31.うれしい
後処理を任せたブランは、自室の扉をゆっくりと閉めた。見慣れた部屋で縮こまる、見慣れない子ども。まさか使用人以外で、この部屋に人を招く日が来ようとは。何の面白みもない部屋だが、あの饐えた匂いのする部屋に置いておくよりは良い、はず。
床に座る頼りない背に、ブランはそっと手を添えた。
「大丈夫か? 水は?」
「いらな、です……ごめ、なさい……」
丸い背がさらに丸くなる。ブランは励ますため、大丈夫、大丈夫と声をかけ続けた。
「私が驚かせたんだ。慣れない家で緊張していただろうに……本当にすまない」
「……」
謝罪しても、ノワールはうんともすんとも言わなかった。ただ膝を抱えこみ、顔を埋めるだけ。その丸い背が、ブランの目には痛々しく映った。
とりあえず床は駄目だ。冷えた身体がさらに冷えてしまう。椅子かベッドにでも座らせようとしたときだった。
「……なさい」
ノワールがポツリと何かを呟く。小さすぎてよく聞き取れない。ブランは熟考の末、ノワールの隣に腰を下ろした。ノワールと同じように、膝を抱えて座り込む。
「ごめ、なさい……」
視線が近くなれば、声も聞こえるだろうという予想は的中した。窓の外で輝く月は、ブランが失敗しないよう監視しているようだった。
別に誤るつもりもない。ブランは月を睨みながら、努めて優しく声を出した。
「謝らなくていい。君は何も悪くない」
「で、も……めいわく、かける、ばっかり。きょうりょく、する、が……かぞく、なのに」
迷惑。迷惑とは。ブランは記憶を手繰り寄せた末、ノワールに眉根を寄せた。
「迷惑をかけられた覚えがないのだが」
「っ、」
「協力も……十分してくれている。自信を持っていい」
キュッと自身の服を握りしめるノワール。これは信じていないなと、ブランは目を細めた。
「過去について話した日……君は私のことを、『怖くない』と言ってくれたろう」
「……」
「救われた気がしたんだ」
ノワールの顔が弱々しく上がる。月明かりに照らされた潤んだ瞳。やっと見られた愛しい顔に、ブランは自然と微笑んでいた。
「私は罪人の息子だ。昔から恐怖の目を向けられてきたし、一生それで良いと思っていた。私が恐れられるということは、奴隷制度に反対する者が増えている証拠だから」
だが、とブランは呟いた。
「君に『怖くない』と言われて、久々に心の存在を認識した。私は痛みに鈍いのではなく、痛みから目を逸らしていただけだったと」
「……」
「君は『罪人の息子』ではなく、ただの『私』を見て、寄り添ってくれた。それにどれだけ救われたことか……私の人生は、間違いじゃなかったと思えたんだよ」
だから、とブランはノワールの目元を撫でた。色白の肌に、ポロっと一筋の涙が伝う。
「君はいてくれるだけで、私を救ってくれている」
「!」
際限なく涙が溢れる。月明かりに照らされた涙は、宝石のようだった。
「君が君自身を否定するなら、私はいくらでも肯定しよう。君は迷惑なんかじゃない。悪いところもない。共に過ごしてきた私が証人だ」
ブランに頭を撫でられ、ノワールの頑なだった心も解れていくようだった。堪らずブランの手を掴むと、ブランはそのまま抱きしめてくれた。温かい腕の中、大丈夫、大丈夫という声が、過去のノワールも抱きしめてくれているようだった。
◇◇◇
涙も枯れ果てた頃、ノワールは辿々しく説明を始めた。
食事が綺麗にできないこと。広いベッドが苦手なこと。それらすべてが、ブランたちを恥ずかしめているようで辛いこと。
ヒクヒクと煩い喉でも、ブランは辛抱強く聞いてくれた。最後まで話し終えたノワールの頭を、労わるように優しく撫でる。
「話してくれてありがとう、ノワール」
「……」
「やはり君は、何も悪くない」
え、と視線を向ければ、真剣な顔をしたブランと目が合った。金色にも見える鋭い瞳に、ノワールの胸が静かに跳ねる。
「まず食事は……これは私の推測だが、カトラリーの使い方を知らないんじゃないか?」
ノワールの瞳がパッと見開かれる。伝えたこともないのに、何故分かるのだろう。眉根を寄せたノワールに、ブランは分かるとも、と微笑んだ。
「君の持ち方は、幼少期の私と同じだから」
「! ブランさま、も、しらない、かった……?」
「もちろん。私も子どもの頃は何も知らなかったよ。アメリーたちに何度しごかれたことか」
視線を逸らし、どこか遠くを見つめるブラン。『しごかれる』の意味は分からなかったが、何か大変な思いをしたことは察した。
