下
マルガリーテがモンテリア学院に入学して二年目の秋は、すぐにやってきた。アドリアンの教えのおかげで、マルガリーテは進級試験に無事合格し、将来の進路選択に向けた専門的な授業を履修できるようになった。
進級試験や履修登録、そして新入生の入学などの行事に追われ、アドリアンとの定期的な顔合わせは、ここしばらく開催されていない。アドリアンの進路はまず間違いなく文官なので、商家や貸金業を希望するマルガリーテは、引き続き学院内でアドリアンと接触することはなかった。
春入学のナターシャにとって進級試験はなかなかにハードな日程だったようだが、彼女はもともと商人で、希望進路も商家なので、マルガリーテと一緒に対策することで難なく乗り越えたようである。
履修したばかりの授業にもようやく慣れ、マルガリーテたちが日常を取り戻すころには、『冬の祭典』まで残りひと月を切ろうかというタイミングに差し迫っていた。相変わらずマルガリーテとアドリアンの交流はなかったが、ナターシャのおかげで当日のドレスや宝飾品の準備は滞りなく完了している。寮の部屋は狭いので、学院が持つ衣裳部屋に鍵をかけて保管をしていた。
本縫いが終わり、ナターシャのリテイクが入ったそのドレスは、たとえ自分が着ないとしてもうっとりするほど見事な仕上がりである。とくにドレスのスカート部分を大胆に切りとりレースを縫いこんでいるので、値段以上に豪華な見栄えになっている。それでも、マルガリーテには一生かかっても払えないほど、目玉の飛び出す金額ではあるが。宝飾品については、レースを目立たせるためにシンプルに、しかしイヤリングだけはナターシャと色違いのおそろいで用意した。ナターシャは、マルガリーテの瞳の色である瑠璃色の宝石を、マルガリーテは、ナターシャの瞳の色である赤銅色の宝石を使っている。
「そうだ、マルガリーテさん」
寮で一緒に課題を仕上げていると、ナターシャがいいことを思いついたと言わんばかりに、ぐいと顔を寄せる。
「『冬の祭典』のあとの中期休暇って、どうするんすか?」
「冬の祭典」が行われると、とくに貴族たちの本格的な社交シーズンがすぐにやってくる。主に貴族の子女たちの社交参加のため、モンテリア学院は中期の休暇に入る。マルガリーテもいちおう伯爵家の人間なので本来なら帰省の必要があるのだが、ベルニエ伯爵家にもとより彼女の居場所はない。マルガリーテは帰省はせず、寮に残るつもりでいた。
「寮に残って勉強する予定よ」
このころになると、ナターシャはマルガリーテの断片的な話から、マルガリーテがベルニエ伯爵家を敬遠していることは、なんとなく察していた。おそらく中期休暇でも帰省はせずに寮に残るだろうと算段していた。予想通りの返答に、思わずにっこり笑みがこぼれる。
「だったら、あたしの実家に遊びにこないっすか?」
「……え」
ナターシャの提案に、マルガリーテは返答に詰まった。ナターシャの実家が嫌だということではなく、ナターシャから与えられる無償の好意を受け入れてよいのか、判断できなかったからだ。
「あたしの両親もマルガリーテさんに会いたがってるんす!むしろ、両親がマルガリーテさんを連れてきてってうるさくて。だからあたしとしては、マルガリーテさんが遊びにきてくれたら、すっごく助かるんすけど……」
少し上目遣いで首をかしげる。こうすれば、マルガリーテが断らないことを、ナターシャはマルガリーテとの付き合いで学んでいた。なんやかんやで、マルガリーテは甘えられると弱いのだ。
「でも、やっぱりご迷惑なんじゃ……」
「ぜったいそんなことないっす!あたしがこういうので嘘つくわけないじゃないっすか!」
マルガリーテの両手を包み込み、ナターシャは瞳をうるうる潤ませてマルガリーテの顔を覗き込む。こうすれば、マルガリーテはきっと頷くと確信を持ちながら。
「……わかった。でも、迷惑なら本当に言ってね?」
「やったー!中期休暇もマルガリーテさんと一緒なんて眼福っす~!いろんなお洋服いーっぱい着てくださいね」
「えっ、そんな、洋服なんて」
