34.体調不良
翌日も仕事になったと聞き、ノワールは静かに頷いた。やはりブランは相当忙しいらしい。何も力にはなれないが、せめて見送りはしよう。張り切って眠ったノワールだったが、現実はそう上手くいかなかった。
発熱である。
寝所と化したソファの上で、ノワールは重い身体を横たえていた。手首に付けた魔導具がピピ、と震える。ブランは表示された数値に眉根を寄せた。
「三十七度四分……」
「ベルニエ先生によると、術後は熱が出やすいそうですが……」
ブランたちがノワールの顔を覗き込む。顔は赤く染まり、こめかみには汗が浮かんでいた。夜色のまつ毛がフルフルと震えるのを見て、ブランはグッと手を握りしめた。
「イリスに連絡は?」
「取りましたが……本日は夕方しか空きがないと」
「夕方……」
「幸い微熱ですし……ベルニエ先生がいらっしゃるまで、屋敷で安静になさった方がよろしいかと」
「……」
しばらくノワールを見つめていたブランだったが、突然スッと立ち上がった。部屋を出ていこうとする背に、アメリーたちは慌てて声をかける。
「坊ちゃま!」
「どちらへ」
ブランは振り返ることなく、用具室と答えた。扉の取っ手に手がかかる。
「休暇申請を出してくる」
「!」
休暇、つまり休む。アメリーとシュヴァリエは目を見開くと、慌てて駆け出した。今にも出ていこうとするブランの手をガシッと掴む。
「いけません! ご自分の立場をお分かりですか!」
「古代さまがいらっしゃらない今、最高責任者は坊ちゃまですぞ!」
「別に私がいなくともどうとでもなる」
扉の前で攻防を続ける三人。しかしブランは一番の若者。現役の軍人。おじさん、おばさん世代のアメリーたちが敵う相手ではない。
振り払われてしまったアメリーたちは、グッと歯を食いしばった。こうなったら最後の手段。手を固く握りしめると、坊ちゃま! と喉を震わせた。
「この家を支えているのは坊ちゃまですよ!」
ブランの手がピクッと震える。そう、分からない訳がない。頭の良いブランなら尚の事。主の反応に、アメリーは口角を上げた。ノワールが横たわるソファにそそくさと近寄る。
「この家は坊ちゃまの稼ぎで成り立っています。ターブルロンドでも別格の高収入ですが、先日のお買い物」
「……」
忘れたとは言わせない。当時の阿鼻叫喚を思い出し、アメリーはキッと睨みつけた。
「大量の最新式魔導具……坊ちゃまが見栄を張られたせいで、金庫はほぼ空でございます」
手術前、要安静のノワールを空に連れて行った時のことだ。軍人として相応しくない行動、かつ迷惑を被った医療部隊への謝罪として、ブランは寄贈という形を取った。当初は医療用魔導具数十点を寄贈する予定だったが、『アンタの誠意ってそんなモン?』とイリスに喧嘩を売られた。どうせ寄贈するなら最新式に変えてやる。癪に障ったブランは、予算を大幅に上げて寄贈してしまったのだ。
重ねてノワールを迎えるための家具代、医療費その他諸々。金庫はもうすっからかんだった。
「坊ちゃまがお仕事に向かわねば、金庫は空のまま。お屋敷は維持できず、使用人も解雇。資産も売らねばなりません」
「……」
「私共が路頭に迷うのはともかく、ノワールさまにまでお辛い思いをさせるのですか! 今もなお、術後の後遺症に苦しまれているのに!」
あんまりです! とアメリーは口元を覆った。もちろん嘘泣きである。シュヴァリエの冷めた視線が痛い。
しかしやめるわけにもいかない。すべては賃金とノワールのため。アメリーはきつく閉目して演技を続けた。
「ああ、おいたわしやノワールさまっ……坊ちゃまがお仕事に向かわれないばかりにっ」
「……アメリー」
「ですがご安心ください! 坊ちゃまがおらずとも、このアメリーが働いて、」
「アメリー、待て。聞け」
ブランがこちらに手を突き出す。チャンスである。アメリーは内心でほくそ笑んだ。
「行く、行くから静かに」
「まあっ、本当ですか! 安心いたしましたわ! そうと決まればすぐに向かわなくては!」
「ちょ、」
「お仕事道具はこちらですね! お召し物もこちらに!」
「アメ、」
「ノワールさまのことはご心配なさらず! 看病は坊ちゃまで慣れておりますから!」
では! と言って、アメリーはブランを追い出した。反論の隙も与えない、ベテランの技だった。
やりきった。アメリーが汗を拭うと、シュヴァリエは乾いた笑みをこぼした。
「アメリーさんには敵いませんな」
「褒め言葉と受け取っておきますわ」
ふふ、と微笑むアメリーに、シュヴァリエは背筋を震わせた。やはり彼女だけは敵に回してはいけない。
しかしブランが稼がねば困るのも事実。シュヴァリエは心の中で、ブランに激励を送ったのだった。
◇◇◇
ブランを強制的に追い出してから約四時間。昼になっても、ノワールの体調は芳しくなかった。
「三十七度三分……」
「なかなか下がりませんね……」
うーん、と頭を悩ませる使用人たち。アメリーは片膝をつくと、横たわるノワールに視線を合わせた。
「ノワールさま、体調はいかがですか」
「……」
ノワールの瞼がゆっくりと開く。ぼんやりとした涙目が、ゆらゆらとアメリーの方を向いた。
「……からだ、おもい……」
「お辛いですね……他には?」
「……さむい、かも」
「寒い?」
