19.母の愛(上)◆
今回からブランの過去に入ります。
十八年前。有翼人の国、ヴォラティル。
ノール地方でも山岳地帯に位置するヴォラティルは、豊富な鉱山資源を有する資源国だ。通常なら侵攻の対象になりやすそうなものだが、ヴォラティルは違う。複雑な地形と厳しい寒さで、侵攻できたとしても生活が困難なのだ。生存できるのは、特殊な建築技術と豊富な魔力を持つ有翼人ぐらいのものだろう。空に住む彼らにとって、この国は天国だった。
そんなヴォラティルにも人間はいる。王妃を輩出したモネ公爵家。その公爵夫人が人間なのだ。
ノール地方初めての有翼人と人間のハーフ。ブランと名付けられたその子どもは、両国の友好の象徴だった。
公爵家の中庭で、子どもたちの賑やかな声が響き渡る。その輪から少し離れた木陰で、ブランは本を読んでいた。片手にはテープが握られ、風を受けてゆらゆらと揺れていた。
「ドン!」
少女の声と共に、ブランの身体を強風が襲う。舞い上がった髪や草花が視界をかすめるが、ブランが手で防御することはない。ブランの手は、開かれた本の上に置かれている。風でページが捲れる方が問題なのだ。
ザアアッと草が擦れる音が迫ってくる。風圧と共に、二つの影がテープを切った。
「——ったー! 私の勝ちー!」
「ハァ!? 俺の方が先だったでしょ! 嘘つかないでくださいよ!」
「ついてないし! 負けたからって噓つき扱いやめてくれる!?」
「俺です!」
「私!」
「俺!」
「私!」
どちらも自分が勝ったと譲らない。しばらく睨み合いをした後、二人は同時に振り返った。
「「ブラン!」」
「なに」
「「どっちの勝ち!?」」
自分の名前を挙げろという無言の圧には目もくれず、ブランはページをめくった。
「知らない。興味ない」
ワーッ、と競い合っていた二人は頭を抱えた。それも気にせず、ブランは手元の文字を追う。
「なんで見てないんだよ! テープ持ってただろ!」
「持ってろって言うから持ってただけ」
「アンタのために始めた競走なのに!」
「頼んでいません。静かにしてください」
気が散る、とブランは最後に言い捨てた。この間も視線を向けることはなく、ずっと本へと注がれている。
自分は王族なのに、何故ここまでぞんざいに扱われなければならないのか。それも、ブランに気を利かせて始めたことで。
少女は手を握ると、ブラン目掛けて拳を振り上げた。が、背後にいた競争相手に腕を掴まれ、振り下ろすことは叶わなかった。
「放しなさいアル! 王女命令よ!」
「無理です! いくら殿下でも暴力はダメ!」
ぎゃあぎゃあ騒ぐ二人に、ブランはため息をついた。眉間にしわを寄せ、わざと音を立てて本を閉じる。
「大体、飛行競争を見せて何の意味があるんです? 飛ぶどころか、僕には翼がないんですよ」
片膝を立てて座るブランの背中は人間そのもの。翼のツの字も見えやしない。
翼のある二人は気まずそうに押し黙った。
通常、有翼人には生まれた頃から翼がある。しかし混血のブランには、八歳を迎えた今でも翼がない。有翼人特有の白髪がなければ、純粋な人間と勘違いする者も多いだろう。
勢いのなくなった二人に、ブランは再びため息をついた。
「どうせ母が頼んだんでしょう」
「!」
「図星か……聞かなくていいです。僕は人間でいたいんだ」
芝生に寝転ぶブランを見て、二人も芝生に横になる。翼の分、ブランとは視線の高さが揃わなかった。
本を愛でるように持ち上げるブランに、少女は口を開いた。
「お母上に伝えたの? 人間のままがいいって」
「ええ、でも無理でした」
胸にチクリと針が刺さるような感覚。ブランは思い出す度に、この痛みを味わわされる。
『人間の本なんて読んだら駄目! 翼が生えてこなくなったらどうするの!』