「マルガリーテさんに似合いそうなデイドレスとかワンピースとか、いろいろ仕入れてるんすよ!」
きゃらきゃらと笑うナターシャを見て、マルガリーテはあきらめたように小さくため息をつく。こうなったらビスク・ドールになるつもりで、ナターシャに身を任せるしかない。
――寮でひたすら勉強するだけだと思っていたのに。
マルガリーテは、来る中期休暇まであと何日なのかを自然に計算している自分自身に驚いた。
「失礼いたします」
『冬の祭典』まで残り二週間を切ったころ、アドリアンとマルガリーテの最後の顔合わせが実施された。アドリアンは相変わらず折り目正しく、文官クラスに入ったというのに、変わらず余裕のある空気をまとっている。久々のアドリアンに少し緊張しながら、マルガリーテはやはり視線を少しずらして、彼の正面に腰かけた。
「準備は滞りないだろうか」
「はい、問題ございません」
「そういえば、君は文官や侍女は目指さないのか」
「……ええ」
進路について、マルガリーテはナターシャ以外には話したことはない。そもそも、貴族の子女なら、アドリアンが選んだように文官や侍女になるコースを選択する。マルガリーテの選択は、異質と言えば異質だった。進路には触れてくれるなという拒絶のオーラを感じ、アドリアンは話題を変える。
「学年が上がって、授業は問題ないか」
「はい。ナターシャの助けもあって、なんとかなっています」
ナターシャ・コルヴィン。
マルガリーテの口から彼女の名前が出るときだけは、いつもの緊張した声ではなく、少し優しい声音になることを、アドリアンは短い交流のなかで察していた。寮で同室だということ以外にナターシャのことはわからないが、どうやらマルガリーテにとってナターシャは特別な人物らしい。――ナターシャにとって、マルガリーテが「特別」であるように。
試験をはじめ、さまざまな行事に追われ交流の時間がとれなくなったが、アドリアンはマルガリーテのことを気にかけ、いちど彼女に会いにマルガリーテのとっている授業の教室を覗いたことがあった。
「エルムハルト侯爵子息様?」
そのとき、声をかけてきたのが、ナターシャ・コルヴィンである。
通常であれば、身分が下位の者から声をかけることは許されないが、ここは学院内である。生徒どうしの交流の範囲では、多少のマナーは許されていた。アドリアンはそばかすの少女を目に入れ、ぴくりと眉を上げる。
「ご挨拶が遅れ、大変申し訳ございません。わたくし、ナターシャ・コルヴィンと申します。マルガリーテ・ベルニエ伯爵令嬢様の学友です」
ナターシャの名乗りを聞き、アドリアンは「ああ」と言葉を返した。マルガリーテがうれしげに話す友人だと合点がいき、すぐに警戒を解く。
「ベルニエ伯爵令嬢から聞いている。アドリアン・エルムハルトだ」
「ええ、存じておりますわ。なにせ、有名人でいらっしゃいますから」
やや棘のある言い方に、アドリアンの眉がわずかに上がった。
「ところで、何かご用でしょうか?この授業を、エルムハルト侯爵子息様は履修していなかったかと存じますが……」
わざとらしく首をかしげるナターシャに、アドリアンは少し低い声で返す。
「いや、たまたま通りかかったので、ベルニエ伯爵令嬢に会おうと」
「――お約束はございまして?」
ナターシャの慇懃無礼な態度に、アドリアンはやや高圧的に答えた。
「約束など……。私と彼女は『冬の祭典』のパートナーで」
「ええ、『くじびき』で決まりましたね」
アドリアンの圧など意にも介さず、ナターシャはにっこりと笑みを浮かべる。その笑顔の冷たさに、アドリアンは少しだけ寒気を覚えた。
「『くじびき』で決まっただけのパートナーで、婚約者どころか友人でもないマルガリーテ様に、何のご用が?」
アドリアンが言葉に詰まっていると、ナターシャは短く息を吐く。
「『くじびき』のあと、マルガリーテ様がどのような目で見られていたか、エルムハルト侯爵子息様はご存知でしたか?」
口もとは笑顔を浮かべているのに、ナターシャの大きな瞳はまったく笑っていない。
「直接何かされることはございませんでしたけれど……ご自分の影響力をもう少し自覚なさっていただきたく存じます」
