17.使用人の願い
「大ッ……変、失礼いたしました!!」
直角に折り曲げられた綺麗な背中。婦人の見本のようなお辞儀に、ノワールは慌てて首を振った。
誰の見舞いに来たのかと思えば、ノワールの見舞いだったらしい。婦人はノワールをベッドに戻すやいなや、冒頭のお辞儀をしてみせた。
「ノワールさまのお耳を汚すなど、使用人にあるまじき大失態! どうぞこのアメリーをお気の済むまで罰して下さいませ!」
「ないっ……ない、から、あたま、あげる、ください……!」
「ノ、」
ノワールさまッ……! と、婦人——アメリーは口元を手で覆い、涙を流した。最初の上品さは何処へやら。良く言えば感情豊か、悪く言えば騒がしいアメリーに、ノワールはどう接すればいいのか分からなかった。
アメリーはチーフで涙を拭うと、再度背筋を伸ばした。
「寛大なご配慮、誠にありがとうございます。申し遅れましたが、モネ家で家政婦長を務めるアメリーと申します。御用の際は何なりとお申し付け下さいませ」
また頭を下げようとするアメリーを、ノワールは必死で止める。奴隷生活が染み付いた身体には落ち着かないのだ。
首をブンブンと横に振るノワールに、アメリーは一瞬キョトンとした後、優しく微笑んだ。
「体調が戻られたようで何よりです。以前私が伺った際は、お休みになられていたので……」
「ごめ、なさい、アメリー、さま」
「そんな! 頭をお上げ下さい! 敬称も不要です。私は使用人。ノワールさまにお仕えする立場なのですから」
「でも……」
眉尻を下げて俯くノワール。アメリーはノワールより目線が下になるよう、床に片膝をついた。
「とはいえ、突然このようなことを言われても困りますよね。今はご自身のお身体を第一になさって下さい。これからいくらでもご一緒できますもの。先程申し上げたことは、お元気になられてからでも遅くはありません」
それまでは私もお嬢さま気分を味わいますわ、とアメリーは少女のように笑った。
一方でノワールは困惑していた。
アメリーは『これからいくらでもご一緒できますもの』と言った。まるでノワールの引き取りを肯定しているかのような発言。ブランの『使用人に反対されている』という発言とは正反対だ。
自分は嫌われているのではなかったのか。アメリーは気を遣ってくれているのか。それとも。
——ブランが、嘘をついているのか。
ノワールの身体中から、サーッと血の気が引いて行く。視界が歪む感覚に、慌てて口元を手で覆った。
何か言われているような気がするが、ノワールはそれどころではない。
恩人を——ブランを一瞬でも疑ってしまったのだ。毎日見舞いに訪れ、何処へ行くにも付き添ってくれる、あのブランを。
だが、本当に嘘をつかれていたら? いくら自問自答しても答えは出ず、胸の渦が激しくなるだけ。
信じたい。信じたくない。でも。そんな言葉の渦が、ノワールを襲ったときだった。
「ノワールさま!」
「ッ!」
アメリーの碧眼が、ノワールを射抜く。汗だらけの手は、いつの間にかアメリーに握られ温かくなっていた。
「ゆっくり息をなさって下さい。私が手本をいたしますので」
息を指摘され、ようやく過呼吸を自覚する。ノワールが何度も頷くと、アメリーは優しく微笑んでいた。
吸って。吐いて。吸って。吐いて。
十回も繰り返す頃には、ノワールの呼吸は落ち着きを取り戻していた。
「良かった……念のためお医者さまを、」
立ち上がったアメリーの手を、ノワールは震えながら掴む。
そこまでしてくれなくていい。迷惑もかけない。だからどうか、本当のことを話してと願って。
「ぼくっ……きらい、ですか?」
アメリーの碧眼が大きく見開かれる。隠していたつもりでも、そうでなくても構わない。ただ最後まで聞いてほしいと、ノワールは掴む力を強めた。
「きらい、ならっ……おうち、ひきとる、しない、いいです。めいわく、なる、ません……だからっ」
「……」
「ひきとる、はんたい、りゆう、だけ、教える、くださいっ……!」
アメリーは見下ろすだけで、答える気配はない。だがノワールも、教えてくれるまで手を放すつもりはなかった。内容次第で、ブランが嘘をついたかどうかが決まるのだから。
ゴクリと唾を飲み込むノワールの前に、アメリーは片膝をついた。握られた骨の目立つ手に、そっと自身の手を重ねる。
「嫌いなわけありません」
「!」
「迷惑でもありません。ブランさまも、私共使用人も、ノワールさまがお越しになるのを心から楽しみにしているのですよ」
