第14話 友、辺境に来たる
エリザベスの立ち上げた計画が動き出してから、数ヶ月が過ぎていた。
その間、エリザベスは目の回るような忙しさの中にいた。人を集め、図面を確認し、必要なものを揃え、土地のあちらこちらを歩いて回り、指示を出す。朝早くから日が傾くまで、やるべきことは尽きなかった。
けれど、疲れはしても、心が沈むことはなかった。むしろ、これほど満ち足りた日々を、彼女はこれまで知らなかったように思う。突然、婚約破棄を突きつけられたあの頃とは違う、まるで別の時間を生きているようだった。
ひとつのものが、少しずつ形になっていく。そして今日、その日々の結実が静かに目の前に立っている。
トーマスが手がけた建物は、土地を無理に開拓することはなかった。土地の起伏をそのまま受け入れ、段々を成すように建物を据えてある。低いところと高いところ、それぞれの高さに、それぞれの眺めがあった。どの部屋の窓からも景色が見えるように窓の位置、角度も計算し尽くされている。
建設に使われているのは、この土地で採れた石材と木材だった。遠くから運んだ高価な素材ではない。だからこそ、と言うべきだろうか。建物は周囲の景色に、不思議なほど自然に溶け込んでいた。森と山を背にして静かに佇むその姿は、人の手で建てられたものでありながら、まるで最初から、この景色の一部であったかのようだった。
ウィルが作り上げた庭も、また見事だった。
彼は、四季の移ろいを描くように、庭を仕立てていた。春には山桜が咲き、足元に野の花が散らばる。夏には深い緑が陰をつくり、秋には木々が燃えるように色づく。冬は常緑樹と雪とが、静かな対比を見せるという。どの季節に訪れても、目を楽しませるものが途切れることはない。
施設の周りには、香りのよいハーブの小道が続いていた。ラベンダー、ローズマリー、タイム。歩けば足元から立ちのぼる香りに包まれて、心が、ひとりでにほどけていく。どこに目をやっても、絵画の一場面のような景色だった。
美しい施設と庭が、こうして完成した。
けれど、エリザベスの心を最も満たしていたのは、その美しさそのものではなかった。
自分の計画が、この土地に暮らす人々に何をもたらしたか。目に見える美しさ以上に、その変化こそが、彼女の誇りだった。
***
建設に携わってくれた領民たちには、働きに見合うだけの正当な報酬を支払った。
施設が出来上がった後も、宿を訪れる客への給仕や、料理、清掃といった仕事が新たに生まれる。一度きりではなく、これから先も続く、安定した働き口になるはず。
それだけではない。施設の建設が一段落すれば、次は住民たちの家屋や、暮らしを支える施設の建設へと仕事を移していく。働き手の手が空いて困ることのないよう、バルタザールが先を見据えて段取りを組んでくれていた。
領民たちは、生き生きと働いていた。
自分たちの手がけた仕事に誇りを持ち、顔には笑みが絶えない。土地の全体には、これまで以上の活気が満ちはじめていた。
若い者たちにも変化が現れていた。これまで、稼ぎを求めて王都へ出ていくほかなかった彼らが、この土地を離れずに済むようになった。家族とともに暮らしながら、地元で働き、糧を得る。この辺境を少しずつ蝕んでいた流れが、向きを変えはじめていた。
その変化を、影で大きく支えていたのがバルタザールだった。
彼は、古い知り合いの伝手をたどって、商人たちを領地へ呼び寄せた。人と物が行き交えば、おのずと金も動きはじめる。交易は目に見えて活気づいていった。そのかたわらで、予算の管理にも抜かりはなかった。資金の流れに無理が生じないよう、細やかに目を配り、危うさの芽を、その都度見逃さないよう摘んでいく。
さらに彼は、若いスタッフたちの教育にも力を惜しまなかった。客をどう迎えるか、どんな言葉を選ぶべきか。接客の作法を、ひとつずつ根気よく教え込んでいった。
すべてが、着実に実を結んでいた。
そして今日。その完成を誰かに見てもらう日が、ついに訪れようとしていた。王都から、友人たちを迎える日だった。
出迎えの支度を進めながら、エリザベスは、どうにも落ち着かなかった。
準備のために指示を出しながら、心がそぞろになる。何度も同じことを確かめては、また別のことが気にかかる。
(どんな反応をするのかしら)
完成した施設には満足している。トーマスもウィルも、期待していた以上の仕事をしてくれた。領民たちも一生懸命に働いてくれている。そのことに疑いはなかった。