「それは……」
「ここで不用意にマルガリーテ様にお声がけすれば、あなた様を憧憬する女生徒たちがマルガリーテ様に嫉妬いたします。――中には、過激な方もいらっしゃるんですよ?」
自分自身の考えが足りないことを指摘されたアドリアンは、ぐっと手に力を入れるのみで、ナターシャに言い返す言葉を持たなかった。
自分が他人からどう思われているかを知りながら、アドリアンは、その影響力にあまりにも無頓着だった。自分のことを良くも悪くも慕う人間が、自分が近づく相手に何かするなど、想像もしていなかったのである。しかしながら、少し考えればわかることだ。父のエルムハルト侯爵に近づくために、足を引っ張りあう貴族たちを見てきたはずなのに。
黙り込むアドリアンに、ナターシャは深く膝を折る。周囲から見れば、平民のナターシャが、高位貴族のアドリアンに最敬礼をしているようにしか見えない。
「差し出がましいことを。エルムハルト侯爵子息様の賢明なご判断に感謝申し上げます」
ここまでされると、アドリアンは何も言えない。もし少しでも反論すれば、それは「貴族が平民を非難した」と映るだろう。新進気鋭のコルヴィン商会を敵に回すことにも繋がる。
「いや、ありがとう。私は失礼する」
――あのときの無力さを思い出し、アドリアンは無意識に拳を握り込んでいた。突然黙り込んだアドリアンに、マルガリーテの顔から血の気が引く。まずいまずいと思案していると、回想から現実に戻ったアドリアンが小さく咳払いした。
「申し訳ない、少しぼんやりしていた」
恐る恐るアドリアンを見ると、いつもの様子に戻っており、マルガリーテは小さく胸を撫でおろす。「冬の祭典」間近にアドリアンにパートナーを解消されてしまっては、ナターシャ自慢のドレスを着て、周囲に披露することができなくなる。
「ところで、君は……」
言いかけて、アドリアンは次の言葉に逡巡した。言いたいことは決まっているのに、なんとなく言い出すことができない。
「なにかございますか?」
「当日は、会場前で落ち合う形でいいだろうか」
「はい、かしこまりました」
模擬舞踏会なので、会場にはエスコートした状態で入場する必要がある。その待ち合わせのことかと合点のいったマルガリーテは、安心したように頷いた。最初のころよりも表情の緩急を見せてくれるマルガリーテを見て、アドリアンの口角がわずかに上がる。
「楽しみにしている」
意外な言葉に驚いたが、マルガリーテは小さく頷いた。
いよいよ「冬の祭典」当日、マルガリーテとナターシャは日の出よりも早く起き上がり、準備のためにあれこれ動き回っていた。
舞踏会で着るドレスは、簡素なワンピースとは違い、着るまでに大変な時間がかかる。もちろんひとりで着ることは不可能だ。侍女のいない生徒たちは、学院が手配するメイドに手伝ってもらうことになる。そうは言ってもメイドの人数は限られるので、あらかじめ学院から提示された時刻に遅れないように貸衣装部屋に行かねばならない。
さらに、メイドたちは着付けは手伝ってくれるが、ヘアメイクはやってくれない。つまり、ドレスを着るまでにヘアメイクは終わらせておく必要がある。そういうわけで、マルガリーテたちは朝早くから準備に勤しんでいた。
まずは湯浴みで身を清め、癖がつかないようていねいに髪を梳かしつける。そうして髪が乾くのを待つ間、メイクをするのだ。
マルガリーテのメイクは、本人よりもやる気満々のナターシャが担当することになっていた。申し訳ないと断ったのだが、「あたしがやるって言ったらやるっす!」と例によって強引にマルガリーテの了承を得たのである。
「さーて、マルガリーテさんを学院一の美人にするんで、楽しみにしててくださいっす!」
鏡越しに笑顔のナターシャを見て、マルガリーテは苦笑いした。
「じゃ、肌を整えるところからやるっすね」
コルヴィン商会で今飛ぶように売れているという化粧水を手のひらにとったナターシャの手が、優しくマルガリーテのほほを包み込む。湯浴みを終えてじんわりあたたかいナターシャの手に、マルガリーテは緊張までほぐれていくようだった。使われている化粧水も、ゆっくりと肌に浸透していくのがわかる。