「で、も……」
使用人に反対されていると、ブランは言っていた。これではブランが嘘つきになってしまう。心が砕けるような音に、ノワールは堪らず俯いた。
そんなノワールの手を、アメリーは真剣な面持ちでギュッと握る。
「ノワールさま……お恥ずかしい話ですが、当家を悪く仰る方はそれなりにいらっしゃいます。そのような方々にご納得いただけるまでご説明するのも、私共使用人の務めです」
「……」
「引き取りの反対などと、どなたが仰っていたか教えていただけませんか? 仕事ですから、気に病む必要はございませんよ」
ノワールはきつく目をつぶり、ブランのことを思い浮かべる。もう信じられないかもしれない、大切な人。心の中で頭を下げ、ノワールはゆっくり口を開いた。
が、名前は紡げなかった。
「ごめ、なさい」
「!」
「いう、ないです」
手の甲に小さな池が無数に作られていく。はらはらと頬を流れる冷たさが、ノワールの苦しみを逃がしてくれるようだった。
ブランは嘘をついていたかもしれない。だからといって、自分がブランを傷つけるようなことは、想像しただけでも無理だった。馬鹿だ阿呆だと罵られても構わない。それくらい大切で、恩人で、苦しいくらい眩しいのだ。
もうノワールからは聞き出せないと判断したのだろう。アメリーは眉尻を下げ、ノワールの涙を拭った。
「ノワールさまは、お優しいですね」
「っ」
「だからブランさまも、私共の籍に入れるよう仰るのですね」
少し分かった気がします、とアメリーは苦笑した。が、雰囲気に流されている場合ではない。アメリーの口から、気がかりの原因そのものが出たからだ。
「あ、アメリーさま、はんたい、はなし、なんで……」
「え?」
ノワールとアメリーが無言で見つめ合うこと三秒。
引き取る、反対、ノワールが出せない名前、籍。
すべて繋がったアメリーは、勢い良く立ち上がった。
「坊ちゃまですか!!!!」
あまりの大声に、ノワールはビクリと肩を揺らした。その様子にアメリーはあわあわと手を動かす。
「も、申し訳ございませんノワールさま! 坊ちゃまとはブランさまのことでしてっ、まさか坊ちゃまがそのようなことを仰るとは、」
口を動かす裏で、アメリーの脳内を様々な光景が駆け巡る。
ノワールを引き取りたいが、自身の籍には入れたくないブラン。最後まで責任を持てと説得するアメリーたち使用人。連日決着がつかない。面会の際、何と説明するだろうか。良く言えば寡黙、悪く言えば言葉が足りない。そんなブランなら、何と。
『使用人に反対されている』
容易に想像できたブランの姿に、アメリーは顔を手で覆った。
言いそうだ。それも高確率で。
アメリーは立っていられず、壁に手をついた。
「あの御方はっ……!」
アメリーは脳内のブランに拳骨を落とすと、目の前のノワールに頭を下げた。
「申し訳ございませんノワールさま! 坊ちゃまに代わって謝罪いたします!」
「そ、そんなっ」
「ノワールさまにお越しいただきたいのは本当です! 坊ちゃまと使用人共通の願いです! それだけはどうか、信じていただけないでしょうか!」
頭を下げたまま姿勢を崩さないアメリーに、ノワールはベッドから降りて駆け寄った。もう涙を流していたことも忘れていた。
ノワールが力ずくで頭を上げさせようとしても、アメリーはびくともしない。それどころか、そのまま話を続けだした。
「ノワールさまは、籍に入るとはどういうことか、ご存知でしょうか?」
「ない、ないです、から」
頭を上げて。そう頼む前に、アメリーは頭を上げた。見上げた顔は痛みに耐えるような、複雑な顔をしていた。
「籍に入る……簡単に申し上げますと、家族になる、ということです」
家族、その響きにノワールは動きを止めた。
ノワールの知る家族とは、顔が似ていて、住まいが同じで、奴隷を従える人間たちを指す。その人たちが何故、アメリーの口から出てくるのか。
「坊ちゃまは……私共使用人とノワールさまを、家族にしようとなさっているのです」
「……ぼく、アメリーさま、にてる、ないです」
「似ていなくても、家族になれるのです。もしノワールさまが私の家族になって下さるのなら……喜びのあまり、倒れてしまうかもしれません」
ですが、とアメリーは俯いた。黙り込んだ後、意を決したように顔を上げる。
「私は、私共は……」
「ノワールさまに、坊ちゃまの家族になっていただきたいのです」




