い出すと、自分の判断の正しさを改めて確信せずにはいられなかった。あの夜会で、皆の前で堂々と婚約破棄を宣告し、見事に縁を断ち切ってやった。煩わしいものを、ようやく片付けたのだ。
エリザベスは、ヴァルモント家にふさわしくなかった。
いつもへらへらと笑い、誰彼かまわず愛想を振りまく、軽薄な女。公爵家の重みを背負える器ではなかった。切り捨てて、正解だったのだ。
そして、彼女は王都を去り、辺境へと逃げていった。
当然だろう、とアレクシスは思う。もはや王都には居場所がなかったのだ。辺境の片隅で、ひっそりと身を縮めて暮らしているに違いない。あの女のことは、もう終わった話だ。二度と、自分の前に現れることはないだろう。
代わりに、自分の隣に立つべき女は、すでに決まっている。
ロザリンド。
彼女のことを思い浮かべると、アレクシスの口元に、自然と笑みが浮かんだ。
艶やかな黒髪、自分だけを見つめる潤んだ瞳。彼女は、誰よりも自分を理解してくれる。アレクシスが理想を語れば、彼女は熱心に耳を傾け、「素晴らしいお考えです」と頷いてくれる。父が、家臣たちが、誰一人として認めようとしなかった自分の真価を、彼女だけは正しく見抜いているのだ。
彼女こそ、真の理解者だった。
ロザリンドを公爵夫人として迎える。その計画は、今や順調に進みつつある。当主代理の権限を得た今、それを阻める者はいない。美しく、聡明で、自分を心から認めてくれる女を妻に迎える。これ以上に完璧な選択が、ほかにあるだろうか。
彼女が、自分を見上げる瞳の奥で、まったく別の何かを冷たく計算していることに、アレクシスは気づかない。彼女にとって自分が、公爵夫人の座へ至るための一つの道具にすぎないことなど、想像すらしない。彼の中でロザリンドは、ただひたすらに自分を慕う、献身的な女だった。
婚約は解消し、新たな伴侶を得る。家督は自分の手に渡った。あとは、この公爵家を、かつてないほど大きく押し上げるだけだ。
自分の代で、領地をさらに広げる。社交界では、誰もが一目置く存在となる。父を超える当主として、その名を後世にまで残すのだ。
すべてが、思い描いた通りに進んでいる。
婚約の解消も、ロザリンドとの計画も、当主代理への就任も、何ひとつつまずくことなく、自分の望むままに運んでいる。これほど物事が順調に進むのは、やはり自分が選ばれた者だからにほかならない。
アレクシスは、満ち足りた吐息をついた。胸の内を、揺るぎない確信が温かく満たしていた。
***
その日の午後、アレクシスのもとへ、再びあの反抗的な家臣たちが訪れた。
手にした書状の束を前に、先頭に立つ男の表情は、重く沈んでいた。
「アレクシス様。お耳に入れておかねばならぬことが、いくつかございます」
アレクシスは、報告に来た家臣たちへ視線を向けた。
またか、と内心ではうんざりする。
父が倒れて以来、彼らは何かにつけて問題ばかり持ち込んでくる。自分たちで判断もできないのかと、苛立ちすら覚えていた。
だが、それを顔には出さない。
ここで耳を貸してやる姿を見せれば、器の大きな主として映るだろう。いずれ公爵家を継ぐ自分にとって、その程度の演出は必要なことだった。
「話してみろ」
椅子に背を預けたまま、鷹揚に頷く。
寛容な主君を演じる自分の姿に満足しながら、アレクシスは家臣の言葉を待った。
「最近、夜会への招待が、めっきり減っております。以前であれば、当家には引きも切らず招待状が届いておりました。社交界での当家への風当たりが、強くなっているように見受けられます」
アレクシスは、鼻で笑った。
「招待が減ったのは、こちらが当主代理就任で忙しいことを、皆が気遣っているからだろう。それに、若い私が当主の座に立つことへの嫉妬もあるはずだ。下らぬ。気にするほどのことではない」
アレクシスは、まるで意に介さなかった。そんな彼の反応に、家臣たちは顔を見合わせる。けれど、誰も逆らわず、男は次の件へと話を進めた。
「……それから、ローズフェル家のことでございます。先方が、正式な抗議の動きを見せております。かねてよりの交渉も、当家にとって芳しい方向には進んでおりません。このままでは、両家の関係は」
「ローズフェル家が、何を言おうと関係ない」
アレクシスは、相手の言葉を遮った。
「婚約破棄は、すでに皆の前で済ませたことだ。既成事実は、もう覆らない。今さら向こうが何を抗議しようと、後の祭りというものだ。捨て置け」
既成事実化こそ、最強の手段だ。一度、後戻りできぬところまで物事を追い込んでしまえば、勝ちは動かない。それが、アレクシスの判断だった。
再びの否定に、家臣たちはしばし沈黙した。それから、男は声を一段低めて、付け加えた。
「もう一つ……これは、噂の類でございますが。ローズフェル家のご令嬢が、辺境で何やら新たな事業を起こし、評判になっていると。王都の社交界でも、その名を耳にする者が増えていると聞き及びます」
その一言に、アレクシスは思わず眉をひそめた。が、それも一瞬のことだった。
「エリザベスの評判だと?」
くだらない、とアレクシスは口元を歪めた。
「負け惜しみだろう。辺境へ逃げた女が、わずかばかり何かを始めたところで、たかが知れている。そんなものが、評判になるはずもない。誰かが面白半分に言い触らしているだけのこと。些細な話だ」
辺境で、あの女が成功している。そんなことは、アレクシスの頭をかすめもしなかった。あの女に、人を率いて何かを成し遂げる力などあるはずがない。彼女は逃げ、終わったのだ。それが、彼の中の揺るがぬ真実だった。
「アレクシス様、しかし」
「もうよい。下がれ」
アレクシスは、手を振って家臣たちを退けた。
まったく、と彼は内心で吐き捨てる。古い人間というのは、どこまでも臆病で、悲観的なものだ。招待が減れば嫉妬を恐れ、相手が抗議すれば怯え、根も葉もない噂に振り回される。そうやって、起こりもしないことに怯えているから、いつまでも家が小さく縮こまるのだ。
自分は違う。
アレクシスは、退がっていく家臣たちの背を見送りながら、再び輝かしい未来へと意識を戻した。家の孤立も、ローズフェル家の動きも、辺境の噂も、そのどれもが、彼の確信を曇らせることはなかった。
すべては、上手くいっている。
自分の時代が、始まったのだから。
その確信の足元で、彼の見ようとしない現実が、静かに、だが確かに、輪郭を濃くしつつあることを——彼は、最後まで気づかなかった。




