第17話 辺境の噂は王都を駆ける ※セレスティア視点
王都の夜は、いつも通りの華やぎに満ちていた。
窓の外には、灯りを連ねた邸宅の影が幾重にも重なり、遠くから馬車の車輪が石畳を叩く音が絶え間なく届いてくる。華やかで、隙なく整えられた都の夜。
セレスティア・ヴァンデールが生まれ育ち、すべてを知り尽くした世界だった。
自室の鏡台の前で、彼女は侍女に髪を結わせながら、数日ほど前の記憶を振り返っていた。
エリザベスが作り上げたという、あの土地のこと。
彼女に案内されて湖を見渡す丘に立ったとき、まず心を奪われたのは、どこまでも広がる空だった。王都では建物に遮られていた空が、そこには何ひとつ遮るものなく広がっている。その時の景色は、今でも鮮明に思い出せる。
穏やかに揺れる湖面。頬を撫でる風。ゆったりと流れる時間。
自然に溶け込むように建てられた施設を歩けば、庭園のハーブが爽やかに香り、張りつめていた心が、知らぬ間にほどけていった。地元の食材を使った素朴な料理にも温もりがあった。
あの数日間、自分は確かに癒されていた。
その実感を、セレスティアは認めた。普段、公爵家の娘として感情をたやすく動かさないよう制御している自分が、あの場所では自然体で過ごせて、肩の力を抜いていた。心がほどけるとは、ああいうことを言うのだろう。
そして何より、あの場所でエリザベスが生き生きとしていたこと。婚約破棄という仕打ちを受けて王都を去った友が、新しい土地で穏やかな笑みを浮かべ、自らの手で何かを築き上げている姿。それは、何よりも温かい記憶として、セレスティアの胸に残っていた。
鏡の中の自分が、わずかに目を細める。
あの素晴らしさを、自分一人の胸にしまっておくのは、あまりに惜しい。
セレスティアは、結い上げられた髪に手をやりながら思った。
彼女と約束した通り、今宵の夜会で語ってみよう。あの特別な場所のことを。
***
夜会の広間は、いつものように人の波で満ちていた。
シャンデリアの光が天井から降りそそぎ、磨かれた床に幾重もの影を落としている。楽団の奏でる旋律に乗って、貴婦人たちの扇がひらめき、紳士たちの低い談笑が絶えず流れていく。セレスティアはグラスを手に、いつもの優雅さでその只中に身を置いていた。
彼女のまわりには、おのずと人が集まる。ヴァンデール公爵令嬢という立場と、社交界で築いてきた確かな評判。彼女が口を開けば、人は耳を傾ける。セレスティアは長い年月をかけて知り抜いていた。
「ねえ、あなた」
セレスティアは頃合いを見計らって、親しい伯爵夫人に話しかけた。
「王都を離れて、静かに過ごしたいと思ったことはない? この煌びやかさも、時には少し、疲れてしまうでしょう」
突然そう問われた夫人が、意外そうに目を瞬かせた。
「あら……それは、誰しもそうですけれど。でも、静かに過ごすと言ってもどうするの。王都に新しく出来た劇場? それとも、例の花園とか、かしら?」
夫人は、思いつく行き先を一つずつ口にした。
だが、セレスティアは軽く首を横に振り、こう切り出した。
「辺境に遠出する、というのはどう?」
「辺境? 地方なんて、何もないでしょう」
予想通りの答えだった。辺境にある土地とは、領地の視察に赴くか、あるいは隠居のために老成した者たちが帰るくらいの場所。貴族にとって、わざわざ足を運ぶ価値のない、何もない土地。それが、彼女たちの常識だった。
「ええ。私も、そう思っていたわ。つい先頃まではね」
セレスティアは、グラスの中の液体をそっと揺らした。少し身を乗り出した夫人へ、彼女は続けた。
「でも、そういう場所が、あるのよ」
その一言に、周囲の数人が、ふと会話の手を止めた。
湖を見渡す丘の景色。どこまでも広がる空。自然に寄り添う建物とハーブの香り。その土地で過ごした数日のあいだに、自分の心がどれほど穏やかにほどけていったか。セレスティアは、その記憶を丁寧に語った。
