30.広いベッド
過去の虐待を思い出す場面があります。
大丈夫な方はお進みください。
ブランの家に迎えられて一日目の夜。夕食と湯浴みを終えたノワールは、自室の床に座り込んでいた。月光に照らされた室内で、視線をきょろきょろとさまよわせる。
案内された屋敷内は、何処もかしこも豪華だった。
宝石付きの椅子が並ぶ食堂、壁一面の本で埋め尽くされた書斎、星や鳥など、細かな装飾で幻想的に彩られた自室。値段を考えただけで震えが止まらなかった。
桁違いなのは部屋だけではない。食事がいい例だ。
入院中は食事を観察されるばかりで、ブランと一緒に食べたことはなかった。大分気まずかったし、アメリーにもお気の毒に、と同情された。
一緒に住めば、一緒に食事をとれるかも。そんな淡い期待を抱き、本日めでたく現実となった。が、淡い期待は羞恥に変わった。
カトラリーの使い方、食事の進め方、食べ終えた皿の美しさ。掃除の必要な箇所一つ見当たらないブランに対し、ノワールは獣の食事の如く汚していた。ほぼ同じ物を食べていたはずなのに、だ。思わず俯いたノワールの口元を、ブランは微笑みながら拭いてくれたが。
ブランの力になりたいのに、ブランを恥ずかしめることばかりしてしまう。家族とは、協力し合う関係でなければならないのに。
今だって、とノワールはベッドを前にため息を吐いた。
ブランやアメリーが、ノワールのために用意してくれたベッド。病院のベッドも立派だったが、このベッドは別格だった。
広くて、ふかふかで、周囲から守るように天蓋までつけられている。誰もが憧れそうな、豪華なベッド。
しかし一度乗ったきり、ノワールはベッドの上に登れなくなった。決して壊れていたわけでも、分不相応だと気後れしたわけでもない。過去の経験が原因なのだ。
広くて上等なベッドは、貴族である主人たちが使う物。そこに呼ばれたときは、罰とは違う覚悟が必要だった。
ふかふかだが妙な匂いのする布団。上から覆いかぶさってくる主人。舐めるような視線。荒い呼吸。唾液が落ちてきたときの、悪寒が走る生温かさ。
ゾワッと肌が粟立ち、ノワールは首を横に振った。思い出してはいけない。もうあれは過去のこと。ノワールはブランの家族になったのだから。
せっかくブランたちが用意してくれたのだ。このベッドで寝なければ。しかし乗っただけで吐き気が込み上げ、寝るどころではない。
どうしたら。ノワールが膝を抱えながら、ベッドを睨みつけていたときだった。
コンコンコン、と控えめなノックの音が三回。夜を破る高音に、ノワールの肩がビクリと跳ねた。咄嗟に近くの枕を引っ掴み、身体を小さく折りたたんだ。
誰だ、こんな深夜に。ベッドの影で耳を澄ませば、キイっと扉の開く音。物静かな足音は、迷いなくノワールへと近づいてくる。ドッドッと煩い鼓動に、ノワールはギュッと目をつぶった。
深夜の呼び出しと言えば、決まってあの吐くような時間。自分一人で追い出さなくては。優しいブランたちに、同じような思いをさせないために。
ノワールはゴクリと唾を飲み込むと、影から勢い良く立ち上がった。近づいてくる人影目がけ、枕を力一杯投げつける。
「っ!」
「!」
ボフッと枕は相手の手に。受け止められるとは想定外。ノワールはヒッと喉を鳴らすと、手当たり次第に引っ掴んだ。何を手にしているかも分からないまま、二投目を振りかぶる。
「っ……!」
「待っ、」
た、と細腕を大きな手に掴まれる。
終わった。役に立てなくてごめんなさい。ブランたちの顔を想像し、ノワールは涙の滲む目をつぶった。カタカタと震えながら、終わりの見えぬ苦痛を待つ。
「ノワール」
「っ、……っ?」
恐る恐る目を開ければ、月明かりに照らされた見覚えのある姿。眉根を寄せた憂色に、ノワールはハッと息を飲んだ。
「ぶ、らん……さま?」
「ああ」
驚かせてすまない。温かい両手に触れられ、ノワールの腰がカクンと抜ける。隙のないブランは、すかさずノワールの腰を支えた。覚悟していた衝撃が来ず、ノワールから安堵の息が漏れる。
ブランは地面にそっとノワールを降ろすと、フルフルと震える肩に手を置いた。
「悪かった。眠れているか確認しようと、」
「っ、」
「……ノワール?」
震えの治まらない身体。口元を押さえる手。顔を覗き込んでくるブランに、ノワールはやっとの思いで視線を上げた。
「……は、」
「は?」
「はき、そ……」
「はき、……吐く?」
うっ、と目をつぶったノワールに、ブランは慌てて立ち上がった。花瓶から花を抜き取り、ノワールの口の前に差し出した。
ノワールは自室一日目にして、吐瀉物の饐えた匂いを充満させたのだった。