けれど、友人たちが、これをどう見るか。そればかりが、気がかりだった。喜んでくれたなら、どんなに嬉しいだろう。けれど──と、考えはすぐに別のほうへ傾いてしまう。
王都の華やかな暮らしに慣れた彼女たちが、この素朴な場所を、果たして気に入ってくれるだろうか。豪奢でもなく、きらびやかでもない。
わざわざ遠い道のりを越えて来てもらったのに、もし、期待外れだったと思われてしまったら。
そんな不安が、胸の中で小さく渦を巻いていた。それは、施設の出来栄えへの不安ではなかった。華やかさではなく、静けさを選んだ。その自分の味わった感動や選択そのものが、誰かに否定されはしないかという──いつか味わった怯えに、どこか似た揺らぎだった。
「エリザベス様」
穏やかな声に、エリザベスは顔を上げた。
いつのまにか、バルタザールがそばに立っていた。彼は、彼女の胸の内をすっかり見透かしたような、それでいて急かさない静かな眼差しで、こう言った。
「ご心配なさらずとも、大丈夫です。この場所の素晴らしさは、ご友人にも必ず伝わります」
その言葉は、すとんと胸に落ちた。
「そうね。ありがとう、バルタ」
エリザベスは気持ちを切り替えようと、深く息を吸い込んだ。胸の奥の渦が、少しずつ、なだらかになっていく。
バルタの言ってくれた通り、きっと大丈夫だ。
***
最初に到着したのは、セレスティアだった。
立派な馬車が、施設の前にゆっくりと止まる。御者が扉を開けると、中から一人の女性が優雅な所作で降り立った。
プラチナブロンドの髪を、品よく結い上げている。アイスブルーの瞳。背筋の伸びた、凛とした立ち姿。久しぶりの再会だったが、そこにいるのは紛れもなく、エリザベスのよく知るセレスティアだった。
馬車を降りたその瞬間、彼女の表情がふと変わった。それは、友人のエリザベスもあまり見たことのない反応だった。
目の前に広がる景色を前にして、セレスティアは言葉を失っていた。
遠くに連なる山々。深い緑をたたえた森。陽を受けてきらきらと輝く湖。そして、その景色に溶け込むようにして佇む、施設。それらすべてを、彼女の瞳が、順に辿っていく。
いつも涼やかに整えられている表情が、今は、わずかに崩れていた。唇がかすかに開き、アイスブルーの瞳が、大きく見開かれている。
「……なんて、美しいの」
常のセレスティアらしくない、感情の滲んだ声だった。それほどまでに、この景色は彼女の心を打ったのだろう。
景色に見入るセレスティアを、エリザベスはしばらくそっと見守っていた。けれど、こみ上げる嬉しさは、もう抑えきれない。
「セレスティア! 久しぶりね!」
笑みを浮かべ、駆け寄っていく。ふんわりとしたスカートの裾が、風に揺れた。
その声に、セレスティアが振り向く。きりりと引き締まっていた唇の端が、ほんの少しだけゆるんだ。やはり彼女にしては、珍しいほど柔らかな表情。景色を見たときと同じ、いや、それ以上に温かな顔つきで彼女はエリザベスを見つめた。
「久しぶり。会えて嬉しいわ、エリザベス」
心からの喜びが込められた、そんな声だった。
「私も。ずっと会いたかったの」
二人は、しばらく抱き合った。互いの存在を確かめるように。
手紙のやり取りは、絶えず続けてきた。それでも、こうして実際に顔を合わせるのは、数ヶ月ぶりのことだった。文字では決して埋められなかったものが、互いの温もりとなって、静かに胸に染みていく。
やがて体を離すと、セレスティアは、エリザベスの顔を、じっと見つめた。
「元気そうで、安心したわ」
その眼差しには、案じるような色が残っていた。
「手紙では『大丈夫』と書いていたけれど、本当に大丈夫だったのか心配していたの」
エリザベスは、その言葉に、胸の奥が温かくなるのを感じた。離れていても、この人は、ずっと自分のことを気にかけていてくれた。
「ありがとう。本当に、大丈夫よ。むしろ、今の生活が幸せだと感じているわ」
それは、取り繕った言葉ではなかった。口にしてみて、自分でも、その言葉に少しの嘘もないことが、はっきりとわかった。偽りのない笑みが自然と顔に浮かんでいた。
その表情を見て、セレスティアは安堵したように小さく頷いた。
それから二人は、並んで歩きはじめた。
完成したばかりの施設を案内しながら、積もりに積もった話を交わしていく。
