32.鳥の声、あなたの本音
どこからか鈴の鳴るような声がする。おはよう、おはようと、早い目覚めを期待する声。スッと鼻から息を吸えば、落ち着く香りが肺一杯に広がった。優しくて温かい、あの人の匂い。安心して目覚められる。ノワールは手を伸ばすように、ゆっくりと瞼を開けた。
「……?」
視界を埋め尽くす黒い壁。何度瞬きを繰り返しても、目の前の光景は変わらなかった。夢ではない。ならばこの壁は一体。目を凝らすノワールに、上から声が降ってきた。
「おはよう」
「?」
「よく眠れたか?」
声の方向を見上げれば、こちらを見下ろすブランの顔。視界一杯の美貌は、寝ぼけた頭を急速に起動させた。
「……ッ!?」
「の、」
急に上体を起こしたことで、本調子でない身体がぐらりと揺れる。手を伸ばした先に支えがない。落ちる、そう覚悟し、ギュッと目をつぶったときだった。
ガッと腰の辺りを支えられる感覚。待てども待てども衝撃は来ない。ノワールは恐る恐る瞼を開けた。
「き、みは……」
「!」
「時折、予想外の行動をするな……」
上から覆いかぶさるたくましい身体。ふわりと香る優しい匂いに、救われたのだと理解した。
ブランは安堵したように息を吐くが、ノワールはそれどころではない。腰に回る太い腕。寝巻きからはだける意外な筋肉。汗の一粒まで見える程の、鼻先が触れる距離。いつものブランとは違う一面に、ノワールの頭は沸騰寸前だった。
恥ずかしい。お礼を言わなきゃ。近い。その前に謝罪? 混乱しすぎて固まるノワールの耳に、バァンと重みのある音が届いた。
「坊ちゃま!? 大きな音がしましたが、何か、」
「アメリー」
扉を開いたまま固まるアメリーの姿。彼女ならこの混乱もどうにかしてくれるかもしれない。ノワールが潤んだ瞳を向けると、アメリーはヒュッと息を呑んだ。
「まずはノックを、」
「キャーーッ!!!!!!」
鋭く響く、甲高い声。その悲鳴は、遠方にある使用人の家まで届いたという。
◇◇◇
「大ッ……変、失礼いたしました……」
アメリーが深々と頭を下げる。ブランは横目で捉えると、カトラリーを置いてため息を吐いた。
「一線を超えられたとばかり……」
「おかげで軍に捕まるところだった」
「申し訳ございません……」
アメリーの頭が益々下がる。あまりの低姿勢に、ノワールは内心ハラハラしっぱなしだった。
屋敷中に悲鳴を響かせた後、アメリーは震える足で駆け出した。行き先は用具室。通信用魔導具で軍に通報しようとしたところを、追いかけてきたブランに止められたのだ。最後は騒ぎを聞きつけた他の使用人も集まり、数人がかりで止められていた。裏を返せば、それほどノワールを守ろうとしたともいえる。
ブランもそれを理解しているのだろう。アメリーを一瞥すると、早々に許しを出した。アメリーの頭が上がり、ノワールもホッとする。
「今後は憶測で動かないように」
「はい、失礼いたしました」
アメリーは謝罪すると、ピシッと背筋を伸ばした。普段と同じ、凛とした佇まい。心なしか、他の使用人も雰囲気が和らいだ気がする。
食堂に流れる、穏やかな時間。この空気ならと、ノワールは隣に座るブランに視線を向けた。
「ブランさま」
「ん?」
ブランの栗色の瞳がこちらを向く。やはり怒っていない。ノワールは安心して口を開いた。
「『イッセンヲコエラレタ』……って、なに、ですか?」
穏やかな空気に入る確かな亀裂。ノワール以外、すべての時間が止まったかのようだった。ブランに不都合なことなら、自分も気をつけなければと思ったのだが。
視線をきょろきょろと彷徨わせるノワールに、ブランはしばらくしてから口を開いた。
「……カトラリーの使い方から覚えなさい」
握るというより添えるだな、とブランはノワールの持ち方を訂正した。壁際では、アメリーが顔を覆って謝罪していた。
◇◇◇
朝食を終えると、ノワールたちはブランの自室に戻った。自分の部屋に入ろうとするノワールに、ブランは首を横に振った。
「ベッドが新しくなるまでは、私の部屋を使いなさい。見知らぬ者が出入りして、落ち着かないだろうから」