また熱が上がるかも。アメリーは部屋を見回すと、クローゼットへと駆け出した。この際何でも良いと、ブランのローブを手に取った。布団に包まる細い体に、上からローブをかける。
「食欲の方はいかがですか? 何か召し上がれそうな物はございますか?」
「……」
フルフルと首を横に振るノワール。赤みの引かない顔に、アメリーは眉尻を下げた。
ノワールは食が細い。普段ならスープと他数口だが、今朝はパンを三口程。細い食がさらに細くなってしまった。何か少しでも腹に入れないと、体調は悪くなる一方。食後の薬も飲めやしない。
せめてスープだけでも。そわそわと落ち着かない室内に、コンコンコンとノックの音が響く。扉を開ければ、トレーを手にしたフォシーユの姿があった。温かい香りが鼻をくすぐる。
「フォシーユ? この香りは……」
「家政婦長、私にチャンスをいただけないでしょうか」
体調不良といえばこれ。実家で食べた思い出のスープを、アメリーの前に突き出した。
汗を滲ませ、ギュッと目をつぶるフォシーユ。真剣な面持ちは、ノワールを真に思う証拠。アメリーは微笑むと、通れるように扉を開けた。
「どうぞ」
「! 家政婦長!」
フォシーユが瞳を輝かせると、アメリーは耳元に近寄った。ノワールに聞こえないよう、細心の注意を払う。
「今は少しでも召し上がっていただかないと。頑張って」
「はいっ」
アメリーに背中を押され、フォシーユは一歩踏み出す。中央のソファを覗けば、布団とローブで作られた繭が出来上がっていた。
テーブルにトレーを置き、繭の中身へと声をかける。
「ノワールさま、フォシーユでございます。スープをお持ちしました」
「……」
「よろしければ、香りだけでもいかがですか」
きゅるる、と細い音を響かせる繭。もぞもぞと動き出すと、中から真っ赤な顔が生えてきた。形の良い鼻がすんすんと鳴る。
「こちら、オニオングラタンスープでございます」
チーズから上がる香ばしい湯気。フォシーユが体調を崩した際、実家の母が作ってくれた特別なスープだった。
潤んだ瞳にスープが映る。起き上がるのを支えると、熱い手にスプーンを持たせた。スープを近づけ、湯気の立つ水面に銀を刺す。曲面の上には、スープを吸ったパンとチーズが乗っかっていた。
そろりと一口。ノワールはビクッと目を見開くと、慌てて息を吐き出した。はふはふと呼吸を繰り返した後、ゴクリと嚥下する。
火傷の危険。フォシーユが慌てて謝罪すると、ノワールはホッと顔を綻ばせた。
「……おいしい」
「っ、」
フォシーユは目を見開くと、うるうると宝石のように輝かせた。唇をキュッと引き結び、上がる口角を何とか押さえる。
母さんありがとう。フォシーユは本国の母に感謝を贈った。
スプーンの止まらないノワールと、感動で打ち震えるフォシーユ。見守っていたアメリーたちは、ホッと息を吐いたのだった。
◇◇◇
不快な暑さに瞼を開ける。外はまだ明るい。どれくらい眠っていたのだろう。誰かに尋ねようと視線を彷徨わせたが、部屋には誰もいなかった。ノワールの胸を、風の吹くような冷たさが襲う。
ふと、机の水差しが目にとまった。そういえば喉が渇いたかも。震える手を水差しに伸ばせば、振動が伝わってしまったらしい。カシャンと横に倒れてしまった。貴重な水が、テーブルを伝って絨毯にシミを作る。
あっ、と身体を動かした拍子に、黒いローブがずり落ちた。アメリーがかけてくれた、ブランのローブ。床に落とした上に、こぼした水を吸ってしまった。拭く物はない。人もいない。自分一人で何とかしなくてはならないのに、体が重くて思うように動かない。
どうしよう。悩んでいる間にも、絨毯のシミは広がっていく。罪悪感は不安へ。ノワールはローブを握り締めたまま、静かに涙をこぼしていた。
食事を全て食べなかったから、怒らせた? 熱が引かないから、呆れさせた? 決してそんなことはないのに、熱でぼんやりした頭は悪い方向にばかり繋げてしまう。
「……っ、っ」
ひくひくと喉が鳴る。ブランに会いたい。誰か助けに来て。抱きしめたローブに、ノワールの涙が滲んでいく。
願っても願っても誰も来ない。もう捨てられてしまったのかも。ノワールの涙が、誰にも気づかれずこぼれ落ちたときだった。
『ショウガネェナア』
耳に届く、鈴の鳴るような声。ノワールがハッと顔を上げたときには、そこには誰もいなかった。
ただ一瞬、小鳥の飛び立つ姿が見えた気がした。
◇◇◇
小鳥はパタパタと空を舞う。行き先は決まっている。定位置のバルコニーから離れた、人間の巣。目当ての巣の前に、目当ての白翼を発見し、小鳥は大声を張り上げた。
『至急、至急! 坊チャマノ部屋デ泣イテイル少年アリ! 坊チャマノ部屋デ泣イテイル少年アリ!』
一般の有翼人なら耳を貸さない。今日も元気だねと言われて終わるだけ。
しかし彼は違う。小鳥は青年の前に降り立つと、活を入れるように囀った。
『慰メロ! 慰メロ!』
「うおっ」
青年がビクッと肩を揺らす。やはりコイツがいないと、と小鳥は目を細めた。
『至急、至急!』
「分かったから静かにしろって……」
まったく、と呟くと、青年は荷物を家の中へと押し込んだ。
「『坊ちゃまの部屋で泣いている少年』……子どもでも雇ったのか?」
雇用先の屋敷を眺め、青年は目を細める。至急! と再度叫ばれ、青年は慌てて屋敷へと向かったのだった。




