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黒翼の番  作者: 市川 九
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31/41

31.うれしい

 後処理を任せたブランは、自室の扉をゆっくりと閉めた。見慣れた部屋で縮こまる、見慣れない子ども。まさか使用人以外で、この部屋に人を招く日が来ようとは。何の面白みもない部屋だが、あの饐えた匂いのする部屋に置いておくよりは良い、はず。

 床に座る頼りない背に、ブランはそっと手を添えた。

「大丈夫か? 水は?」

「いらな、です……ごめ、なさい……」

 丸い背がさらに丸くなる。ブランは励ますため、大丈夫、大丈夫と声をかけ続けた。

「私が驚かせたんだ。慣れない家で緊張していただろうに……本当にすまない」

「……」

 謝罪しても、ノワールはうんともすんとも言わなかった。ただ膝を抱えこみ、顔を埋めるだけ。その丸い背が、ブランの目には痛々しく映った。

 とりあえず床は駄目だ。冷えた身体がさらに冷えてしまう。椅子かベッドにでも座らせようとしたときだった。

「……なさい」

 ノワールがポツリと何かを呟く。小さすぎてよく聞き取れない。ブランは熟考の末、ノワールの隣に腰を下ろした。ノワールと同じように、膝を抱えて座り込む。

「ごめ、なさい……」

 視線が近くなれば、声も聞こえるだろうという予想は的中した。窓の外で輝く月は、ブランが失敗しないよう監視しているようだった。

 別に誤るつもりもない。ブランは月を睨みながら、努めて優しく声を出した。

「謝らなくていい。君は何も悪くない」

「で、も……めいわく、かける、ばっかり。きょうりょく、する、が……かぞく、なのに」

 迷惑。迷惑とは。ブランは記憶を手繰り寄せた末、ノワールに眉根を寄せた。

「迷惑をかけられた覚えがないのだが」

「っ、」

「協力も……十分してくれている。自信を持っていい」

 キュッと自身の服を握りしめるノワール。これは信じていないなと、ブランは目を細めた。

「過去について話した日……君は私のことを、『怖くない』と言ってくれたろう」

「……」

「救われた気がしたんだ」

 ノワールの顔が弱々しく上がる。月明かりに照らされた潤んだ瞳。やっと見られた愛しい顔に、ブランは自然と微笑んでいた。

「私は罪人の息子だ。昔から恐怖の目を向けられてきたし、一生それで良いと思っていた。私が恐れられるということは、奴隷制度に反対する者が増えている証拠だから」

 だが、とブランは呟いた。

「君に『怖くない』と言われて、久々に心の存在を認識した。私は痛みに鈍いのではなく、痛みから目を逸らしていただけだったと」

「……」

「君は『罪人の息子』ではなく、ただの『私』を見て、寄り添ってくれた。それにどれだけ救われたことか……私の人生は、間違いじゃなかったと思えたんだよ」

 だから、とブランはノワールの目元を撫でた。色白の肌に、ポロっと一筋の涙が伝う。

「君はいてくれるだけで、私を救ってくれている」

「!」

 際限なく涙が溢れる。月明かりに照らされた涙は、宝石のようだった。

「君が君自身を否定するなら、私はいくらでも肯定しよう。君は迷惑なんかじゃない。悪いところもない。共に過ごしてきた私が証人だ」

 ブランに頭を撫でられ、ノワールの頑なだった心も解れていくようだった。堪らずブランの手を掴むと、ブランはそのまま抱きしめてくれた。温かい腕の中、大丈夫、大丈夫という声が、過去のノワールも抱きしめてくれているようだった。


