15.噂
入院して二週間弱。ノワールのリハビリは順調そのものだった。
寝たきりに近い状態から、座位を保てるように。
ベッド上で世話を焼かれていたのが、自力で身の回りのことをこなせるように。
病室内で完結していた一日が、病室の外にも出られるように。
未だかつてない身体の動かしやすさに、ノワールは驚きの連続だった。
しかしまだ完全ではない。ノワールは今日も今日とて、病院の廊下を歩き回っている。点滴スタンドをコロコロ鳴らし、あっちへ行ったりこっちへ行ったり。それらすべてにブランがついてくるので、ノワールは院内で有名人になっていた。
忙しいだろうに、ブランは毎日見舞いに来る。仕事後は面会時間ギリギリまで。休日は面会時間の始まりから終わりまで。ある日は起きている間ずっと居たので、病院に住んでいるのか尋ねてしまう程だった。
心配をかけた自覚はあるが、こんなに見舞いに来なくとも、と思ってしまう。ノワールに時間を割くほど、ブランが家にいられる時間は減る。そこに使用人の説得が入るのだから、ちゃんと休めているのか不安になってしまう。説得状況については、見舞いに来るブランの様子からしてお察しである。
「——では、また明日」
「はい、またあした」
ブランにつられ、ノワールも微笑む。しかし扉が閉まる頃には、その笑みも消えていた。
今日もブランは体調や天気の話だけだった。最も聞きたい説得状況には触れもしない。
もう自分から断った方が良いのだろうか。ブランと使用人の仲を引き裂いてまで、引き取ってもらう価値があるのだろうか。起きている間ずっと考えて、考え疲れて眠る日々。
退院なんてしたくない。最近のノワールは、回復していく身体が日毎に疎ましくなっていた。
◇◇◇
とはいえ、治療を拒む勇気があるはずもなく。
翌日の昼過ぎ。今日も出された食事の大半を食べてしまい、ノワールは頭を抱えていた。
忘れるはずもない。ノワールには絶食で周囲を心配させた前科がある。料理を前にする度、当時の罪悪感がよみがえり、気づけば口に運んでしまう。おかげで回復は順調に進んでいる。ため息しか出ない。
食事量が増えれば、体力がつく。体力がつけば、疲れて眠ることが減る。昼食後、ブランが来るまで寝ていたノワールは、ここ数日起きられるようになっていた。一般的には良い傾向だが、ノワールには悪循環でしかない。悩む時間が増えるのだから。
ブランが来るまで、あと二、三時間。今のところ眠気はこないし、胸の内がぐるぐる渦を巻いて眠れそうにない。今日もこの調子かと、ノワールが膝を抱えたときだった。
「——ねぇ聞いた? 左翼が壊死してた子の話」
壁を隔てた向こう側、廊下から聞こえる女性の声。
声質からして、世話を焼いてくれる看護婦の一人だろう。どんなに声を潜めても、薄い壁一枚では否応にも聞こえてしまう。女性の声ならなおさらだ。
ノワールが耳を塞ごうか悩んでいる間にも、話はどんどん進んでいく。
「聞いた聞いた! 参謀総長に引き取られるんでしょ? 大丈夫かしら」
「爵位を剥奪されたから無いとは思うけれど、あのモネ家だからね……」
「やめてよ! またあんなことになったらどうするの」
ノワールはハッとし、声のする方向へ視線を向けた。
ブラン・モネ。それがブランの本名だ。イリスから『参謀サマ』と呼ばれていたのも覚えがある。看護婦たちはブランの話をしているのだ。それもおそらく、よくない話。
聞かない方が良いとわかっている。それでも耳は、壁際へと吸い寄せられていた。
「でも最近、ご自宅に怪しい男たちが出入りするのを見た人がいるそうよ」
「私は人が入るくらいの大荷物を運んでたって」
「お金に困ってるって噂もあるわよね」
「……やっぱり見過ごせないわ。引き取りを見直していただくよう、ベルニエ先生に進言しましょう」
ノワールはパッと壁から耳を離した。
引き取りを見直す、つまりブランの家に行かなくて済むかもしれないということだ。
望みが現実になる気配。しかしノワールは俯き、壁につけていた手を握りしめていた。
確かに退院したくないと望んだ。ブランと使用人の仲を引き裂きたくないのも本心だ。
だが叶うなら、ブランに引き取ってもらいたい。ブランと一緒に暮らしてみたい。そう心は叫んでいる。
「でもベルニエ先生は王室を抜けられたのよ? 軍の決定を覆すなんて、そんなお力あるかしら?」
「何言ってるの! 最近備品が一新されたでしょ? 王族の権力がご顕在な証拠じゃない!」
「患者さまのためだもの……きっと動いて下さるわ!」
壁向こうが盛り上がるにつれ、ノワールの胸は冷え切っていく。
看護婦たちの発言は事実かもしれない。しかしノワールの知るブランは違う。汚い子どもにローブを貸し、名前を与え、夢まで叶えてくれた優しい人。非難されていい人じゃない。
大体この看護婦たちは何だ。仕事中にも関わらずピーチクパーチク。これまでノワールが働いていた屋敷なら、小一時間は鞭打ちを受ける重罪だ。それもブランの悪口だなんて。
腹の中で鍋がグツグツと煮えるような、経験したことのない感情。ノワールは点滴スタンドを引っ掴み、病室の扉へと踏み出した。
看護婦たちに直接言ってやろう。ブランは悪い人なんかじゃない。こんな僕を助け、今も気にかけてくれる立派な人だと。
ノワールが叩きつけるように扉を開け、看護婦たちを睨みつけたときだった。
「——ご歓談中失礼ですが、」
廊下に響く女性の声。白翼の婦人は、振り返った看護婦たちに目を細めて微笑んだ。
「今のお話、私にもお聞かせ願えますか?」




