中
「し、失礼します……」
指定された談話室にマルガリーテが恐る恐る入ると、革張りのソファにアドリアン・エルムハルト侯爵子息が腰かけ、のんびり紅茶を飲んでいた。
「お待たせして、申し訳ございません」
マルガリーテはアドリアンの顔を見ることができず、おぼつかないカーテシーを披露する。アドリアンはちらりとマルガリーテを見ると、感情のない声で、「座るといい」と正面のソファを指した。マルガリーテはなるべくアドリアンに目を向けないよう、恐る恐る腰かける。
「『くじびき』でパートナーになったアドリアン・エルムハルトだ」
「……マルガリーテ・ベルニエです」
アドリアン・エルムハルトは、友人のいないマルガリーテでも知っている学院一の有名人である。いつも誰かに囲まれていたのでその姿をまじまじと見ることはなかったが、エルムハルト侯爵家の次男が同学年にいることは、入学時の他の生徒たちの噂話で把握していた。
エルムハルト侯爵家は、王国随一の軍事力を持ち、過去に王妃を何名も輩出しているという名門中の名門だ。王国の建国時から王家に忠誠を誓う重鎮でもある。エルムハルト侯爵家は武だけでなく知にも優れており、宰相をはじめ、大臣職につくことも多い。現エルムハルト侯爵は、軍部大臣のほかに、財務大臣も兼任しているという傑物である。
さらに、エルムハルト侯爵家の家訓は実力主義。長子相続が基本の貴族たちのなかで、エルムハルト侯爵家だけは実力のある男系男子が家督を継ぐという。そんなことをすれば血で血を洗う骨肉の争いが起こりそうなものだが、実力(物理)を極めてきた彼らは、常に正々堂々、公明正大に競いあうことを信条としていた。
現在のエルムハルト侯爵家は、男子が四人、女子が三人いる。この男子四人が、次代のエルムハルト侯爵になるわけだが、そのなかで最も家督に近いと有名なのが、このアドリアン・エルムハルトなのである。アドリアンに関しては嘘か本当かわからない噂が多く、一晩で千人の敵をひとりで屠ったとか、エルムハルト侯爵家に敵対する貴族を拳でわからせてきたとか、大小さまざまな血生臭い噂が多い。
しかしながらその恐ろしい噂とは裏腹に、エルムハルト侯爵家の特徴である黒髪と緋色の瞳を受け継ぎ、背もすらりと高く、目鼻立ちもくっきりした容姿に、女性陣の心はすぐに奪われてしまうとか。今は、理由はわからないが、特定の婚約者はいないようだ。
頭のなかでアドリアンの情報を整理しながら、マルガリーテはとんでもないことになったと、ますます背中を丸めてしまう。良くも悪くも注目度の高いアドリアンのパートナーに、よりにもよって自分が選ばれてしまうとは。ベルニエ伯爵家で過ごしていたときも相当な不幸だと思っていたが、それと同じくらい、この状況もある意味不幸であると言える。
――暗殺されたらどうしましょう……。
「くじびき」の発表を見た女生徒たちの射殺さんばかりの視線を思い出し、マルガリーテの頭から血の気が引いた。
「……ベルニエ伯爵令嬢?」
「あ!はい、申し訳ございません」
アドリアンに呼ばれ、マルガリーテの肩がびくりと震える。
「私は忙しい。学院のきまりなので『冬の祭典』に参加するが、ファーストダンスを踊ったら、私はすぐに退場するつもりだが、それで構わないだろうか?」
「ええ、はい、それはもちろん、喜んで」
ほぼ反射的にマルガリーテはそう答えていた。そもそもパートナーになったことすら辞退したいくらいなのだから、さっさとアドリアンから解放されるなら願ったり叶ったりである。
マルガリーテのあっけらかんとした返答に、アドリアンの目がわずかに見開いたが、すぐに無表情に戻した。
「それならよかった。理解が早くて助かる」
「とんでもないことですわ。『くじびき』とはいえ、エルムハルト侯爵子息様の相手になって申し訳なく思っております……」
「君は、こういうときに自分を売り込むことはしないのか?」
思わず顔を上げると、アドリアンの緋色の瞳とぶつかり、マルガリーテは慌てて視線をそらした。言葉の意味が理解できず逡巡していると、アドリアンがため息交じりに告げる。
「今はただの学院の一生徒だが、エルムハルト侯爵家は有名で、私を通して侯爵家に近づこうとする者も多いんだ」
そのなかには、アドリアン個人とお近づきになりたい者もいるだろうが、マルガリーテは何も言わず、「大変ですね」と苦笑いを返しておいた。こんな他愛のない世間話に、いちいちまじめに返答していたら疲れてしまう。
「ところで当日のドレスは?」
「えっと……たぶん、大丈夫です」
「もし、貸衣装を検討しているなら、こちらで用意しても構わないが」
「いえ、それは絶対に大丈夫ですので」