「マルガリーテさん、お肌もちもち~」
マルガリーテのほほを指の腹でやさしくおさえながら、ナターシャが楽しげに笑う。
「もう、恥ずかしいから」
「ほんとのことっすから!次はクリームを塗って……」
ナターシャはさすがの手際で、マルガリーテの肌に化粧品を載せていく。だんだんと変わっていく鏡のなかの自分に、気づけばマルガリーテの目は釘づけになっていた。
「うわあ、すっごい美人のできあがり!」
ヘアセットまで終えて鏡を見ると、マルガリーテはあまりの変わりように言葉を失った。くっきり上がったまつげに、陶器のようになめらかな肌、唇もぷるぷるで、まるで別人である。
「すごい……特殊メイクね」
「もー!おしろいなんてちょっとしかつけてないんすけど?もとがいいっていつになったら気づくんすかね……」
「本当にすごい……わたしじゃないみたい。かわいい」
自然とこぼれた「かわいい」に、ナターシャはにっこりとほほ笑む。いつも不安げにおどおどしていたマルガリーテはそこにはなく、どこから見ても花も恥じらう美しい貴族令嬢である。
「あ!マルガリーテさん、そろそろ着替えの時間」
「そうね。急がないと……」
「宝飾品は、ドレスのあとにつけてもらってくださいっす」
ずっしりと重い木箱を受け取り、マルガリーテはこくりと頷く。
「あたしも準備終わったら向かうんで、また会場で!」
「うん」
マルガリーテは扉に向かい、ぴたりと立ち止まる。振り返ると、ナターシャが自分の準備を始めようとしていた。
「ナターシャ」
「どうしたっすか?」
「……ありがとう」
マルガリーテの言葉に、ナターシャの顔が紅潮する。
「もー不意打ち……あたしたちは友人なんですから、お安いご用っす!」
「うん、ありがとう。またあとで」
「はーい」
照れ隠しに少しぶっきらぼうに返すナターシャを見て、マルガリーテは寮の部屋をあとにした。
「あのマルガリーテさん見たら、エルムハルト侯爵子息、ぶっ倒れないっすかね……?」
ナターシャの独り言は、誰に聞かれるともなく、静かな部屋に落ちて消えた。
「待たせた、な……」
振り返ったマルガリーテに、アドリアンは思わず言葉を失った。夜会でドレスアップした貴族令嬢など数えきれないほど見てきて、それなりにお世辞の言葉も言ってきたはずなのに、アドリアンはマルガリーテにかける言葉をおよそ見つけられないでいた。
談話室で背中を丸めておどおどしていた令嬢はそこにはなく、背筋を伸ばしてしっかりと前を向いている。間違いなくマルガリーテだとわかるのに、あまりにも気品あふれる雰囲気に、アドリアンは緊張を覚えた。
「驚いた」
「はい?」
「ドレス、よく似合っている」
「ありがとうございます」
にっこりほほ笑むと、緋色のイヤリングが揺れた。それを見て、アドリアンは顔に熱が集まる気がした。
「では行くか」
「はい」
結局気のきいたことは何一つ言えず、アドリアンはマルガリーテをエスコートして会場に入る。まるで絵画のような美男美女の登場に、会場中からうっとりするようなため息が漏れた。
ふだんならば、パートナーがいても気にせずアドリアンに突撃するはずの令嬢たちも、彼の横に立つ圧倒的美を前に足が動けないでいる。もしも横に並んでしまえば、自らの凡庸さが際立ちそうで、なんなら完璧な芸術品を邪魔するなどもったいない気持ちがして、このまま黙って見つめていたいとさえ考えていた。
「――少し、挨拶回りをしてもいいか」
「はい、もちろんでございます」
本来ならマルガリーテから少し離れ、友人たちに声をかけるつもりだったのだが、マルガリーテをひとりにすることがためらわれ、彼女をともなってアドリアンは友人たちに声をかけていく。高位貴族の子息も令嬢も、アドリアンではなく隣にいるマルガリーテが気になるようで、アドリアンから紹介されるとすぐにマルガリーテに声をかけた。
自分は置物のようにそこにいればいいと思っていたマルガリーテは驚いたが、なんとか当たり障りのない返答でその場をしのぐ。貴族子息との会話は、アドリアンの助け舟のおかげで回避することができた。
