8.宣告
名前を得たノワールは、ブランに連れられ、再び救護テントへと向かっていた。イリスが再度診察したいとのことだった。
「連れてきたぞ」
「ありがと。——そこに座ってくれる?」
イリスの細い指がベッドを指し示す。ノワールは軽い足取りでベッドへと向かい、腰を下ろした。初めて救護テントに迎えられたときが嘘のような従順さだった。
それもそのはず。微笑みが標準なので分かりにくいが、今のノワールは名前を得た喜びで浮かれているのだ。
〝おい〟でも〝おまえ〟でもない、ノワールという立派な名前。人目がなければ、ずっと口ずさんでいたいような心地さえする。痛いかどうかのしつこい質問もにもはっきりと否定ができるほど、名前が与えてくれた力は大きかった。大きすぎるあまり、背後でイリスが表情を曇らせたことに、ノワールは当然気づいていない。
イリスはブランに目配せすると、ノワールの前にしゃがんだ。花色の瞳が、じっとノワールを見つめる。
「診察は終わり。……それで、よく聞いてほしいんだけど」
イリスは視線を逸らしたあと、再度ノワールを見つめた。
「——あなたの左翼、もうダメかもしれない」
「……」
眉尻を下げて告げるイリス。揺らぎのない瞳の中に、コテンと首を傾げるノワールが映った。
ダメ——ダメとは禁止、してはいけないということだろうか。しかし左翼が禁止とは一体。頭をフル稼働させてもわからぬ答えに、ノワールは固まることしかできなかった。
そんなことを知る由もないイリスは、ショックを受けていると判断したらしい。しかし嘘を伝えてもノワールのためにはならない。医師たるもの避けられない道だと、イリスは己を律し、鏡でノワールの翼を映した。
「本当のところは検査してみないとわからないけれど……ここ、色が違うのわかる?」
左翼の肘関節——ちょうど識別番号の枷がはめられていた部分が、漆黒に腫れ上がっていた。黒翼だからと言っても、説明がつかないほどまでに。
「こんなに元の色と違うとね、翼に何も影響がないとは考えられないの。例えば羽根の生え方……左右で違うでしょう? 正常なら、もっと生え揃っているはずなのよ」
それに、とイリスは、小さな針を出してみせた。
「これを当てても、分からなかった」
先程痛いかどうか訊いた際、イリスは針の先端を左翼に当てていたのだ。正常ならば痛いと答えるところ、ノワールははっきりと否定した。いつ、どこに当てられたのかも分からなかった。
本能がまずいと告げている。サアっと血の気が引く感覚に、ノワールは目眩を覚えた。
骨の目立つ手が震えだし、イリスは針をしまった。俯くノワールの前にしゃがみ込む。
「怖いだろうけど、このままにもしておけない。放っておくと、最悪命にも関わるの。……だから、」
——左翼を切りましょう。
口の動きがわかるほど、やけにはっきりと聞こえた言葉。一秒経つ毎に脳にストンと落ちていき、嫌でも理解し始める。
切らねばならないと。
底知れない恐怖に、ノワールは震える身体を抱きしめる。耳の奥で、歯がカタカタと打ち合う音が聞こえていた。
「……だ」
本当はわかっていた。左翼だけ何かがおかしいと。
「いやだ……」
本当はわかっていた。日に日に動かし辛くなっていると。
「——いやだ!」
わかっていたのだ。もう空には届かないと。
喉から漏れる荒い呼吸音に、ノワールはハッと顔を上げる。視線の先には、眉根を寄せて閉口するブランとイリスがいた。やってしまったと、ノワールの輪郭に冷や汗が伝った。
奴隷が人に、それも助けてくれた人たちに失礼な口をきいてしまった。名前までくれた恩人なのに。
謝らなければ。そう思うのに、身体は言うことを聞いてくれない。強張る口は、音を紡がず上下するだけ。
「……二日後の昼、移動の馬車が来るわ。切るにしても残すにしても、ここでは機材が足りないから」
イリスが膝に手をついて立ち上がる。ノワールにとっては、どんな罰よりも苦しい光景だった。
「それまでに決めておいて。翼を切って生きるか、翼を残して死ぬか」
テントに射した逆光とともに、イリスは外へと出ていった。止めようとした。しかし止められなかった。止める資格があるのかと、疑問が重くのしかかったからだ。
役割も勇気も失った手をだらんと落とし、ノワールは思考をやめた。




