11.空
「空を飛ぶために必要なもの、何だと思う?」
空を飛ぶため、ノワールとブランは宿の中庭に来ていた。中央で背を伸ばす一本の針葉樹。水脈のように広がる枝葉のおかげで、目的の空がより遠くに感じられる。
ブランは説明と並行して、事前準備——防寒対策を進めていく。
軍服を脱いではノワールへ、脱いではノワールへ。上半身が黒のタートルネック一枚のブランに対し、ノワールは彼の抜け殻でぐるぐる巻きの状態だった。最初は断ったノワールだが、風邪をひくとイリスに怒られるぞと言われれば折れざるを得なかった。おかげで視界が白一色である。
軍服からぷはっと顔を出し、ノワールは薄着になったブランを見る。
「つばさ、まりょく……です」
「正解。——だがただの魔力ではない。風の精霊ヴァンの加護を宿す魔力だ」
有翼人は風の精霊に好かれる傾向がある。大半は生誕時に加護を授かり、残りも五歳を迎えるまでには自然に授かる。有翼人で加護を持たぬ者はまず居ない。
「風の魔力を全身に纏わせ、気流を作る。体の割に翼が小さくとも飛べるのはそういう理屈だ」
ブランがノワールを手招きし、首に手をかけさせる。膝裏と肩に手を添え、ノワールを軽々と持ち上げた。それにしても。
「……軽すぎないか?」
「……」
ブランに怪訝な顔を向けられるが、ノワールはそれどころではない。
手に感じる筋肉の厚み。優しい栗色の瞳に、毛穴ひとつ見えない肌。どこからか規則的なリズムも感じる。初対面時以来の至近距離に、ノワールの心臓はドッと早鐘を打つ。
「——ル、……ノワール!」
「っ!」
何度も名前を呼ばれていたらしい。栗色の瞳に見つめられ、ノワールはハッと我に返る。
恩人を無視するというとんでもない失態。かぁっと顔に熱が集まる感覚に、ノワールは目眩を覚えた。
「ごめ、なさ……」
「いや、謝るほどでは……体調が優れないならやめておくか?」
「ち、ちがう、ますっ……ブランさま、きれい、きんちょう、つい……」
顔を赤面させ、視線を逸らすノワール。最初は首を傾げるブランだったが、『綺麗』、『緊張』で腑に落ちた。顔に血が昇る感覚に、ブランもグッと口を引き結ぶ。
「……綺麗と言うなら君の方が、……いや、何でもない」
「?」
今度はブランが赤面し、黙り込む番だった。
容姿を褒められるなど日常茶飯時。しかし大抵本当の狙い——ブランの人脈や地位が目的なので、赤面することはない。むしろ狙いを探るため、無表情に拍車がかかるくらいだ。
だがノワールは違う。少ない語彙から最も適当だと思うものを選ぶため、一言ひとことが真っ直ぐで重みがある。加えて微笑みが標準装備の美人ときた。この顔で他意なく褒められれば、誰だって赤面くらいする。自意識過剰な者ならば、自分に気があると勘違いするのではないだろうか。
軽率に褒めない方が良いと注意するべきか。数日前に会ったばかりなのに踏み込みすぎか。あらゆる可能性を考えた結果、ブランは咳払いに留めた。未だ首を傾げるノワールを抱え直す。
「空を飛ぶんだったな。しっかり掴まっていなさい。落としてしまうといけないから」
「!」
ノワールはハッとし、首に回す手に力を込める。黒髪が顔に触れる程近づいたが、ブランは動じない。距離が近い方が安定するし、仮に落とした時のイリスの反応を考えると、ドキドキよりも屈辱が勝った。
ブランは目を閉じ、鳥の鳴き声もかき消すほど意識を集中させる。魔力を全身に巡らせ、足元にぶわりと風の渦を巻き起こした。
「木にぶつからないよう努力はするが、全ては防ぎきれない。私がいいと言うまで、目をつぶること」
いいね? と囁かれ、ノワールはキュッと目を閉じて頷いた。