セレスティアは、その鋭い観察眼で建物の細部までを丁寧に見て回った。柱の据え方、窓の向き、廊下の取り回し。時折足を止めては、確かめるように壁へ手を触れ、窓の外へ視線を投げる。
「この建物の配置……計算されているのね」
ぽつりと、彼女が言った。
「どの部屋からも景色が見える。それでいて、自然を壊していない。地形を活かした設計。素晴らしいわ。こんな建築、王都でもなかなか見たことがない」
その言葉に、エリザベスの顔がぱっと明るくなった。
「トーマスという建築技師が、頑張ってくれたの。優れた才能の持ち主なのよ」
褒められて嬉しかったのは、自分のことではなかった。あの、面談の日に身を硬くしていた彼が、こうして認められた。そのことが、何より誇らしかった。
「優秀な人材なのね。どうやって見つけたの?」
セレスティアが、興味深そうに尋ねる。
エリザベスは弾む心のまま、彼に今回の計画を任せることになった経緯を語った。バルタザールが見出してきてくれたこと。面談の席で、トーマスがこの土地への思いを堰を切ったように語りはじめたこと。その情熱に触れて、任せようと決めたこと。
話を聞き終えると、セレスティアは優しく微笑んだ。
「あなたらしいわ」
そして、改めて建物を見渡しながら、こう続けた。
「派手すぎず、けれど貧相でもない。落ち着いて過ごせそうな空間」
その言葉は、エリザベスの胸に、じんわりと染みた。彼女が選び、求めたものが、そっくりそのまま言い当てられたようだった。
二人は、庭へと足を進めた。
今度は、ウィルが丹精込めて作り上げた、四季折々の美しさを楽しめる庭。香りのよいハーブの小道を、二人は並んで歩いた。歩くたびに、ラベンダーとローズマリーの香りが、ふわりと立ちのぼる。
「この庭も、良いわね」
セレスティアが、感心したように呟いた。
「自生植物を活かしながら、外来種を調和させているのかしら。派手ではないけれど、心が落ち着く。歩いているだけで、癒される」
彼女が、地に根ざした草木とよそから来た植物との調和を、ひと目で見抜いたことにエリザベスは内心、舌を巻いた。それこそが、ウィルが最も心を砕いた部分だったからだ。
「ウィルという庭師が作ってくれたのよ。植物を心から愛している方で」
あの、警戒の殻を少しずつ解いていった寡黙な男の姿を思い浮かべながら、エリザベスは言った。彼の愛した草木が、こうして審美眼の優れた友人に評価されて、心も和ませている。
改めて、自分の周りに集まってくれた職人たちの実力の高さを実感した。
ひととおり施設と庭を案内した後、エリザベスは、セレスティアを、ある場所へと誘った。
この土地で、彼女が最も好きな場所。湖を一望できる、丘の上だった。
「ここが、私のお気に入りの場所なの」
なだらかな坂を上りきると、視界いっぱいに絶景が広がった。
眼下には、透き通った湖が静かに横たわっている。その向こうには森が連なり、さらに奥には、山々が悠然と空を区切っていた。空は、どこまでも広い。白い雲が、ゆっくりと流れていく。
風が、二人の髪を、優しく撫でていった。エリザベスのふんわりとしたピンクブロンドと、セレスティアの結い上げたプラチナブロンド。色の異なる二つの髪が、陽の光を受けて、それぞれに淡く輝く。
セレスティアが、深く、息を吸い込んだ。
澄んだ空気が、胸の奥まで満ちていくのが、傍らからでもわかるようだった。
「……ふぅ。いい場所ね」
短い言葉だった。けれど、その短さの中に彼女が確かに、深く心を動かされているのが感じられた。多くを語らないからこそ、その一言には、ずしりとした重みがあった。
普段、セレスティアは、めったに感情を表に出さない。けれど今、その瞳には隠しようもないほど、はっきりとした感動が宿っていた。
「王都では、こんな景色は見られない。建物に遮られて、空もこんなに広く見えない。ここは……特別な場所ね」
その言葉を聞いて、エリザベスの顔に嬉しそうな笑みが広がっていった。
特別な場所。気に入ってもらえるだろうかと、あれほど胸を騒がせていた不安が、その一言で跡形もなく溶けていく。自分の感じたこと、覚悟を決めて選んだ方針は、間違っていなかった。
しばらく二人は、何も言わずに景色を眺めていた。
言葉は、もう必要なかった。ただ、この美しさを隣り合って分かち合う。それだけで、十分だった。