優雅に、しかし、確かな熱を込めて。
「まあ、あのヴァンデール公爵令嬢が、わざわざ辺境で……?」
誰かが、半ば信じられないというように呟いた。
その囁きこそが、何よりの証明になることを彼女は理解していた。滅多に物事を手放しで褒めない自分が、こうして言葉を尽くして語る場所。その事実そのものが、どんな美辞麗句よりも雄弁な信用となる。
「王都ではなく、あえて辺境へ?」
「遠くないですか?」
「わざわざ時間を掛けて行くのですか?」
「お務めでもないのに、辺境まで足を運ぶなんて……」
否定的な声は多かった。それでも、セレスティアの語り口に、彼女たちは次第に引き込まれていった。最初は半信半疑だった貴族たちの瞳にも、抑えきれない好奇の色がにじみ始めていた。
***
夜会があった数日後の昼下がり、馴染みの侯爵夫人が催した茶会の席でも、やはり同じ方向へと流れていった。セレスティアが意識して、そう仕向けた。
茶の香りが立ちのぼる円卓を囲んで、貴婦人たちの関心は、すでにセレスティアの語った辺境へと向けられている。
夜会で芽生えた噂は、人の口から口へと、次第に渡り始めていた。一人が語り、それが別の席へと渡っていく。噂とは、そうして形を持つ。
セレスティアは、運ばれてきた菓子に手をつけながら、内心で、その波及の手応えを冷静に測っていた。
彼女たちが食いついているのは、単なる珍しい土地の話ではない。その奥にある、新しい発想そのものだ。
美しい景色の中で、ただ穏やかに時を過ごすために、わざわざ辺境へ赴く。領地の差配でも、隠居でもなく、心身を休めるためだけに都を離れる。今までになかった、新しい貴族の過ごし方。
王都の社交は華やかだが、その裏で人の心を絶え間なく消耗させる。評判を保ち、人脈を繋ぎ、礼を尽くし、根回しに気を配る。誰もが口にはしないまま、心のどこかで休息を求めていた。
一度、その渦中から遠く離れたい。そういう願望はあったのだろう。それを可能にする場所が、これまで存在しなかった。新しい選択肢が誕生した。
「それで、その素晴らしい場所は、いったいどなたが」
侯爵夫人が、待ちかねたように尋ねた。
セレスティアは、カップをそっと受け皿に戻し、微笑みながら答えた。
「作ったのは、私の友人のエリザベス・ローズフェル。……ええ、あのローズフェル家のご令嬢よ」
「あら」
「例の……」
卓を囲む貴婦人たちの間に、小さなさざめきが走った。その名を、彼女たちはよく知っている。そして、その名にまつわる出来事も。
「婚約を解かれて、辺境へ去られたという……」
「そんな方が、そのような場所を?」
「ええ。そうなのよ」
セレスティアは、その囁きに、わずかも同情の色を加えなかった。
「都を離れた地で、あれほどのものを生み出したの。誰にでもできることではないわ」
憐れむべき令嬢としてではなく、見事なものを成し遂げた一人の、尊敬すべき人物として。セレスティアは、注意深く言葉を選びながら語った。
婚約破棄され、辺境へ追われた令嬢が、その地で今まで誰もが思いつかなかった発想で、新たな場所を築き上げた。その物語性は、貴婦人たちの好奇心に、抗いがたい魅力を添えていく。エリザベスの名が、好意と称賛の文脈とともに、社交界へと染み渡り始めていた。
その様子を眺めながら、セレスティアの胸の内には、表向きの友情とは別の、もう一つの感情が横たわっていた。
***
茶会からの帰り道、揺れる馬車の窓辺で、セレスティアは瞼を閉じた。
誰も知らないことが、一つある。
彼女がこうして辺境の評判を広めているのは、ただ友のためだけではなかった。その奥に、もっと冷たく、もっと深いところで凍りついた、別の感情がある。
あの婚約破棄の一件を、セレスティアは決して許していなかった。公衆の面前で、何の落ち度もない友を辱め、その尊厳を踏みにじり、切り捨てた。その仕打ちに対して、自分が何を感じていたか。
怒りだ。