準備は万端。ブランは翼を広げると、足元の気流を押し返すように羽ばたいた。
気流に押され、葉は自ら道を作る。ガサガサガサッとこすれる音が耳に響くが、想像していた痛みはない。ブランが翼と魔力で防いでいるのだ。
音が聞こえなくなると、瞼にパッと光が射す。肌を撫でる冷たい風。雪でも降ったのだろうか。冬にも似た冷たい匂いが、鼻をツンとくすぐった。
「——いいぞ、目を開けなさい」
ブランに促され、ノワールはそっと夜色のまつ毛を震わせる。ドッドッと急かす心臓のリズムに合わせ、瞼の先へと目を開けた。
「……っ!」
海から広がる青の世界。頭上をぐるりと青が覆い、果ても見えぬほど続いていく。
放射状の太陽はこちらへ来いと手を伸ばし、ノワールを暖かく包み込む。
眼下の街並みはすっかり姿を変え、自分が巨人にでもなったかのように錯覚させた。
これが上空。ノワールが夢見た世界。
口をあんぐりと開け、夜色の瞳をキラキラと輝かせるノワール。普段の微笑みはもうはがれ落ちている。生きてここに居ると、心が全力で叫んでいた。
全身全霊で喜ぶノワールを前に、ブランもフッと笑みをこぼす。
「綺麗か?」
「はいっ……! ありがと、ござます、ブランさまっ……!」
表情そのまま振り返ったノワールに、ブランはピシリと硬直した。脳内に『破壊力』とでかでかとした文字が躍る。
しかし命を預かっている身。すぐさま理性を手繰り寄せ、いつもの無表情を取り戻す。
「また飛びたければ、私を呼びなさい。休日で良ければいくらでも付き合おう」
「でも……」
「悪いなどと思わなくていい。空を好むのは有翼人の本能。私も良い気分転換になる」
空を飛びたいノワールと、机仕事に追われ、羽根を伸ばしたいブラン。WIN-WINの関係に思えるものの、やはり申し訳なさの方が勝ってしまう。
答えに迷うノワールに、ブランは優しく語りかけた。
「……空を飛ぶために必要なもの、何だと思う?」
「?」
先程と一言一句同じ問い。ノワールは首を傾げながらも、彼から教えられた答えを出した。
「つばさ……、風のカゴ、ある、まりょく……です」
「正解。風の加護があってはじめて、私たちは空を飛べる」
つまり、とブランは微笑んだ。
「一人で飛べる者など、この世には存在しない」
「!」
「皆、精霊がいないと飛べないんだ。一人くらい、抱えられて飛ぶ有翼人がいたって良いじゃないか。少なくとも私はそう思う」
「……」
水平線を眺めるブランに倣い、ノワールも潮の香りがする方角へと視線を向ける。
ずっと独りでもがいてきた。殴られるのは自分のせいだし、お腹が空くのも自分のせい。空が飛べないのも、体力がない自分のせい。自分が不甲斐ないから、そのような目に遭うのだと思っていた。
けれどブランは、独りで背負わなくていいと言ってくれる。ノワールの狭い世界を、隣に座って広げてくれる。
あるはずのない鎖が、パキパキと砕ける音がする。もう地上には繋がれていない。そもそも存在しない。あの日、ブランが壊してくれたのだから。
軽くなった身体で、ノワールはブランにギュッと抱きついた。鎖で日焼けしていない足首が、風に撫でられてくすぐったかった。
「ありがと、ござます。ブランさま」
「っ……ああ」
「ぼく、つばさ、切る」
「!」
身体を離すと、瞠目して固まるブランがいた。本当に表情がころころ変わる。ノワールはおかしくなって、自然と笑みがこぼれていた。
「また、ぼくと、飛ぶ、くれますか?」
「……ああ」
ブランの顔に、パタパタと雫が落ちる。雨は降っていない。心当たりがあるとすれば、ノワールの頬を伝う冷たい感触だけ。
光る水平線よりも美しい泣き顔に、ブランは応えるように微笑んだ。
「いくらでも——ノワール」