 ◇◇◇


 涙も枯れ果てた頃、ノワールは辿々しく説明を始めた。

 食事が綺麗にできないこと。広いベッドが苦手なこと。それらすべてが、ブランたちを恥ずかしめているようで辛いこと。

 ヒクヒクと煩い喉でも、ブランは辛抱強く聞いてくれた。最後まで話し終えたノワールの頭を、労わるように優しく撫でる。

「話してくれてありがとう、ノワール」

「……」

「やはり君は、何も悪くない」

 え、と視線を向ければ、真剣な顔をしたブランと目が合った。金色にも見える鋭い瞳に、ノワールの胸が静かに跳ねる。

「まず食事は……これは私の推測だが、カトラリーの使い方を知らないんじゃないか?」

 ノワールの瞳がパッと見開かれる。伝えたこともないのに、何故分かるのだろう。眉根を寄せたノワールに、ブランは分かるとも、と微笑んだ。

「君の持ち方は、幼少期の私と同じだから」

「! ブランさま、も、しらない、かった……?」

「もちろん。私も子どもの頃は何も知らなかったよ。アメリーたちに何度しごかれたことか」

 視線を逸らし、どこか遠くを見つめるブラン。『しごかれる』の意味は分からなかったが、何か大変な思いをしたことは察した。

 何か声をかけるべきか。ノワールが迷っている間に、ブランは立ち直ったようだった。金色の眼に生気が戻る。

「つまるところ、知らないことを上手くできないのは当然だ。これから練習して、できるようになればいい」

 君が望むなら、次の食事から私が教えよう。ブランの申し出に、ノワールは瞳を輝かせて頷いた。練習は一日でも早い方が良い。

 何度も頷くノワールに、ブランはフッと笑みをこぼした。一生懸命話す姿は勿論だが、大きめの身ぶり手ぶりで表現する姿も好ましいのだ。

「次にベッドだが……これは完全に私たちに非がある。申し訳ない」

「っ、そな、こと……!」

「いや、用意する前に君の意見を聞いておくべきだった。辛いことを思い出さずに済んだだろうに」

 申し訳ないと顔を歪めるブランは、本当に自分を責めているようだった。責められるべきは、面倒をかけているノワールなのに。

「ちがう、ブランさま、わるい、ないっ……ぼく、きにする、しすぎ、だけ、ですっ」

「ノワール……嫌な記憶は、皆忘れられないものだ。気にしようとしなかろうと、嫌なものとして残り続ける」

「……」

「早急に新しいベッドを手配しよう。病院では眠れていたから……ああいうベッドの方がいいのだろうか」

 確かに病院のベッドは眠れた。何故眠れたのか考えるため、ノワールはあの白いベッドを思い浮かべた。

「……ひろい、ない、と……ふかふか、すくない、だった、かも……」

「広くなくて柔らかすぎないベッドか……了解した。念のためイリスにも意見をもらおう。傷に負担がかかるといけない」

「で、でもっ、いま、まま、でも……れんしゅう、すれば……おかね、かかる、し……」

 いつかは寝られるようになるかも。視線を彷徨わせるノワールに、ブランはきっぱりと言い切った。

「そんなことは練習しなくていい。金も気にするな。私はこう見えて稼いでいる」

 それは分かる、とノワールは内心で呟いた。こんな豪華な屋敷に住んでいて、稼いでいないなどあり得ない。

 お金を気にしているのとは少し違う。胸を張るブランに、ノワールはおずおずと口を開いた。

「ちが、くて……ぼくに、おかね、かける、はずかし、から……」

「恥ずかしい?」

「ふつう、どれい、おかね、かけない……」

 奴隷に金をかけるのは、購入時のみ。買ったあとは購入者の自由だ。床に寝かせようが、憂さ晴らしに使おうが、それこそ命だって購入者の自由。そんな存在にお金をかけるのは、同列の人として認めているようなもの。お金が勿体ないし、ブランたちが嫌われる要因を作りたくないのだ。

 俯くノワールに、ブランはハアとため息を吐いた。やはり面倒になったか。怒らせてしまったか。ビクビクと震えるノワールの前に、スッと大きな影が射した。

「まったく……」

「っ? ……っ?」

 ぐりぐりと頭を撫で回される。ようやく止んだかと思えば、今度は両手で頬を挟まれた。ブランの手の温かさが、肌を通してじんわりと伝わる。

「恥ずかしいものか」

「!」

「君は、私が望んで引き取ったんだ。誰が何と言おうと、君は一人の有翼人で、私の家族だ。私がそうあって欲しいと望んだ」

「……」

「だから私にできることは何でもする。例え君でも、文句は言わせない」

 大人しく幸せになりなさい、とブランは真剣な顔で言い切った。枯れた涙が再び湧き、月がぼんやりと滲み出した。胸がぽかぽかと温かくて、もはや熱いくらいだった。

 ぼろぼろと止まらぬ涙に、ブランは一転して目を剥いた。冷や汗を流しながら涙を一つひとつすくうので、ノワールの胸はさらに熱くなる。

「す、まない。また配慮に欠けた行動を、」

「ち、がう、です……」

 ノワールは首を横に振ると、胸を強く握り締めた。大切な人に伝えるため、震える喉を叱責する。

「ここ……ぽかぽか、あつい、くて……なみだ、とまる、ない、です」

 ヒクヒクと喉を震わせ、ノワールも涙を拭う。ブランはしばし固まると、ぎこちなく動き出した。大きな腕で、慈しむようにノワールを抱きしめる。ノワールと呼ぶ声が、身体に染み込んで心地が良かった。

「それはおそらく……『嬉しい』だと、思う」

「う、れし……?」

「優しくされたり、希望が叶ったり……その温かさを、人は『嬉しい』と表現する」

「……っ」

 ギュッと抱きしめられ、ノワールは何度も頭を押し付けた。身体中に広がる、優しい匂い。

 ノワールは腕の中で、何度も嬉しい、嬉しいと呟いていた。

 


評価を下さった方々ありがとうございました!

一気に増えていたのでエラーかと思いました……

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