それも、激しく燃え上がる類のものではない。声を荒げれば、たちまち品位を損なうような怒りではなかった。セレスティアの内にあるのは、もっと静かで、凍りついたように据わった怒りだった。社交の場では、彼女はいつも通りの優雅な微笑みを浮かべている。その下に何が沈んでいるかを、誰一人として知らない。だが奥底では、確かな憤りが、一度も溶けることなく冷たく凝っていた。
とはいえ、ヴァルモント家へ直接、刃を向けるつもりはなかった。
あの件を言い立てて中傷を煽ることも、その評判を貶める噂を撒くことも、彼女の流儀ではない。公爵令嬢としての矜持がそれを良しとしなかったし、そもそも、そのような手段は逆効果だと、セレスティアは冷静に見切っていた。下品な反撃は、放った当人の品位を削るだけだ。
代わりに彼女が選んだのは、もっと目立たぬ、もっと確実な方法だった。
エリザベスの新しい挑戦に、協力すること。
ただ、それだけでいい。
あの友が、辺境で築いたものを、社交界に正しく知らしめる。エリザベスが輝けば輝くほど、その光の傍らで、一つの問いが立ちのぼってくる。あれほどの令嬢を、いったい誰が手放したのか、と。
あれほどの才を、あれほどの品位を、あれほどのものを成し遂げる人を。自ら切り捨て、辺境へ追いやった家がある。エリザベスの成功が語られるたび、その対比は、誰の口を借りるまでもなく社交界の人々の胸に浮かび上がる。
あれほどの令嬢との婚約を破棄した。自ら手放した。
……愚かな家。
その評価が、誰に強いられることもなく、ただ事実の積み重ねとして広まっていく。それこそが、セレスティアの望むものだった。
彼女は、嘘を一つもついていない。捏造も、中傷もしていない。ただ、本当に素晴らしい場所を、本当に素晴らしいと語っているだけ。広めているのは、真実だけだった。
だからこそ、この反撃には一点の曇りもない。ヴァルモント家が被るであろう打撃は、ほかならぬ彼ら自身が、かつてエリザベスを手放したという、その選択の帰結に過ぎないのだから。
そして、ここに一つの線引きがある。
エリザベスは、この胸の内を知らない。
ただ純粋に、エリザベスは自らの計画の成功を願っている。領民に安定した暮らしを、訪れる人に心からの安らぎを。その清らかな願いに、復讐の影など、ひとかけらも混じってはいない。
それでいい。この冷たい怒りは、セレスティアが一人で抱えていればいいものだった。
その願いは、友への祈りであり、静かに凍った怒りの形でもあった。
エリザベスが幸福になること。それこそが友への祝福であり、彼女を手放したあの家に対する、何よりの反撃でもあった。
セレスティアは、瞼を開けた。その瞳は、いつものように凪いでいた。
***
それから一月が過ぎる頃には、辺境のあの場所の名は、王都の社交界に確かな根を張り始めていた。
夜会で、茶会で、そして貴婦人たちのささやかな集いで。人々は、口々にその土地のことを語り合うようになっていた。
当初の半信半疑は、もはや、はっきりとした欲求へと姿を変えつつある。一度、自分の目で見てみたい。その景色の中に、身を置いてみたい、と。
セレスティアは、その流れが止まらないことを確信していた。
評判とは、火に似ている。最初の小さな種火さえ確かであれば、あとは人から人へと、自ずと燃え移っていく。彼女が灯した火は、嘘で膨らませたものではない。真実という、最も燃え尽きにくい薪をくべてある。だから、消えることはない。
セレスティアは窓辺に立ち、灯りに彩られた王都の夜景を眺めた。
胸の内には、二つの満ち足りた想いがあった。友が望みを叶えていくことへの温かな喜びと、静かに凍っていたものが報われていく予感。
けれど表にあるのは、いつも通りの優雅な微笑みだけだった。
辺境の名は、これからさらに王都へと広がっていくだろう。その確信を胸に、セレスティアはただ静かに夜景を見つめていた。
友の物語は、これから広がっていく。