「すまない、連れまわしてしまって」
「いえ、大丈夫です」
「しかもあいつら、君にダンスを申し込んで」
「さすがのみなさまです。社交辞令がお上手で」
「いや、あれは……」
言いかけて、マルガリーテの誤解を解く必要はないとアドリアンは口を閉じた。ふだんは女はやかましいなどと嘯いていた友人たちが、ことごとくマルガリーテに鼻の下を伸ばしており、アドリアンは妙に苛立ちを覚え、早々に会話を切り上げ、壁のすみに避難していたのである。周囲からの視線をブロックするようにマルガリーテの前に立ち、アドリアンは小さくため息をついた。
「お疲れでございますか?」
「ああ、大丈夫だ」
「もうすぐダンスですから、それが終われば解散ですわね」
無邪気な笑顔で告げられ、アドリアンは顔合わせ初日の自分を心の底から呪った。
「それなんだが――」
言いかけて、学院長の開会の挨拶が始まり、アドリアンとマルガリーテの意識は学院長に向く。開会の挨拶が終われば、ダンスの時間だ。
学院長の話が終わり、楽団の音楽が流れると、マルガリーテがちらりとアドリアンの顔を見る。少しだけ迷って、アドリアンはマルガリーテを伴って会場の中央に移動した。誰も彼もが、アドリアンとマルガリーテのダンスを目に焼き付けようと注目しているのがわかる。
当のマルガリーテは、覚えたばかりのステップを間違えやしないかばかりに気を取られ、周囲の視線にはまったく気づかないでいた。
「聞いてもいいか」
社交のダンスでは、ただ踊るだけではなく、きちんと「社交」を楽しまなくてはならない。マルガリーテは、なんとか意識をアドリアンに向けて、「はい」と返事をする。
「その、イヤリングは」
「はい」
「――似合っているな」
「まあ、ありがとうございます。すごくお気に入りなんです」
恥ずかしそうにほほ笑むマルガリーテに、アドリアンの胸がちりちりと焼けつく。誰に対しても抱いたことのない気持ちに、アドリアンは自分のなかですぐに整理ができないでいたが、このまま中期休暇に入ってマルガリーテとの接点がなくなることだけは避けなければ、という焦りが生まれる。
「中期休暇で、当家に遊びに来ないか」
「えっ」
「領地でとれるカカオを使った菓子があるんだが、どうだろうか」
これまでのマルガリーテとの交流の記憶を必死にたぐりながら、マルガリーテが比較的菓子を好んでいたことを思い出す。本来なら貴族としてもっと手順を踏むべきなのに、アドリアンは反射的にマルガリーテを誘っていた。いつだったか、ナターシャに諫言されことなど、すっかり抜け落ちている。
マルガリーテは少し視線を外し、やがてゆっくりと笑みを浮かべた。
「大変ありがたいお申し出で、とても心惹かれるお誘いです」
その返答に、アドリアンの心が弾んだ。ちょうど曲が終わり、ふたりは向かい合って礼をする。
「じゃあ、さっそく――」
「ですが、申し訳ございません」
マルガリーテはゆっくり顔を上げて、アドリアンの目をまっすぐ見つめる。
「大切な人と大切な約束が入っておりますので」
マルガリーテは、これまで見たことがないような美しい笑顔を浮かべ、うれしそうにそう言った。
コルヴィン家に向かう馬車のなかで、マルガリーテの話聞いたナターシャは心の底から驚いた。
「えー!?なんで断ったんすか!もったいない!」
「あのね、あんなの社交辞令に決まっているでしょ」
「でも、もし本当だったら?それにエルムハルト侯爵領のカカオは本当に質がいいんすよ!チョコレートなんて宝石みたいで……」
しきりにもったいないと嘆くナターシャを見て、マルガリーテは苦笑する。
「だってしょうがないでしょ。わたしには約束があったんだから」
唇をつんととがらせて顔を逸らしたマルガリーテを見て、ナターシャはきゃらきゃらといつものように笑う。
「も~マルガリーテさんって、ほんっと人を沼らせる天才っすね」
ふたりを乗せた馬車からは、コルヴィン家に向かう道中ずっと、少女たちの楽しげな笑い声が響いていた。