何か声をかけるべきか。ノワールが迷っている間に、ブランは立ち直ったようだった。金色の眼に生気が戻る。
「つまるところ、知らないことを上手くできないのは当然だ。これから練習して、できるようになればいい」
君が望むなら、次の食事から私が教えよう。ブランの申し出に、ノワールは瞳を輝かせて頷いた。練習は一日でも早い方が良い。
何度も頷くノワールに、ブランはフッと笑みをこぼした。一生懸命話す姿は勿論だが、大きめの身ぶり手ぶりで表現する姿も好ましいのだ。
「次にベッドだが……これは完全に私たちに非がある。申し訳ない」
「っ、そな、こと……!」
「いや、用意する前に君の意見を聞いておくべきだった。辛いことを思い出さずに済んだだろうに」
申し訳ないと顔を歪めるブランは、本当に自分を責めているようだった。責められるべきは、面倒をかけているノワールなのに。
「ちがう、ブランさま、わるい、ないっ……ぼく、きにする、しすぎ、だけ、ですっ」
「ノワール……嫌な記憶は、皆忘れられないものだ。気にしようとしなかろうと、嫌なものとして残り続ける」
「……」
「早急に新しいベッドを手配しよう。病院では眠れていたから……ああいうベッドの方がいいのだろうか」
確かに病院のベッドは眠れた。何故眠れたのか考えるため、ノワールはあの白いベッドを思い浮かべた。
「……ひろい、ない、と……ふかふか、すくない、だった、かも……」
「広くなくて柔らかすぎないベッドか……了解した。念のためイリスにも意見をもらおう。傷に負担がかかるといけない」
「で、でもっ、いま、まま、でも……れんしゅう、すれば……おかね、かかる、し……」
いつかは寝られるようになるかも。視線を彷徨わせるノワールに、ブランはきっぱりと言い切った。
「そんなことは練習しなくていい。金も気にするな。私はこう見えて稼いでいる」
それは分かる、とノワールは内心で呟いた。こんな豪華な屋敷に住んでいて、稼いでいないなどあり得ない。
お金を気にしているのとは少し違う。胸を張るブランに、ノワールはおずおずと口を開いた。
「ちが、くて……ぼくに、おかね、かける、はずかし、から……」
「恥ずかしい?」
「ふつう、どれい、おかね、かけない……」
奴隷に金をかけるのは、購入時のみ。買ったあとは購入者の自由だ。床に寝かせようが、憂さ晴らしに使おうが、それこそ命だって購入者の自由。そんな存在にお金をかけるのは、同列の人として認めているようなもの。お金が勿体ないし、ブランたちが嫌われる要因を作りたくないのだ。
俯くノワールに、ブランはハアとため息を吐いた。やはり面倒になったか。怒らせてしまったか。ビクビクと震えるノワールの前に、スッと大きな影が射した。
「まったく……」
「っ? ……っ?」
ぐりぐりと頭を撫で回される。ようやく止んだかと思えば、今度は両手で頬を挟まれた。ブランの手の温かさが、肌を通してじんわりと伝わる。
「恥ずかしいものか」
「!」
「君は、私が望んで引き取ったんだ。誰が何と言おうと、君は一人の有翼人で、私の家族だ。私がそうあって欲しいと望んだ」
「……」
「だから私にできることは何でもする。例え君でも、文句は言わせない」
大人しく幸せになりなさい、とブランは真剣な顔で言い切った。枯れた涙が再び湧き、月がぼんやりと滲み出した。胸がぽかぽかと温かくて、もはや熱いくらいだった。
ぼろぼろと止まらぬ涙に、ブランは一転して目を剥いた。冷や汗を流しながら涙を一つひとつすくうので、ノワールの胸はさらに熱くなる。
「す、まない。また配慮に欠けた行動を、」
「ち、がう、です……」
ノワールは首を横に振ると、胸を強く握り締めた。大切な人に伝えるため、震える喉を叱責する。
「ここ……ぽかぽか、あつい、くて……なみだ、とまる、ない、です」
ヒクヒクと喉を震わせ、ノワールも涙を拭う。ブランはしばし固まると、ぎこちなく動き出した。大きな腕で、慈しむようにノワールを抱きしめる。ノワールと呼ぶ声が、身体に染み込んで心地が良かった。
「それはおそらく……『嬉しい』だと、思う」
「う、れし……?」
「優しくされたり、希望が叶ったり……その温かさを、人は『嬉しい』と表現する」
「……っ」
ギュッと抱きしめられ、ノワールは何度も頭を押し付けた。身体中に広がる、優しい匂い。
ノワールは腕の中で、何度も嬉しい、嬉しいと呟いていた。
評価を下さった方々ありがとうございました!
一気に増えていたのでエラーかと思いました……