アドリアンからドレスの配給を受けようものなら、ドレスを贈られたと誤解した令嬢たちにそれこそ命を狙われてしまう。マルガリーテはいつになく強い言葉で、その申し出を固辞した。
ナターシャは張り切っていたけれど、さすがに本気で無償になることはないだろう。アドリアンのパートナーになってしまった以上きちんとしたドレスを用意する必要があるが、分割払いがどこまで認められるか、ナターシャに相談しなくては。気が重いことが続くものである。
「了解した。パートナーになったら、二週間に一回は顔合わせの必要がある」
「ええ、ですが、ご用事を優先してください」
「なぜ」
「……顔合わせは強制ではないですし……試験勉強もしたいですから」
マルガリーテが答えると、アドリアンは少し考えて、「顔合わせは予定通りやろう」と意外な提案をしてくる。
「えっ……と……エルムハルト侯爵子息様のお時間の無駄では?」
「試験勉強をしたいなら、ここでやるといい。わからないところは教えてやろう」
当然のごとく学年上位の成績を修めるアドリアンに言われ、マルガリーテの心が少し傾く。試験勉強の相談相手がいないマルガリーテにとっては、これ以上ない心強い申し出だ。しかしながら、二週間に一回とは言え、アドリアンとの顔合わせは体力も気力も奪われそうだ。
「……わたしだって、エルムハルト侯爵家に近づこうとする人間かもしれませんよ?」
アドリアンが帯刀していないことを確認して、マルガリーテはわざと彼が嫌がりそうなことを言ってみる。しかしアドリアンは怒るどころか、小さくほほ笑んで見せた。
「君がそういう人間なのか確かめるためにも、顔合わせは必要だな」
「マルガリーテさん、おかえりなさいっす!ドレスはばっちり用意するんで楽しみにしててください!」
寮の部屋に帰るなり、きらきらと瞳を輝かせるナターシャに出迎えられ、マルガリーテはようやく肩の力が抜けた思いがした。
「あの、そのドレスって、何回まで分割払いが可能かしら……」
恐る恐る問いかけるマルガリーテに、ナターシャはゆっくり三回まばたきをした。
「分割払い?何を言ってるんすか?」
「だから、ドレスの購入代金のことよ。わたし、持ち合わせがほとんどなくて……」
「ちょっとちょっと、広告塔を依頼したのはコルヴィン商会っすよ!?それなのにドレスの代金をとるって、そんな詐欺まがいなこと、うちはしないっす!」
めずらしく怒気を含んだ返答に、マルガリーテは困ってしまった。いくらなんでも広告塔が自分に務まるとは思えない。コルヴィン商会に損失を与えてしまう可能性もある。
「だから、わたしでは広告塔なんて……」
「もー!なんでわかんないんすか!?」
ナターシャの両手がマルガリーテの両頬をとらえた。マルガリーテは否応なく、ナターシャの大きな瞳を見つめることになる。
「マルガリーテさんはきれいっす!エルムハルト侯爵子息様がパートナーを断らなかったのがいい証拠っすよ!」
「あのね、あれは『くじびき』で……」
「『くじびき』でも、本当に嫌なら断れるんすよ?」
そんな制度があることなどはじめて知ったマルガリーテは、思わず息を呑んだ。これは、自分から辞退するというのも……?
「あ、今、辞退しようって思ったっすね?」
呆れたように見つめられ、マルガリーテの視線が宙をさまよう。
「絶対だめっすよ!これはチャンスなんすから」
「なんの?」
「そりゃあ、コルヴィン商会イチ押しのレースを、貴族に売って売って売りまくるチャンスっすよ!」
きゃらきゃらと笑いながら金髪を揺らすナターシャに、マルガリーテも思わず吹き出してしまうのだった。
一部の女生徒の視線はちくちくと痛かったが、ナターシャがなるべくそばにいてくれること、顔合わせ以外でアドリアンと一切の接触をしなかったことで、マルガリーテは平和な日常を送ることができていた。たまにゴシップが好きそうな女子たちにアドリアンのことを聞かれることがあったが、マルガリーテがいつもおどおどして何も返せないでいると、いつの間にか興味を失って、そういったおもしろ半分の者たちも近づいてこなくなった。
そもそも何も返せないのは無理がない。アドリアンとマルガリーテの顔合わせは、顔合わせというよりも、同じ部屋で自習をする生徒であったから。
顔合わせ当日は言葉をかわした二人だが、それ以降はそれぞれ自習に励み、交流という交流はほぼなかった。たまにわからないことがあったらアドリアンがていねいに教えてくれることはあるが、雑談と言える雑談はほぼない。マルガリーテからアドリアンに話しかけることはほぼなく、そうなると、アドリアンから話しかけられないかぎりは会話が始まらないのである。
何回目かの顔合わせの日、前日に仮縫いのドレスを試着したマルガリーテは、興奮したナターシャに夜遅くまで付き合わされ少し寝不足気味だった。談話室に入ると、いつもどおり先に入って本を読むアドリアンがいた。