ノワールが頷くと、ブランは自室へと背中を押した。本当は吐いたことによる換気も理由にあるのだが、そこまでは伝えなかった。ノワールは責任を感じやすい性格だ。馬鹿正直に伝えることが、本人のためになるとは限らない。
とはいえ、とブランは内心でため息を吐いた。見慣れた部屋をぐるりと見回す。
必要最小限の家具。予備の仕事道具一式。子どもには相応しくない軍事関係の書物の数々。
面白みが何一つない。
事前におもちゃのひとつでも用意しておくんだったと、ブランは内心で独りごちた。おもちゃで遊ぶほど、ノワールは子どもでもないのだが。
何か暇を潰せる物。ブランがしかめっ面でうろうろしていると、くいっと服を引かれた。視線を向ければ、遠慮がちに見つめるノワールの姿があった。片膝を付き、ノワールの視線に合わせる。
「どうした?」
「ブランさま、おなか、すいた、ですか?」
「?」
朝食なら先ほど終えたばかり。まさか足りなかったのかと考えて、ブランは首を振った。
ノワールは超がつくほどの少食だ。本来ならもっと食べてほしいところ、大抵スープと他数口で満腹になってしまう。先ほども申し訳なさそうに残していたし、足りないということはないだろう。
ならば何故、と考えて、鈴の鳴るような声にハッとした。窓の外へと視線を向ければ、ニ羽の小鳥がバルコニーで歌っていた。
『オナカスイタ、オナカスイタ』
間違いない。ブランは微笑むと、ノワールの背に手を添えた。
「私ではなく、あの鳥だな」
「とり?」
首を傾げるノワールに、バルコニーの窓を開けてやる。足元に来た小鳥は、相変わらず腹がすいたとさえずっていた。
「ここらの鳥は私たちと祖先が近いようで、少しだが声を理解することができる」
『オナカスイタ』
『オハヨウ』
「だが一方的だ。食事の要求や挨拶ばかりで、こちらの声はあまり理解してくれない」
食事は使用人が与えていると頭を撫でれば、ノワールは安心したように微笑んだ。いつか自分の食事まで鳥にやるのではないかと心配になってしまう。
ノワールは小鳥の前にしゃがみ込むと、恐る恐る口を開いた。
「……おはよ、ございます」
『オハヨウゴザイマス』
『オナカスイタ』
「おなか、すいた、ですか?」
『オハヨウゴザイマス』
「……っふふ」
おなかすいた、ちがうの? とノワールが笑うので、ブランも自然と微笑んでいた。が、ノワールの黒翼に目が行くと、無意識のうちに表情が引き締まる。
「……ノワール」
「?」
笑みを浮かべながら首を傾げる姿に、ブランは目を細めた。覚悟の足りない喉を叱責し、何とか言葉を紡ぐ。
「ご両親が見つかったら……そちらに行きたいか?」
ブランたち有翼人は、祖先が近い鳥の言葉を聞ける。裏を返せば、言葉が分かれば出身地も分かるということだ。
ブランたちは白翼だ。北に多く、有翼人の大半を占めているという。
一方ノワールは黒翼だ。有翼人には珍しいが、いないわけではない。大陸から離れた東の島国。渡り鳥を祖先に持つ彼らは、血筋関係なく鳥の言葉を理解できるという。
黒翼で北の鳥と話ができるということは、ノワールの血縁は東出身者の可能性が高い。東の島国とは交流があるし、依頼すれば両親も見つかるかもしれない。
しかし見つかったら。両親のもとへ行きたいと言われたら。ブランは嫌でもノワールの手を離さなければならない。
いつの間にここまで入れ込んでしまったのだろう。本音を飲みのみ、ブランはグッと口を引き結んだ。
ノワールは数回瞬くと、コテンと首を傾げた。
「いく、ないです」
「!」
「ブランさま、いっしょ、うれしい、から」
何故そんなことを? とでも言うように見つめてくるので、ブランはそっぽを向いた。
「……そうか」
再度確かめるようにそうか、と呟くので、ノワールはさらに首を傾げた。何が言いたいのか分からず、眉毛を寄せて観察する。
結局ブランの真意は分からず仕舞い。しかし耳を赤く染めた珍しい姿を見れたので、ノワールは疑問を忘れて微笑んだのだった。




