10.分岐点
「——つまり、イリスへの謝罪のため、できるだけ早く死のうとしたと」
ノワールは鼻をすんすん啜りながら、控えめに頷いた。
ブランには全て明かした。助けようとしてくれたイリスを突き放したこと。今日まで謝れていないこと。死が最大の誠意になると考えたこと。だから食事も取らずに蹲っていたこと。やはりちゃんと謝りたいこと。
途中うまく言葉にできなくなったノワールを、ブランは急かさなかった。困ったら言葉の候補を挙げ、それ以外は口を挟まない。そんなブランだから、ノワールも最後まで言葉にできたのだ。
ノワールに水を渡すと、ブランは隣に腰を下ろした。口元を手で覆い、フーっと小さく息を吐く。
「私はてっきり手術のことで悩んでいるとばかり……」
ノワールが水を飲み終えたのを確認すると、ブランは彼へと向き直った。
「ノワール」
「?」
「はじめに言っておく。イリスは君に怒っていない」
「!」
ノワールが目を見開くのは想定内。ここからどう伝えるのかが問題だと、ブランは必死に言葉を選ぶ。
「大切な身体のことだ。手術を嫌がるのは普通のことだし、イリスも言われ慣れている。気にする必要はない」
「……」
口を開いては閉じて、開いては閉じて。結局俯いて黙り込んだノワールに、ブランはひとつ咳払いをした。
「そもそも奴は、一族の中でも図太いことで有名だ。今朝も大して上手くもない鼻歌で周囲の耳を汚して……やめろと再三言っているのに」
怒っている奴が鼻歌を歌うと思うか? と問われ、ノワールは首を横に振った。同僚のブランが言うならそうなのかもしれない。しかしならば何故。
「しんさつ……イリス、さま、こない……」
怒っていると思った最大の理由。定期巡回でイリスが来ない訳は? 俯くノワールを前に、ブランは白髪を乱雑にかいた。
「……『私が行くと、手術のことを嫌でも思い出す』」
「!」
「『決断はしてほしい。でも急かしたくもない。だから会わない』……そう言っていた」
普段内部の情報はもらさないブランだが、今回ばかりは仕方がない。誤解させたオマエが悪いと、ブランは脳内で責任を押し付けた。
「つまり奴は怒っていない。むしろ死なれる方が怒、……」
ノワールの眼から、再び大粒の涙が溢れる。また何かやらかしてしまったかと胸中で焦るブランの耳に、涙混じりの声が届く。
「イリス、さま、うたがう、ちゃった……」
そうきたか、とブランは内心で頭を抱えた。今度はイリスを疑った自分自身を責めているのだ。
喚かず騒がず、ただひたすら涙を流すノワール。
あまりに純粋で、あまりに壊れやすい。正しい泣き方も知らない子ども。
この子は苦労しそうだと、ブランは泣き止むまでノワールの手を握っていた。
◇◇◇
説得の末、ブランはスープだけでも飲ませることに成功した。本当は完食させたいところだったが、ノワールは絶食明け。無理に食べさせて吐く方が辛かろうと判断した。
残った食事を調理場に預け、ノワールを連れてイリスのいる救護テントを目指す。ノワールは説得の大半には応じても、イリスに謝ることだけは譲らなかったのだ。ブランは部屋を出た今でも、あんな奴に謝らなくてもと内心で独りごちている。
無言で連れて行ってもよかったが、手術の迎えが来るまであと数時間もない。罪悪感を覚えつつ、ブランは後ろをついてくるノワールを振り返った。
「——手術のことだが……決められたか?」
翼を切るか、翼を残すか。
嫌だと叫んだノワールのことだ。きっと決められていないと当たりをつけたが、返答はすぐに返ってきた。
「イリスさま、めいわく、ない、の、します」
「……」
辿々しい言葉も慣れたもの。優秀な頭が解読した答えに、ブランは思わず足を止めた。内心で頭を抱えすぎて、現実でもしてしまいそうだった。
ノワールの出した答えは、『イリスに迷惑のかからない方にする』。つまり切るも残すもイリス任せということだ。イリスに会う前で良かったと安堵しつつ、振り返って膝をつく。すれ違う部下の視線が痛い。
「……イリスではなく、君の意思が聞きたい」
「……?」
ノワールがコテンと首を傾げる。本当に分かっていない気配に、ブランは胸中でため息をついた。
ノワールには意思がない。無くなるように育てられたのだろう。それはこれまでノワールに関わった人間たちの罪であり、ブランの罪でもあった。
このままではいけない。いけないことを理解させなくてはならない。
怒りを外へ追いやるように、ハーッと大きく息を吐く。ノワールがビクッと震えた気配がしたが、今回ばかりは助けてはいけない。
「……仮にイリスに任せたとして」
「?」
「後悔したら、イリスのせいにするのか?」
「……?」
「君の答えだと、いつか選ばなかった方を羨んだとき……『イリスが選ばなかったから不幸になった』。そう言ってしまえる」
ノワールの夜色の瞳が見開かれる。ブランは内心で笑みを浮かべた。
気付きは与えた。しかしまだ足りない。より確かなものにするために、ブランはさらに意地の悪い質問を重ねる。
「イリスのせいにしたくて選ばないのか?」
「ちがっ……!」
「ならばどうする? このままだとイリスに責任を押し付けることになるぞ」
「……!」
ノワールの青白い手がプルプルと震える。服を強く握りしめすぎて、皮膚が破れそうだった。
「ぼく、は」
ノワールの頬に透明な線が一筋伝う。
「つばさ、切る、いやだ……っ」
口を開く度に溢れる涙。ぽろぽろ、ぽろぽろと際限なく溢れる宝石は、普段の貼り付けた笑みの何倍も美しかった。
「でも、のこす……してもっ、空、飛べない……。空飛ぶ、夢、あった、のにっ!」
いつか空を飛んでみたい。それがノワールの数少ない意思であり、夢だった。
日常の大半は檻の中。檻から出ても鎖に繋がれ、空にはどうやったって届かなかった。
重い鎖が外れたら、元気になったら。あの青い世界に飛び込む想像をしたら、どんな現実にも耐えられたのに。
「飛べない、なら、どうする、いい、わかる、ない……」
「……ああ」
「ごめ、なさい……」
「いや、私もすまなかった。辛いことを言わせてしまった」
ノワールは俯きながら、首を勢いよく横に振る。意地の悪い質問をしてきた相手だというのに。
ブランは苦笑すると、ノワールの涙を拭った。泣き腫らした目元の赤が、彼が生きている他でもない証拠だった。
ノワールの意思はわかった。『翼は切りたくない。だが残したとしても死ぬだけなので、どちらを選ぶべきか分からない』——檻から出たばかりの子どもには、有り余るほどの苦難。ノワールのため、そしてブラン自身のため、何か手はないかと思案に耽ったときだった。
白い羽根が舞い落ちたのは。
「……あるな」
「……?」
「あるぞ。君が空を飛ぶ方法」
ノワールの瞳に光が射す。涙が光を反射し、まるで夜空を閉じ込めたようだった。
ブランは立ち上がると、ノワールに向けて微笑んだ。
「外へ行こう。一面の青を見に」




