14.目覚めと沈黙
瞼の裏に光が射す。耳に届くのは、紙を擦る音だろうか。シュル、と一枚擦れる度、心が落ち着いていく。真っ白なあの人と同じ、温かい匂い。ここなら目を開けてもいいかもしれない。ノワールは彼の人へ手を伸ばすように、重くなった瞼を開けた。
ぼんやりとした視界に、真っ白な人影が映る。鮮明でなくても分かる。ノワールが会いたくてやまなかった人なのだから。
「——ブ、ラ……さま」
「!」
喉は思ったよりも動かなかった。蚊の鳴くような小さな声。それでも彼の人には届いたらしく、本をめくる手がピタリと止まる。
「……ノワール?」
「は、い」
彼の人——ブランは目を見開いたまま、勢い良く立ち上がった。足をぶつけながらベッドサイドに駆け寄り、ノワールの手を握る。顔を覗き込んだことで、白髪がひらりと垂れてきた。
「ノワール! よかった……本当によかった……」
光に背を向けているからだろうか。顔色は悪く、目の下が特にひどい。よくよく見れば、栗色の瞳に水面が張っていた。
「どッ、……ケホ、ゲホッ」
「ノワール!」
どうかされたのですか。そう尋ねるより先に、肺から空気がまろび出た。咳き込むノワールの肩をさすりながら、ブランはピアス型の通信魔導具に魔力を込める。
『——は、』
「すぐに来いイリス! ノワールが起きた!」
『魔導具から叫ぶなやかましい!』
喧嘩ができるということは、見た目ほど体調は悪くないのかもしれない。怒号をぼんやりと聞きながら、ノワールはひとり安堵した。再び瞼が重くなっていく。
結局ノワールはそのまま寝てしまい、イリスに会うことは叶わなかった。
これが手術後、初めて目を覚ました日の話。
左翼を切断した大手術から、実に十日が経過していた。
◇◇◇
「ん、手術跡もキレイ! 一安心ね!」
「ありがと、ございます」
意識がはっきりしたのは、翌日の昼過ぎだった。
ノワールは包帯を巻かれながら、イリスにお礼を述べる。イリスは瞬く間に包帯を巻き終えると、病衣をキュッと首元で結んだ。項のリボンをポンと軽く叩く。
「寒くない? 有翼人は翼があるから、病衣の面積が少ないのよね」
「だいじょぶ、です。ごめなさい」
「謝らなくていいのよ! 何にも悪いことしてないんだから!」
「は、い」
よーしよしよし、と犬のように頭を撫でられる。終わる頃には、ノワールの黒髪はぐちゃぐちゃに爆発していた。すかさずブランが櫛で整える。
大丈夫とは言ったものの、確かに背中がすうすうする。有翼人用の病衣は腰と首元で結ぶタイプで、カマーベストに似た形をしていた。有翼人の子供服も似たようなものだというのだから、よくお腹を壊さないなあと感心してしまう。
「あと数日はこの病室内だけで過ごしてね。疲れたらすぐに休むこと。そのあと外に出て歩く練習。だんだん距離を延ばしていって、順調にいけば二週間後には退院かな」
退院後はアンタが面倒見るのよね、と訊かれ、ブランは静かに頷いた。
「私の家はここからさほど遠くない。もしものことがあったとしても、使用人がいるから助けも呼べる。療養には申し分ないはずだ。……もちろん、君さえ良ければの話だが」
どうだろうか、とおずおずと尋ねられ、ノワールはピンと背筋を伸ばした。
檻から出してくれた上に、空を飛ぶ夢まで叶えてくれたブラン。その彼が来て良いと言うのだから、答えは決まりきっている。
ノワールは逸る気持ちを抑えながら、布団をギュッと握りしめた。
「いくっ、です!」
「!」
「……いい、です、か?」
もう答えたというのに、迷惑だったかもと不安になってしまう。食い気味に返事をしてしまった恥ずかしさも相まって、ノワールは顔まで布団を持ち上げた。
ブランは目を見開いたあと、フッと小さく笑みをこぼした。ノワールから布団を奪い、真っ赤な顔を視界に収める。
「もちろん」
「!」
「……ただ、」
バツが悪そうに視線を逸らすブランに、ノワールは首を傾げる。
何か問題でもあるのだろうか。やはり自分が行くのは迷惑だろうか。自ら深みに沈みに行くノワールを引き揚げたのは、ずっと黙っていたイリスだった。
「はっきり言いなさいよ、見苦しい。うじうじして乙女かっつーの、見苦しい」
「分かったから繰り返すな、高飛車女」
両者一歩も譲らない睨み合い。間に挟まれたノワールは、ゴクリと唾を飲んだ。
もしや永遠に続くのでは。そんな終わりの見えない緊張状態を破ったのは、ブランのため息だった。
「……使用人に、反対されている」
「!」
「ハァ!?」
イリスの怒りが病室に響く。閉目するブランに、イリスは人差し指を突きつけた。
「アンタねぇ! 引き取るって宣言するなら、使用人説得してからにしなさいよ!」
「引き取るのは反対されていない。むしろ歓迎していた」
「じゃあ何だっつーのよ!」
きっと僕だからだ。ノワールは俯き、布団をぐしゃぐしゃに握りしめる。
ブランやイリスのように綺麗な白い翼じゃない。役に立てるような頭も力もない。今だって、ベッドから一人で降りることもできない、迷惑な存在。
やっぱり自分から断ろう。ノワールが口を開こうとしたそのときだった。
「……使用人の籍に入れることを、反対されている」
ブランは深刻そうに語ったが、ノワールは口を開けて固まることしかできなかった。
シヨウニンノセキニイレル……ノワールにはさっぱりわからぬ言葉の羅列。イリスならわかるのだろうかと窺い見れば、こちらも苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
病室を占める長い静寂。そこに突然、ビーッと甲高い音が鳴り響く。イリスは反射で背筋を伸ばすと、扉に向けて歩き出した。取っ手に手をかけ、真剣な面持ちで振り返る。
「とりあえず、一度ノワールも入れて話し合いなさい! 絶対に大人だけで決めないこと!」
いいわね! と言い残して、イリスは勢い良く病室を出ていった。部屋の外から、慌ただしい足音が聞こえてくる。
外が静かになった頃、ノワールは恐る恐るブランを盗み見た。が、気づかれていたようで、ブランと視線がかち合った。そっと優しく微笑まれる。
「安心しなさい。君を不幸にはさせないから」
応えるように微笑む裏で、胸にチクリと針が刺さる。痛みの正体は分からない。それでもノワールは、ブランとの間に大きな溝があると、まざまざと痛感させられたのだった。




