9.決断
手術を言い渡されてから二日後の朝。期日の日だというのに、ノワールは膝を抱えて蹲っていた。もちろん答えは出ていない。
イリスと別れたあと、ノワールはテントでずっと俯いていた。夕食の時間になっても、就寝時間になっても俯いたまま。あまりにも動かないものだから、見かねたブランが個室に運んだ程だった。翌朝も同じ位置、同じ姿勢でいたものだから、さすがのブランも狼狽えていた。
食事にも手を付けず、呼びかけにも反応しない。普段のノワールなら絶対にしないことだが、そんな余裕も無くなるほど、頭を占めている問題があった。
イリスを怒らせたことだ。
元奴隷が生意気な口をきくだけでも大問題なのに、相手は助けようとしてくれた恩人ときた。すぐに謝れば良かったものを、問題を起こしたショックで謝れなかった。では一日三度の巡回でと考えたが、訪ねてくるのはイリス以外の軍医。避けられていると気付けば、探しに行くこともできなかった。
許されるにはどうしたらいいのか。そもそも手術自体、イリスにとって迷惑なことではないのか。ノワールは考えに考えすぎた結果、何もしないことに落ち着いた。できるだけ早く息絶えることが、イリスにとって最善と考えたのだ。まったくの的外れだが。
コンコンとノックの音が響き、ノワール、と名前が呼ばれる。返事をする気力もないので放っておくと、キイっと扉の開く音がした。近づいてくる控えめな靴音と、安心する香り。手のつけられていない食事を確認すると、香りの主はノワールの前に膝をついた。自分とは正反対の真っ白な翼が、床の木目を覆い隠す。
「……食欲がわかないか」
「……」
「一口だけでもどうだ? このままだと倒れてしまう」
「……」
食事の度に繰り返しているこのやりとり。このまま黙っていれば、ブランは諦めて部屋を出ていく。そのはずだった。
「……となりに」
「!」
「隣に座っても、いいだろうか」
予想外の展開に顔を上げてしまったノワール。ブランは返事を求めていなかったらしい。しばらくの静寂の後、ゆっくりとノワールの隣に腰を下ろした。ベッドがキシッと悲鳴を上げる。
人ひとり分空けた気まずい距離。それでも目が離せないのは、この状況を理解しようとする本能だろうか。
檻から出されたときと同じ、安心する香り。あのときは鋭い目を怖いと思ったが、今は星のようで美しいと感じる。もっと近くで見たい……ふと浮かんだ願いは、意外とすぐに叶えられた。ブランの翼が、ノワールを引き寄せるように包んだからだ。
もたれかかってもびくともしない身体。濃くなる香り。見上げた口がゆっくりと開く。
「……こうすると」
「……」
「雛鳥は、安心するらしい」
「……」
「どう、だろうか……」
「……」
どう、と訊かれても。
「わ、からな、です……」
「……そうか」
ノワールが恐る恐る答えると、ブランはそっと翼を離した。相変わらずの無表情。しかし耳はほのかに赤らんでいた。
「……君が私の意図を分からないように、私も君が何を考えているのか、何に悩んでいるのか分からない」
ただ、とブランはノワールに向き直った。ノワールを見つめる栗色の瞳が、陽光を受けて金色に染まる。
「真偽不明な説に縋る位には、君を心配している」
「!」
「だからといって、全て話してほしいわけではなく……いや、話して楽になるならいくらでも相手になるが……その、なんと言えばいいか……」
目頭を押さえてゴニョゴニョと何かを呟くブラン。この人も悩むことがあるのかと見つめていると、ブランがギョッと目を剥いた。ノワールへ中途半端に手を伸ばし、首には汗が流れていた。
「す、すまない、配慮が足りず……泣くほど痛かったか」
——泣く?
この部屋にはブランとノワールだけ。泣いている人なんて誰もいない。別の部屋ではないですか、そう伝えようとしたが、できなかった。ヒクヒクと震える喉が、いうことを聞かなかったからだ。
「……っ」
「何か拭く物……いや、患部の確認……すまないが少々待てるか? 今イリスを、」
呼んでくるという言葉が、尻すぼみに消えていく。立ち上がろうとしたブランの服を、ノワールの手が掴んだからだ。
中途半端な姿勢で固まるブラン。見開かれた目は、軍服の裾からノワールへ。射抜くような視線を感じ、ノワールはハッとした。
衝動的に掴んでしまったブランの服。掴んだからには何か言わねばならないのに、肝心の言葉が出てこない。謝罪でも何でも、言いたいことは山程あるのに。静寂の中、腕がカタカタと震える音がやけに響く。身体のいうこともきかせられないだなんてみっともない。消えてしまいたくなったそのときだった。
「——大丈夫」
「!」
「大丈夫だ」
ブランは膝を折り、ノワールの手を優しく包んだ。大丈夫、大丈夫と、骨の浮いた手を何度も優しく叩く。規則的なリズムは、魔法だろうか。ずっと怖いものだった手が、初めて味方に感じられた。
「……ぼ、く」
身勝手な喉も、もうノワールの味方だ。栗色の瞳に見つめられながら、スッと大きく息を吸った。
「イリス、さまっ、ゆるす、もらう、の、どし、たら……!」
やっと言えた。ノワールの眼からぶわりと涙が噴き出した。
ブランは頭が良い。イリスに許してもらう方法を、きっと見つけてくれるはず。安心して涙の止まらないノワールに、ブランはしばらくしてから口を開いた。
「……イリス????」
ブランの眉間に深いシワが刻まれる。ノワールの涙は思わず引っ込んでいた。
ブランが考え込むこと数分。予想外の展開に固まるノワールに、ブランは努めて優しく声を出した。
「……全て話さなくていいと言ったが、訂正する」
「最初から話してくれ。私の頭が追いつかない」