『でも母上、僕は人間が、』
『駄目よ。あなたは有翼人になるの。きっと父上のような立派な翼が生えてくるから……』
そう抱きしめられる度、ブランの胸には冷たいものが広がっていった。それも随分前のことで、最後に抱きしめてくれたのは何時だっただろうか。
——母上、僕は人間になりたいんです。母上のように、国と国をつなぐ仕事がしたいのです。母上が、僕の世界を広げてくださったように……。
思考の海に沈んだブランを引き揚げたのは、鈴の鳴るような声だった。ブランはハッとし、隣の少女へと視線を向ける。
「どうしてそんなに頑ななのかしら。ご自分だって人間なのに」
「公爵夫人を務めながら、貿易事業も成功してるんだろ? 陸路の整ってないヴォラティルで凄えよ」
ヴォラティルは資源国だが、輸出には向いていない。
ヴォラティルで荷車を引くのは大抵ペガサスだ。軽さが命の彼らでは、重量のある鉱山資源を一気に運べない。
では普通の馬でと思っても、数が少ない上に、走れる陸路が整っていない。いくつかある陸路も、天候が目まぐるしく変わるヴォラティルでは、崩落や通行止めが日常茶飯時。貿易で黒字を出すのは奇跡に近い。
モネ公爵夫人ほどの才女はいない。ブランにとって母は誇りであり、憧れそのものだった。
◆◆◆
「帰りたくない!」
「帰れ」
楽しい時間はあっという間に過ぎて、帰宅の時。
友人たちは最初から最後まで黙ることを知らない。馬車の前で駄々をこねる二人に、ブランは冷めた視線を送る。
貴族の子どもがこんなことで泣いてどうするのか。ブランは渋る背中を、それぞれの馬車に押し込んだ。冷たいだ何だという悪口は聞かなかったことにする。
少年は完全にへそを曲げたようだが、少女は違った。ブランと少年に向け、得意げに胸を張る。
「そうだ、今度はウチに来なさいよ! 二番目のお姉さまから贈り物が届いたの! 異国の本もあったから、特別に読ませてあげる!」
本、という単語にブランはピンと背筋を伸ばす。
二番目の姉といえば、エルフの国に嫁いだ方だ。エルフは長命だから、一冊に膨大な量の情報を書き記す。人間の本とはまた違った発見があって面白い。
じゃあね! と少女の馬車は風のように去っていった。相変わらず繊細さのかけらもない。遅れて少年の馬車も飛び立っていった。
馬車の姿が見えなくなると、ブランは手を下ろした。静かになった屋敷で、傍らの侍女に声をかける。
「アメリー」
「はい」
「母上は見送りにも来ないのか」
この国の王女が帰るのに。そう言外に匂わせると、アメリーは複雑そうな顔をした。
「……お仕事がお忙しいようで」
「……そうか」
ブランは門に背を向け、屋敷へと歩み出す。母のいる屋敷へと。
母が来ないことは分かりきっていた。人間の自分が近寄ると、ブランが人間になってしまう……怪しい占い師が述べた迷信を、未だに本気にしているのだ。それでも姿がないか探してしまうのだから、自分もまだまだ子どもなのかもしれない。
後ろに控えるアメリーに呼ばれ、ブランはピタリと歩みを止めた。
「奥さまは、坊ちゃまのことを愛していらっしゃいますよ」
「……」
「少々心配性なだけで、」
「アメリー」
ブランは振り返り、アメリーに向けて微笑んだ。
「知ってる」
できるだけ強がりに見えないといい。自分が一番、母の愛を信じているのだから。
「屋敷に入ろう。風邪を引くといけない」
「……はい」
アメリーを連れ、屋敷の中へと入る。
母と一緒に入りたかったと、そんな本音には蓋をして。
この日の夜から、ブランは高熱にうなされることとなる。
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