37.信条と現実
シトロン・ギルベール、十八歳。一週間程前から、ブランの家で働き始めた従僕である。
働き始めたとはいっても、シトロンは子どもの頃、ブランの家で見習いをしていた。
ギルベール家は、代々モネ家に仕えてきた一族。母が仕えているのだから、シトロンも仕えることに疑問を持たなかった。むしろ仕えさせてほしいと願う程、シトロンはブランを尊敬していた。
巷では犯罪者の息子だ、悪魔だと好き勝手言われているが、そんなことはない。見習いだからと遠ざけず、思うようにやってみなさいと挑戦させてくれる優しい人。マナーなども教えてくれたブランは、シトロンにとって仕えるべき主であり、齢の離れた兄のような存在だった。
ブランを支えられるような存在に。そう思うのに時間はかからなかったし、修行のため、他家への奉公にも喜んで行った。
すぐに後悔したのだが。
『——侯爵ってイケメンだよね! サービスしたら番になれないかな?』
『おまえどの夫人狙ってる? やっぱ寝取るなら清楚系だよな!』
同期たちが無礼なこと、無礼なこと。奉公一日目にして、シトロンは帰りたくて仕方がなかった。
使用人とは、主を支えるためにいる存在。間違っても主に害を成したり、利用したりしてはならない。同列に並ぼうとするなど、論外である。
しかしこの奉公は、祖母の紹介で実現したもの。一日で帰るなど、祖母にもブランにも顔向けできない。シトロンは殺意を覚えながら、奉公に励んだ。
ちなみにこの同期たちは、気づいたときには消えていた。自分からか他人からかは分からないが、奉公先から追い出されたのだ。碌な将来は待ってはいまい。
そんなストレスフルな日常でも、娯楽はあった。仕事中、たまたま拾ってしまった恋愛小説である。それも男同士の。
有翼人の国ヴォラティルでは、同性同士の結婚も認められている。実際結婚しているのは、後継問題から縁遠い庶民ばかりだが。
先も述べたとおり、シトロンは主と使用人の恋愛など、断固反対派である。
しかしフィクションなら。どんな身分差でも現実に影響は出ないし、むしろ越えられない大きな壁にときめきを覚える。
シトロンは恋愛小説——BL本にのめり込んだ。自分一人で読めるようになりたいと、独学で読み書きをマスターする程。幸い奉公先には、共通の趣味を持つ仲間がいた。その人のおかげで、高価な本をいくらでも読むことができた。
そんなこんなで無事終えた奉公兼、修行。これでブランの役に立てる。意気揚々とターブルロンドに帰還したあの日、出会ってしまった。
フィクションを超える存在に。
濡れ羽色の髪に太陽を知らぬ白い肌。男にしては華奢で、一般女性より低い身長。泣いていたせいだろうか。頬は赤く染まり、庇護欲を掻き立てられた。
——事後?
シトロンが、ノワールを初めて目にしたときの感想である。
先にも述べたとおり、シトロンが楽しむのはフィクションである。現実の男に萌えたりはしない。
そんなシトロンが想像してしまった。相手は誰か。出会いは。歳の差は。やはり一途でどろっどろに溺愛してくれる男がいい、と。
想像しただけでも驚きなのに、その子はブランの養子——仕えるべき主ときた。使用人は、主を利用してはならないのに。
しかしノワールを目にする度、妄想は湧いてくる。
体調を崩し、心身ともに弱るノワール。そこに現れるスパダリな攻め。大丈夫だ、すぐに良くなる。元気になったら散歩でもしようか。そう言って涙の跡が新しい頬に触れ、熱で熱くなった唇に近づく……。ここまでを、ほんの一瞬目にしただけで想像してしまう。主を利用してはならないのに!
これは物理的に離れるしかない。そう考えたシトロンは、徹底的に距離を取った。皆が面倒に思う仕事を進んで引き受け、業務量で妄想を消す。ノワールは妄想に利用されないし、シトロンは使用人としてあるべき姿に戻れる。メリットしかない。
そんなわけで、シトロンはノワールを避けていたのだ。
まさか、ノワール本人に捜されているとは思いもしなかったが。