「失礼いたします」
軽く一礼して、アドリアンが顔を上げる。マルガリーテはそのままいつもどおり、彼の正面に腰かけた。教本と羊皮紙を出し、黙々と試験に向けて勉強を進めていく。しかし、今日は文字を追おうとすればするほど、強烈な睡魔に負けそうになり、マルガリーテはかくんかくんと時折船をこいでいた。
「……体調不良か?」
マルガリーテのいつもと違う様子に、アドリアンは思わず声をかける。マルガリーテは、はっと顔を上げ、すぐに「申し訳ございません」と謝った。
「いや、私は問題ない。それより、体調は問題ないのか?」
「はい……その、ただの寝不足ですので……」
「何かあったのか?」
いつもまじめなマルガリーテの「寝不足」というキーワードに、アドリアンが少し驚いたように目を開く。
「いえ、私事ですから」
「悩みがあれば聞くが」
「本当に、そういうのではございませんので……。申し訳ございません」
マルガリーテはふるふると首を振り、教本に再度集中を戻そうとする。
「君と同室は、ナターシャ・コルヴィンだったか」
アドリアンがぱたんと本を閉じ、マルガリーテに向き直る。マルガリーテもやや気まずい思いを抱えながら、それでもアドリアンから視線を外して、顔を上げた。
「はい」
「コルヴィン商会と言えば、最近当家にも出入りするようになった。なかなか曲者だと聞いている」
ナターシャの様子を思い出し、マルガリーテはくすりと笑う。あの底なしの明るさで勧められたら、うっかり買ってしまいそうになるかもしれない。
「……コルヴィン嬢となにかあったわけではないのか」
「まさか!」
マルガリーテはアドリアンの斜め上の想像をすぐさま否定した。
「ナターシャは……ナターシャはとても変わってはいますが、本当に優しくて思いやりがあって、いつも助けられているんです」
「そうか」
「実は、昨日、『冬の祭典』で着るドレスの仮縫いができたとかで、遅くまでナターシャに付き合っていて……」
「そうか」
「ナターシャったら、ここはもっとこうすべきだとか、デザイン画とちょっと違うとか、わたしなんかのドレスにすごく真剣で」
マルガリーテのほほが緩んでいくのを、アドリアンは意外そうに見つめる。
「とにかく、ナターシャとなにかあるなんて、そんなのあり得ませんので」
「……そうか」
めずらしく口数の多いマルガリーテに、アドリアンは同じ言葉しか返せない。はっと我に返ったマルガリーテは、恥ずかしそうに「申し訳ございません……」と頭を垂れた。
「ところで、どんなドレスなんだ?」
「ええと……コルヴィン商会イチ押しのレースを使っています」
「それだけか?」
「エルムハルト侯爵子息様にお顔に泥を塗るようなドレスではございませんので、ご安心ください」
「いや、そこを心配しているわけではないが……」
口ごもるアドリアンを見て、マルガリーテは小さく首をかしげる。
「君は、『冬の祭典』は楽しみか?」
意外な質問に、今度はマルガリーテが少し考え込んでしまった。さっきから、アドリアンの意図がいまいち汲み取れない。
「そうですね……ドレスは楽しみです。ナターシャがすごくがんばってくれているので」
「それだけか?」
マルガリーテは真剣に考えて、思い出したように「あ!」と声を上げる。
「そういえば、イヤリングをナターシャとおそろいにするんです!」
そう言ってにっこりほほ笑むマルガリーテに、アドリアンは「そうか」と言うことしかできない。
「エムルハルト侯爵子息様は……」
同じ質問を返そうとして、マルガリーテは口を閉ざす。一瞬忘れそうになったが、ナターシャからのドレスという楽しみがある自分と違い、この方はしぶしぶ学院の決まりだからと義務感から参加するだけである。この顔合わせもすべて、決まりで義務だからだ。そんなひとに危うく失礼なことを言いそうになったとマルガリーテは反省する。
「私も、今は楽しみだ」
彼女の質問がわかったかのように、いつになく優しい声でアドリアンが言う。
「ファーストダンスがとくに楽しみになった」
アドリアンの言葉を、マルガリーテはすぐに理解した。
「ナターシャ自慢のドレスですから、エルムハルト侯爵子息様の踊りもたいへん優雅に映るかと存じます」
めずらしくほほを上気させ、マルガリーテが自慢げにうんうんと頷く。
「そうか。……うまく伝わらないものだ」
ため息をつくアドリアンをよそに、すっかり眠気の吹っ飛んだマルガリーテは、いつもどおり教本に目を落とす。
その日はいつも以上に勉強がはかどったのは言うまでもない。
本当は二話で完結するはずだったのに……
さすがに次で終わるはずです




